「痛っ・・・・」
ふいに背後から聞こえた小さな悲鳴を耳聡く聞きとめ、ルエラはオーブンを開けようとしていた手を止め、声のした方を振り仰いだ。 小さなキッチンから望めるダイニングテーブルでは、彼女の2人の息子のうち、大人しい方の1人が読書に耽っているはずであった。けれど、転じた視線の先で、その息子は読みかけの本をテーブルに投げ出し、苦痛に顔を歪め、右腕を抱え込むようにして上半身を屈めていた。そしてその白い頬には、見慣れない真新しい擦り傷が浮かび上がっていた。
「オリヴァー?!」
突然の息子の急変にルエラは慌てて台所を飛び出し、咄嗟にその肩に手をかけた。 けれどそうして触れられたことによって、ナルはびくりと体を揺らし、反射的に固まった。その反応にルエラは息を呑み、慌てて自身の手を引いた。 多様な意味でナイーブなこの息子は、突然他人に触れられるのが苦手だ。 そのことがどちらにとっても辛くないわけではないが、それで彼を責めることはしたくないと、ルエラは引いた手を持て余しながらも、じっと辛抱強く息子が落ち着くのを待って、それから慎重に声をかけた。 「大丈夫?」 触れられない分余計に柔らかく囁かれる声に、ナルは厳しい表情を浮かべたまま、それでも何とか頷き返し、それからややあって大きく息を吐いた。 「大丈夫・・・・心配しないで」 「でも、頬にキズができてるわ。手も痛いんでしょう?何があったの?」 指摘されて初めて気がついたのか、ナルは自身の頬に指を這わせ、そこに細い引っかき傷ができているのを確認し、嫌そうに顔を顰めた。 「僕は何もしていない」 そして最も痛む右手の袖をめくり上げ、そこにできた真新しい痣を確認しながら、少し困ったような、小さな苦笑をもらして肩を竦めた。
「 たぶん、ジーンだ 」
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9月19日、曇り。
その日10歳の誕生日を迎えたユージーン・デイヴィスは、双子の弟にプレゼントしようと切り立った崖の側に自生していた花を摘もうと試み、バランスを崩して転落した。 幸いにも転落場所には落ち葉が深く敷き詰められていた為に命に別状はなかったが、その衝撃で彼は右腕を骨折し、顔や手足に深い切り傷を負った。 人通りのない崖下で身動きの取れなくなっていた彼を見つけたのは、何故か同時刻に同じ右腕に青痣を作った双子の弟だった。そうして彼は弟と一緒に駆けつけた養母の手によって、病院に担ぎ込まれた。
病院で処置を受けている最中、冷ややかな眼差しで睨み続けていた双子の弟、ナルに向かって、ジーンは小さな声で弁解した。
「ナルの、誕生日プレゼントにしようと思ったんだ」
そう言って視線を落としたジーンの手元には、崖から転落しても話さなかった戦利品が握り締められていた。ナルはちらりとそれに視線を這わせ、それからジーンの右手を固定する真っ白なギプスを見比べ、心底面倒そうに顔を顰めた。 「誕生日?」 「誕生日ってそういうもんじゃないもん」 「それはジーンが勝手にそう考えるだけ。 僕には関係ない」 苛立つように声を荒げるジーンに、ナルはさらに冷ややかな視線を投げつけた。 「それで?僕が草花に興味がないのは知ってるのに、こんな花をプレゼントに?」 「こんな・・・って!ナルは知らないだろうけど、これって中々咲かないんだよ!?」 「僕から見ればただの花だ」 不服そうにそっぽを向くジーンに、容赦のない弟は止めを刺した。 「それで崖から落ちて怪我?僕までとばっちり受けてこのザマだ。どこがプレゼント?嫌がらせの間違いだろう?」 その言葉にジーンはぐっと声を詰まらせ、ちらりとナルの右腕に張られたシップを盗み見て両眼を潤ませた。 迷惑だと言われても、たった一人の兄弟なのだから誕生日は少し特別なことをしたかった。それだけで良かったはずの本当にささやかな望みだったのに、僅かな油断がそれを台無しにしてしまったのだ。思いの他足場がぬかるんでいたとか、咄嗟に掴んだ枝が脆かったなどは言い訳でしかない。不注意が招いた怪我なんて、自分達双子にとっては、本当に嫌がらせとしかいいようのない事態なのだから。 ジーンは零れそうになる涙とため息を何とか堪え、唇を尖らせ、顔を横に背けた。
ユージーンとオリヴァー。 ユージーンが風邪をひけば、オリヴァーも体調を崩す。 オリヴァーが火傷をすれば、ユージーンも同じ所に痛みを感じる。 そういった身体の同調はその最たる例で、この兄弟においては頻繁に発生することだった。 経験則によって嫌と言うほどそのことを思い知っている本人らには、その結果として、痛みの共有化という特殊な価値観が生まれていた。 自分がおった痛みはそのまま兄弟に分け与えてしまうものであり、また、兄弟の痛みは引き受けなくてはいけない類のものなのだ。だからこそ、自分の体や精神が自分だけのものではないという考え方はこの関係では至極当然の考え方だった。 相手を思えばこそ、無茶をしない。 無茶をする時は、相手も巻き込む覚悟をしておく。 それが双子の暗黙の了解だった。
ずん、と、音が聞こえるように落ち込むジーンに、ナルはさらにため息を重ねた。 ポーカーフェイスが苦手なジーンの心中を推察するのに、特殊な能力は何一つ必要ない。 今は共感してもらえない悲しさと、頓挫した計画に悔しさ、加えて自分にまで怪我をさせてしまったという後悔に苛まれている最中なのだろう。 ナルはそう推察しつつも、下らないと、無常にもジーンの感傷を断罪した。 後悔するくらいなら、そもそもこんな無茶をしなければいいのだ。 自分にはいまいちよく分からない感情や価値観に振り回されるジーン。 悔やんで改心できるなら、そうしてくれた方がいいし、その方がジーンにとっても有益だと心の底から思っている。が、このままジーンが落ち込んでいくのはそれ以上に不愉快だった。 ナルはうな垂れるジーンを見下ろし、ため息混じりに、ぽん、と、その頭を小突いた。
――― 今日はジーンの誕生日でもあるわけだしな・・・・
そうしてある種の妥協を持って、ナルはジーンの手から小さな花を奪い取り、どうしたのか、と、自分を見上げるジーンに諭すように唱えた。 「そもそも "プレゼント" は相手が喜ぶことをするんだ」 そして、ジーンの耳に口を寄せ、囁いた。
「貰ってやるから、喜べ」
不遜にもそんなことを言うナルに、ジーンは呆れて大口を開けた。 けれど、情感的に多大なる問題を抱えるナルなりの優しさに、ジーンは耐え切れないとゆるゆると破顔した。そうして浮かべられた笑みは本当に嬉しそうだったから、多分に不本意そうではあったれけど、対面するナルも僅かに頬を緩めた。
9月19日、曇り。 10歳の誕生日。
これはまだ、双子が側にいれた頃のお話。
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2007.9.19 不機嫌な悪魔 あこ |
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