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Free Short Story
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世界の約束 |
「ドクター・ディビス、今度の調査には私も同行させて下さい!」 アーモンド形の瞳を泉のように潤ませ、意気盛んに声をかけたジェシカに、クロイーは内心で悲鳴を上げた。 惚れっぽいジェシカが目当ての男性に声をかけることは珍しくない。 「私に声をかけられて嫌がる男性はゲイかホモよ」と言い切るジェシカは、確かにその自信を裏付けるだけの魅力的な容姿をしている。肉感的なスタイルに、稲穂を思わせる思慮深い黄金色髪、まるで子猫のようなアーモンド形の瞳は、見つめられると同性でも思わず微笑んでしまうほど愛らしい。しかし、今回ばかりは相手が悪過ぎるというものだろう。 ジェシカが声をかけた相手は、今、トリニティ・カレッジである種最も有名なドクター、オリヴァー・ディビスだったのだから。 優秀にして有能、新進気鋭の若手カリスマ心霊研究家の彼は、オリエンタルな美しい容姿をしている。 その容姿や肩書きにつられて言い寄る女性(もしくは男性)は後を絶たない。 しかし、不用意に彼に近づいた人間のことごとくは、大概二度と彼に近づこうとはしない。 彼が学内において最も有名たらしめているのは切れ味鋭い毒舌家としての、その性格の悪さによるからだ。 言い寄ってきたヴォーグのモデル候補だった女性に対して、公衆の面前で「自宅で鏡を見ている方がマシ」と言い退けた事はもはやカレッジの伝説となっている。 案の定、最上級の笑顔を浮かべるジェシカをドクター・ディビスは一瞥し、簡潔に返事を返した。 「お断りします」 「どうしてですか?私の研究テーマはドクターのテーマと重複する所が多いんです。前期の論文は機関紙に掲載されました。マーク教授の共同論文です。ご覧頂ければ私の知識と研究の有益性がお分かり頂けると思います」 容姿では引っかからないと判断したジェシカは次にスキルを披露し食い下がったが、ドクター・ディビスは思わず逃げ出したくなるような残忍な冷笑を浮かべ、毒をはいた。
「あの程度で?」
「あれは絶対絶対絶対ホモよ!」 頬を真っ赤にしながら声を荒げるジェシカをクロイーはため息混じりにいなした。 「落ち着きなさいよ、ジェシカ。だって“あの、ドクター・ディビス”よ?突然声をかけるなんて気が触れたのかと思ったわよ」 「だぁってぇぇ」 ジェシカは子どものように唇を尖らせ、恨みがましく目でクロイーを見つめた。 「噂だけだったら絶対近づかないけど、この間の学会で彼と2つ隣の席になったのよ」 「あら、そうなの」 「近くで見たらもうすごく綺麗なのよ。東洋人なんて趣味じゃないけど、彼だったらいいわ。すごくセクシー」 夢見るようなジェシカの視線に、クロイーは肩をすくめた。 「でも、彼既婚者よ」 「えぇぇ嘘!彼ってまだ20代じゃなかった?」 「キャリアから考えたらそういう計算になるわね。博士号取得したのは16歳だって言うんだし」 「やだショックゥ」 クロイーの新情報にジェシカは眉根を寄せ、大げさにため息をついた。 怖いもの知らずのジェシカを持ってしても、家庭という存在はリアル過ぎて興を殺がれたようだ。 そもそも移り気の彼女の事だ、この事実で無謀な野望は潰えるだろう。 クロイーは気のない素振をしながらも内心で安堵した。
華やかで女性らしい魅力にあふれるジェシカに比べて、自分は本当に貧相だとクロイーは思っていた。 乾いたような赤茶けた髪に、どこか粘土を思わせる肌色、薄い胸、そのくせ太い足。 気のない素振でごまかしてはいるけれど、自分の外見にクロイーは極度のコンプレックスを持っていた。 ジェシカはクロイーの容姿はそんなにひどいものではないし、背筋を伸ばして、笑って愛想を振り撒けば十分魅力的だと言うけれど、そんなことはとても信じられないことだった。おかげで、例え男性を好きになってもクロイーはそれをひっそりと見つめるだけで、自分から友達になろうとすらしたことがなかった。そんな臆病な自分は少なくともジェシカのことを笑えない。と、クロイーはジェシカを慰めつつ一人ごちた。
