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高い気温と湿度、それから強過ぎる日差しのせいで真っ白に焼かれた視界は陽炎で歪んで見えた。 ふき出す汗にいやます不快指数。 誰もが暑さを逃れて建物内に避難しているのだろう。駅前の僅かな喧騒がなくなると、駅からまっすぐ続く見上げるのも億劫な傾斜のきつい長い坂道には、正午過ぎだというのに奇妙に人影がなかった。 いくら仕事だとはいえ、そこをただ一人登らなくてはいけない自分はかなり可哀想だ。 まともに考えてはやってられない。 私は考える事を放棄して、ただひたすら足元を見つめて坂を登っていた。 だから、と続けるのはいささか乱暴過ぎるけれど、その坂道の途中に突然彼が立っていても、私はちょっとも驚かなかった。
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夏の幽霊
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坂の中腹、バス停側の木陰から滲み出るようにして、彼はごく自然に立っていた。 いつも通りに上下真っ黒な服を身につけているというのに、蝉すら鳴くのを止める灼熱の最中、彼の周りだけは切り取られたように涼やかだった。 些か癇に障る程の爽快さ。 「暑いね」 「そう?」 「うん、とっても暑い」 実際に汗一つかくことのない彼に、あらゆる意味で気温は無縁なはずなのに、つい口をついて出たのはそんな挨拶だった。暑さにのぼせて何も考えていなかった証拠だろう。 酷い皮肉だと気がついたのは口にした後で、直後に私は息をつめてしまい、ますます場の雰囲気を悪くした。 その居心地の悪さを払拭するように、私は慌てて聞かれてもいないことをぺらぺらと喋った。 「この坂の先に次の調査予定の森があるの。実際に調査に入るのは来月からなんだけど、人使いの荒い上司が事前調査に行ってこいとか仰いましてね。まぁそうは言っても私ができることだから周辺の写真を撮るだけなんだけどさ。ほら、欲しいとなると一刻も早く欲しいとなるのがうちの所長だから・・・」 そうして説明の途中で顔を上げると、だらだらと続く長い坂の頂上付近に人影があることに気がついた。 ようやく人と判別できるくらいの小さい影。 やけに頭が大きく見えるのは熱気のせいだろう。とても背の低い・・・・・男の人。 陽炎で滲む先にぼんやりと見える人影にさらに目を凝らそうとすると、すっと、視界を遮るように彼の長い腕が目の前に伸ばされた。 驚く間もなく、そのまま彼は私の肩に腕をまわして回れ右をさせた。 抱かれた肩の後ろから、ぎょっとするような至近距離で、彼は前を見たまま囁いた。 「このまま何も気がつかなかったことにして、帰ったほうがいい」 それでもはっきりと耳に届く心地よいテノールは、粘りつくような汗が流れる首筋に風が撫でるように通り過ぎた。その震えるような快感に私は息を飲んだ。 「ここは思いを残して後悔しているものが同じようなものを呼んで、仲間に入れて・・・気が遠くなるくらい蓄積された厄介な場所なんだ。とても粘着質で性質が悪い」 大切な話をしているのに、私は肩に置かれた手のほうばかりが気になる。 「一緒に駅まで歩こう」 それでも彼は一切構わず、何でもないことのように続けると、心持ち肩を掴む手に力をこめて私を先導した。 掴まれた肩はそこだけ別の生きもののように高熱を発し、登る時はあんなに重かった足は、滑るように、もつれるように、不自然な速さで彼の言うことをきいた。 駆けるように下る坂道。 本能が頭上の太陽のようにじりじりと胸を焼く、これは大切な逃げ道だ、と。 それなのに私はこの逃走が終わってしまうのが惜しくて、親しさが途切れることが悲しくて、早くと急かす本能とは余所にここに居残りたいと強く思った。 彼と一緒に、いつまでも。 どこまでもこの坂道が続けばいい。 意味深な彼の言葉から、考えるべきはたくさんあるのに、沸騰した私の頭の中はそんなことばかりぐるぐる回った。ぐるぐるぐるぐるぐるぐる巡って、そうして、今までと何も変わらず優しいばかりの彼の態度に、ふと、気がつかなくてもいいことに気がついた。 気がついて、それと同時に私はそれを声に出していた。 「そっかぁ・・・ジーンは私と会いたいわけじゃないんだね」 何かに念を残している幽霊なら、願いが叶えば成仏できるはずでしょう。 つまり私は、彼の願いや思考のターゲットに引っかかってさえいないってことじゃない。
