「そうしていると英国紳士のようだね」
極めて控えめな賛辞。
しかし、美しく、若い博士は、それすら迷惑だと言わんばかりに、露骨に顔をしかめた。
「このような服装だけで評価していただけるなら、努力のかいもなく、楽なものですね」
言外に「くだらない」と言う、その不遜な若者に、年老いた博士は小さく笑った。
「研究には社交の場が必要不可欠だよ。自由に研究を進めたければ、少しは愛想よくした方がいい」「・・・」
「まぁ僕は自分勝手な君の方が好きだけれどね。誰もがそう思ってくれるわけではない。少しは大人になることだね、オリヴァー」
老婆心からつい口にした助言に、若い博士、オリヴァー・デイビスはシニカルな笑みを浮かべ、無言のうちに頷いた。実際に口を出して牽制しておいていながらも、老博士はかつてなら、不機嫌も露わになったものを、と、年若い同じ研究家の僅かな変化に眉根を上げた。その変化が好ましいものなのか、俗世にまみれた俗悪なものなのかと、判別できない老博士はその変化に言いようのない不安を感じたのだ。
才知豊な傍若無人なこの研究家を、老博士は愛していた。
彼は未だ未開発・途上発展といわれ、科学のカテゴリにすら属すことを許されていない超心理学という研究分野において、独自に研究分野を切り開き、それを科学で樹立するという、一人の人間では到底なしえないような一見無謀とも思える目的に向かって邁進していた。
彼はストイックに、周囲の雑音に囚われることなく、ただひたすらに溢れんばかりの才知を最大限に発揮して真実を追っていた。そこには人間味も譲歩も存在しない。温かみをそぎ落としたその態度は敵を作る。が、その一方で、そこまでストイックであるがゆえにその研究は大樹するのではないかと、羨望を集めてもいた。誰もがそれは無理と思いながらも、しかし、どこかで、彼ならばそれができるのではないかと、期待している。そしてこの老博士も類にもれず、この若い才能に、その傲慢にも思える態度に何がしかの期待をしていた。
老博士は、彼が唯一無二の兄弟を亡くしたことはもちろん知っていた。
彼の本来産まれ持った破綻した性格では、人間として豊な幸福には中々結びつかない事実も心得ていた。その傲慢な態度ではデメリットが多いことも、もちろん熟知していた。それでもなお、彼は彼の信念を曲げず、その力を発揮してもらいたいと、願わずにはいられなかった。
彼の人生を犠牲にしても、それは大きな成果を残すことだろう、と・・・
それが老いた研究者の残酷なエゴと指さされても構わない。彼にはそれだけの才能があるのだ。
それを妨げるような俗悪な変化は、老博士にとって、面白くあろうはずがない。
彼を甘やかす誘惑や、世事の妥協は邪魔以外の何者でもない。
ふと、老博士は僅かに耳に挟んだ噂を思い出し、その若い博士に尋ねた。
「そう言えば、今日のパーティーには日本支部で調査員にした女性を連れてきているそうだね。何と言ったかな・・・ミズ・モリヤマ?」
あえて誤って発音した名前にか、それともその話題自体が気に染まなかったのか、そこで若い博士は険しい表情を浮かべ、老博士をちらりと睨んだ。
「フルネームは、マイ・タニヤマです」
「随分かわいらしいお嬢さんだそうだね。ラボが大騒ぎになっているよ」
「東洋人がもの珍しいだけでしょう」
「オリヴァーが連れてきた初めての日本人女性だからだろう。ドクターが子どものような女性を連れてきた。彼女は何者だと、君に近寄れなくてやきもきしていた女性陣がおおわらわだ。どうする?ドクター。今まで君に遠慮していた婦人も、ようやく君に媚を売る時が満ちたのかもしれないと手ぐすね引いて待っているよ」
老博士の言わんとしていることを悟り、若い博士は心底うんざりしたように瞼を閉じ、重ねられた質問に一つだけ回答を与えた。
「彼女は僕の一つ下。既に21になります」
「・・・・・そう?」
「パーティーが始まりましたら、ご挨拶に伺いますから、そうスネないで下さい」