クロイーには5つ年上の姉がいた。姉はかつて、スキップして大学に進学する前のディヴィス博士と同級生だった。 当時のデイヴィス博士には双子の兄がいて、クロイーの姉はその兄の方にご執心で、まだ小さかったクロイーを伴っては、彼らが現われそうな市の図書館やカフェに足を運んだのだった。 兄弟は大変綺麗な容姿をしていて、並んで歩く姿は一枚の絵のようだった。 華やかな兄に、陰のようにひっそりと佇む弟。 周囲の女の子の注目は人当たりのいい兄に集中していた。 しかし、幼いクロイーには、華やかな兄よりも、物静かで不機嫌そうな弟の方がより素敵に見えた。 大層美しい顔をしているのに、浮かべる表情は人嫌いと顔に書いてあるような不機嫌顔が無表情。 そういう難があるほうが自分には似つかわしいと、クロイーは一人ひっそりと熱を上げていたのだ。 そう、ジェシカが熱を上げるずっと前から。 一番仲のいいジェシカに打ちあけることができないくらい、クロイーは彼が好きだった。 彼が突然16歳の若さで亡くなった兄を探す為に遠い日本へ行ったと知った時は、ショックで眠れなかったほどだ。 それから彼は8年もの間帰国せず、クロイーはその間にケンブリッジに進学し、彼と同じ分野を選択した。 研究一筋で彼女を作る気がないような彼は、女の子を誰も寄せ付けない。 それはアプローチをしてもしなくても変りない決定事項であるように思えたから、クロイーは安心して彼に恋焦がれていた。 しかし、最近になってクロイーはそんな見解を改めざるを得なくなった。
彼は帰国からほどなくして結婚したのだ。
相手は日本人女性で、結婚後はラボで助手をしていると人づてに聞いた。 きっと似合いの美男美女カップルなのだろう。 そんなこんなでクロイーの長い片思いは不完全燃焼のまま切れた。 その事実はクロイーを苦しめたが、ジェシカのように声すらかけなかった自分に後悔することは許されないことのような気もしていた。 もう少しマシな容姿だったら、事態は違っていたかもしれないけど、こんな外見じゃまず無理だったのだ。 思い浮かぶのは、そんな言っても仕方のない愚痴ばかりだった。
実験室からデータを回収し、分析班に運ぶ途中、クロイーは廊下の真中で右往左往している小さな少女を見つけた。 年の頃は15歳といったところか、東洋系の薄い顔立ちをしているが、アジア圏の人間にしては色素の薄い髪をしていた。 彼女はぐるぐると周囲をうかがい、クロイーを見つけるとぱっと花開いたような顔をして、クロイーの元に駆け寄ってきた。 「 Excuse me 」 たどたどしい訛りのある英語に、クロイーは苦笑しながらも答えを返した。 「 How were you considered to be it? ( どうされました? ) 」 少女は聞き取れなかったのか、困惑したままの表情で、必死に単語を思い出すようにごもごもと呟き、それから実に恥かしそうに一言呟いた。
「 I was lost 」 迷子になった、と。
そのあまりの可愛らしさにクロイーは悪いと思いつつも笑い声をあげ、相手が聞き取りやすいようにゆっくりと簡単な単語を選んで少女に尋ねた。 「Where do you go to? I guide you ( どこに行くんですか?ご案内しますよ ) 」 瞬時に少女は本当に嬉しそうに顔を輝かせ、そこだけはしっかり覚えこんだのだろう、すらすらと研究室の名前を言った。
――― まさか、ねぇ・・・
クロイーは華奢な少女と並んで歩きながら、胸に浮かぶ疑問に頭を振った。 軽い足取りでクロイーの横を歩く少女は、かわいらしいと言えばそうも言えるが、あまりに幼く、特別の美人には見えない。東洋に行けば結構どこにでもいそうな感じの少女だった。 しかし、彼女が告げた研究室の名前はオリヴァー・デイヴィス博士のラボだった。 初めは博士のラボに用事があるだけの客人だろうと、クロイーは思った。 だが、一言二言言葉を交わすうちに、クロイーの胸には何かざわめく予感のようなものが息づくようになった。 英語が得意でない彼女は、一つの会話を成立させるにも酷く時間がかかったが、クロイーの言葉に酷く熱心に耳を傾け、時には身振り手振りを加えて思っていることを伝えようとしていた。しかしその態度に切羽詰った緊張は見られず、絶えず注がれる微笑は、見ている方を巻き込んで思わず微笑んでしまうような温かいものだった。お陰で人見知りする自分でもつい友達のように気安く喋ってしまっていた。くるくると忙しく変わる表情に、心地よい健やかな風のような雰囲気。 それ見つめるうちに、クロイーの直感は次第に説得力をもった確信に変わっていった。