気がつけば駅前ロータリーのツツジの植え込みの前まで来ていた。 肩を抱いていた腕は気づかない間に解かれて、黒い靴先の正面が見えた。 一呼吸分の距離ができて初めて、私は顔を上げて彼を見据えた。すると彼は少し首を傾げ、困ったように少し微笑んだ。 黒檀のように深い黒の瞳が思案気に沈み、彫刻のように綺麗な顔に影を落とす。その影の中で形のいい口がゆっくりと開いた。 「そうだね。できることなら会いたくない」 痛い。と、皮膚が条件反射をするように、反射的に涙が内から湧き上がった。 ここで泣くのは卑怯だと理性が必死に声を張り上げるのに、流れる涙は止まらない。仕方がないので私は思い切り良く笑って、汗と一緒に涙を拭った。 「会いたくないだなんて酷い。それともそれは優しいつもり?」 涙は温かくて、汗には温度がない。 そんなことを気づかせる湿気った私の手を取り、彼はゆるゆると笑いながらその手を自分の左頬に寄せた。 「酷いんだよ」 怖いように綺麗な彼の、絹のようにすべらかな肌を汚してしまうと指先が強張ったけれど、私の手は抵抗らしい抵抗もできないまま彼の頬を撫でた。 「とても酷い」 彼の頬は熱くも冷たくもなく、もちろん汗のあとなど微塵もなかった。
気がつけば私は直射日光の当たる電車のシートに座っていた。 余程深く眠っていたのか、水でも浴びたように全身にぐっしょりと汗をかいていた。 慌てて姿勢を正して顔や腕の汗をぬぐいながら周囲を見渡すと、車内には数えるくらいの乗客しかおらず、誰も私に注意を払っている人はいなかった。 車窓を過ぎる見慣れぬ景色をぼんやりと眺めていると電車は駅に停車した。そこで私は初めて目的の駅を乗り過ごしていることに気がつき、慌てて電車を降りた。 クーラーの効いた車内からむっと蒸し暑さがこみ上げるホームに降り立つと、さっきとはまた別の汗が噴出した。しかしちょうど反対のホームに渋谷方面に向かう電車が来たので、ふき出す汗もそのままに慌ててそれに飛び乗り、発車してからその電車が渋谷までノンストップで走る特別快速であることに気がついた。 思わず扉に手をついたが時既に遅し。 いつもとは明らかに違う速度で走り出した電車に私はがっくりと肩を落とした。 出鼻をくじかれ過ぎて、もうやる気なんて微塵も残っていない。 今日はもう諦めて出直そう。 ちょっと・・・と言うにはかなり覚悟がいることだけど、上司の叱責を甘んじて受ければ言いだけの話だ。 ――― なんだか嫌な夢もみたし・・・ 言い訳じゃないのにそうとしか聞こえないことを考えながら、空席を探す気にもなれなくて、立ったまま景色を眺めていると、電車は無情の速さで本来降りるべき駅を通過していった。 ピシピシと弾かれるように過ぎる光景。 その中に私は思いがけない姿を見つけ目を見開いた。 ほんの一瞬のことだが間違えようはずもない。この炎天下に全身黒尽くめはよく目立つ。 " 彼 " が視界を掠めたのだ。 しかしそれと気づいた瞬間、ザワリ、と皮膚が粟立ち、私は思わず低い悲鳴を上げた。 いつもの黒衣を身にまとった恐ろしく綺麗な顔はさっき夢でみたばかりのそれと全く一緒なのに、その表情はゾッとするほどの無表情で、見たこともないような暗い瞳でじっとこちらを睨んでいたのだった。
「 このまま何も気がつかなかったことにして、帰ったほうがいい 」
夢で聞いた彼の声が、別人の声のように薄暗く脳裏に響いた。 あぁ、こんなにも愛しく親しいのに、彼は間違いなくあちらの人なのだ。 死を恐怖するのと同じように残酷なくらい恐怖を感じた私は、悲しむことも恥じ入ることもできずにただ、呆然と立ち竦むことしかできなかった。
2010年8月 『不機嫌な悪魔』 あこ
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