そして優雅に微笑み、踵を返した若い博士に、老博士はいちいち目の毒になる顔をすると嘆息しつつ、僅かに微笑んだ。
「オリヴァー」
ドアを開けようとしていた若い博士は、自身への呼びかけに怪訝な顔をしながら振り返った。
「何か?」
その相変わらずな表情を眺め、老博士はにやりと笑った。
「今回連れてきた女性は、子どもでは困るということかね?」
相手は協力者・研究対象者ではなく、女性として扱っているのかと、老博士はカマをかけたつもりだった。
しかし、対する若者はそれすら艶やかな微笑でかわし会場へ向かった。
「そう解釈して頂いても構いませんよ、プロフェッサー」
小さく囁いた若者の呟きを、老博士は聞き逃さなかった。
そこにはまことに彼らしからぬ、他人を巻き込んだ強い意思が潜んでいた。
この人物にそれはありえないだろうと思いつつも、これは女性に現を抜かした表れかと老博士は危惧した。恋愛だけは誰も予想することができない。それで身を持ち崩した人間を老博士は幾人も知っていた。もし仮にそうならば、彼に恨まれてもいい、何とかしてその女性と博士を引き離すのが、彼の人生において得策かもしれない。老博士はパーティー会場に向かう短い時間の中でそんなことまで考えていた。
パーティー会場で見かけた、問題の女性は噂通りの小さな子どものような女性だった。
東洋人にしては、明るい髪、明るい肌、そして明るくくるくる変わる表情をしていた。
そして、誰もが怯えてなしえなかった、あの博士に対して、彼女は叱り飛ばすように怒声をあげ、呆れたように顔をしかめ、くったくなく笑いかけ、彼を、親しみを込め、当然のように慣れた様子で呼んでいた。
「ナル」 と。
その様子を目にして、老博士に限らず、その会場にいた博士を知る者は一様にして驚いた。
若い博士は小さな少女の前で困惑気味に顔を顰めていた。
しかし、その少女の手を決して振り払おうとしない。
それはごく微笑ましい、まるで十代の仲睦まじい男女の姿そのものであった。
人々がいつの間にか持っていた博士に対する 『 孤高の研究者 』 のイメージを、その小さな東洋の少女はいとも簡単に飛び越え、近づき、あの、オリヴァー・デイヴィスに、人間らしい余裕をもたらしたのだ。いかな天才と鬼才といえども、彼は生身の人間で、彼は、まだ二十代にもなったばかりの若者なのだ。
彼が堕落とは別の心温まる人間関係を築く可能性はないように思われていたが、それも周囲が勝手に押し付けていたイメージに過ぎなかったのだ。二人が持つ雰囲気は酷く健全で、どこか明るい方向に向かっていく様子が見て取れた。その様子を見て、迂闊にも陥っていた思い込みに、考え過ぎた自分の浅はかさと品のなさに、老博士は懺悔したいような気持ちにすらなった。
彼の心配は全くの杞憂で、その警戒心は当て外れだった。
「プロフェッサー、お約束どおりご紹介します」
低いテノールが、忙しなく周囲を牽制して硬くなりつつ、それでもどこか得意気に少女を紹介するその様子は、傍目にもかわいらしいものだった。
老博士は皺だらけの顔に品のない笑みが浮かばないよう細心の注意を払いつつ、敬意を持って紹介された少女に握手を求め、少女が僅かに離れた隙に若い博士に囁いた。
「オリヴァー」
「・・・・・何か?」
「彼女はいつ、ミセス・デイヴィスになるのかね?」
先を急ぎ勝ちな老人の質問に、若い博士は僅かに目を見開き、さすがに固まったが、ほどなくすると嫌に美しい微笑をたたえ、小さく首を傾げた。
「さぁ? それこそ 『 神のみぞ知る
』 では、ありませんか?」
老博士は、若く、不遜な研究家のそのあくまで傲慢な態度に声を上げて笑った。
神など信じてなどいないくせに、幸福の欠片を手てした青年が、前よりずっと愛しくて。
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