彼女は特別の美人ではない。 けれど、彼女の笑顔は驚くほど大変魅力的だった。
ラボの前では、つい先ほど、ジェシカを手酷く振った問題の博士が、イライラと不機嫌そうな顔で佇んでいた。 それを見た(実は23歳だった)問題の少女は、クロイーにはわからない日本語で何事かげんなりと呟き、肩をすくめた。 そして彼女が何か声をかけようとしたところ、博士の怒声がそれを先回りした。
「麻衣!」 「うぇぇぇ、ナル、ごめんなさい!」 「お前はどこほっつき歩いていたんだ?!」 「や、ちょっとリンさんのトコ行ってきたんだけど、帰り道が分かんなくなっちゃって・・・・」 「こんな単純な造りの建物で?迷子?お前はいくつになったんだ?」 「だって、だって、だって!」
普段は嫌味なほど冷静沈着として知られる博士の呆れたような怒声に、クロイーは驚きのあまり声を失った。 へらりと笑う彼女と対面する博士は不機嫌そうに怒っていた。
「で、ね、彼女に送ってきてもらったの! She guided me !」
突然声をかけられて、クロイーはさっと顔色をなくした。 彼女に紹介され、博士は不機嫌そうな表情を変えることなく、それでもクロイーを一瞥した。 あのデイヴィス博士が自分を見ている。それだけでクロイーの頬は朱に染まった。 迫力ある硬質の視線。それだけで、クロイーの心臓は飛び出さんばかりに跳ね上がり、手には汗が滲んだ。 ただむやみに謝罪してしまいたくなるような高圧的な雰囲気の中、博士は限りなく無愛想ではあったが、クロイーに礼を述べた。
「 My wife was taken care of ,Thank you .( 妻が世話になりました、ありがとう ) 」
近くで見ても惚れ惚れとするような美貌。 その綺麗な顔からビロードのような声が、自分に向かって礼を言っている。 そして彼は確かに " My wife " と告げた。 それはショックな単語に変わりはないけれど、その事実よりもその雰囲気がクロイーの心臓を掴んだ。 " My wife " なんてことはない単語だが、彼が口にするとなんてセクシーなんだろう。 クロイーは耳まで真っ赤になりながら、ごもごもと返事をした。しかしその短い返事すら終わり切る前に、博士はすぐに視線を転じ、彼の妻である彼女の、細い首根っこをまるで猫にそうするようにつまみあげた。
「ぎゃぁ!」 「お前にはハーネスが必要なようだな」 「なんだよソレ?!人を犬扱いして〜」 「とうとう猿より落ちたな」 「そこまで酷くないもん!」 「こんな所で迷子になるヤツは犬で十分だ。さっさと部屋に戻れ馬鹿者!」
信じられない光景だった。 いつもいつもぶっちょう面で、人を寄せ付けようとしなかった彼の側で、彼女は臆することなく彼に微笑みかけ、対する彼も不機嫌そうな表情は昔みたものと大差なかったが、発せられる声は、驚くほど感情豊かで、どこかに親しみすら感じられるほどなのだ。人を罵ることに違いはないが、その様子はあっさりとジェシカを振った時とは雲泥の差だった。 ――― まるで砂糖がけだわ。 クロイーが呆然と見つめていると、彼に引きずられて連行されていきかけた彼女が笑しながらクロイーに手を振った。 「 Thank you very much ( 本当にありがとう )」 つられて、クロイーも手を振りながら苦笑した。 「 You are welcome ( どういたしまして )」 その時、その様子を横目に眺めていた彼が、僅かにではあるが口元を緩めた。 ずっと彼ばかり見ていたクロイーは、その僅かな表情で全てを悟った。
彼は恋を知ったのだ。
この輝くような笑顔に恋をして、彼は永久凍土と思われたその人格を変容させたのだ。 笑顔は、幸福になるための世界の約束事なのかもしれない。 クロイーは分析班の別室に戻る道すがら、彼女の笑顔を真似た微笑みを浮かべながらそう考えた。 何と言っても 『 あのオリヴァー・デイヴィス 』 をも変えたのだから。 その威力は折り紙つきだ。
written by ako (c)不機嫌な悪魔 2006/09/05 |
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