綿密な数値データが添付された調査報告書は後日郵送で届いた。

その後必要があれば説明するとのことだったが、部門長はその内容だけで満足し、関係者になにがしかの電磁波対応をしろと丸投げの指示を下すと、臭いものに蓋をするように心霊調査の件には一切触れなくなった。 

個人的な連絡もなく、香奈と渋谷サイキックリサーチとの縁はそこで一旦潰えた。 

  

 

   

   

   

     

  

  

  廃墟の夢

 

 

    

    

     

  

   

    

   

 

香奈が次に彼らを見かけたのは全くの偶然だった。

 

   

   

   

   

    

     

    

    

   

    

季節が巡り、新緑の季節。

1年程前に提出した社内論文が評価され、香奈は海外研修の一員に選出された。

研修に参加するメンバーは全国から集められるため、集合場所は現地空港。同行者も全く面識のない社員で、出発前の香奈の気分は孤軍奮闘、実際に現地に到着するまでは一人旅だった。

念には念を入れて2時間前に空港に入り、荷物を預けてからカフェに立ち寄り、飲みたくもないコーヒーをオーダーして席についた。

一週間の海外研修を楽しむ余裕なんてまるでなく、柄にもなく緊張してコーヒーカップを握る指が震えていた。

高揚感と不安と焦燥感で早打ちする心臓をなだめようと、香奈は何気なく周囲を見渡した。

その時に初めて、香奈は隣の席に座るカップルが所長と麻衣だと気が付いたのだった。

半年程のブランクはあるがそうは忘れられない顔立ちの御仁だ。見間違えるはずはない。

ドキリと、心臓が鳴った。

なぜ、どうして、とは思ったがそれ以上に何故だか無性に嬉しさが込み上げてきた。

まるで大好きだった昔の片思い相手に再会したように。

声をかけようか悩んだが、最初のタイミングを外してしまったので中々その勇気も出ず、香奈は気が付かなかったふりをして急いで研修資料をテーブルに広げ視線を落とした。

香奈に背を向けるようにして座っているため、栗色の髪をした女の子、つまり麻衣の表情は見えなかった。正面に座る所長は顔こそこちら向きだが、相変わらず手元の書類から視線を外そうとしないのでこちらを見ることはなく、どちらも香奈に気が付いていなかった。

しかしそうは言ってもそこで冷静に文章が読めるわけもなく、視線はついつい所長の顔を盗み見し、耳はついつい麻衣の高い声にそばだててしまう。

そこで聞こえてきたのが、麻衣の愚痴だった。

「大丈夫かねぇ・・・」

香奈の視線など気が付く訳もなく、麻衣は何度かそう言うとテーブルに頭を擦り付けた。

しかして所長は完全無視を決め込んでいたので返事はなく、ほどなくして麻衣は焦れたように顔を上げて語調を強めた。

「ね!」

「・・・・何が」

そこまでされてようやく面倒そうに返事をした所長に、麻衣は飛びつくように話を始めた。

「だからさぁ、色々。あっちで私が通用するのかね」

「日常会話くらいはできるだろう」

「言葉じゃなくて!!いやまぁ・・・言葉も限りなく不安だけどさぁ。そじゃなくて、仕事も一から覚え直しなわけじゃん?」

「通用してもらわないと困る」

「そりゃ頑張るけどぉ」

「ベースが物覚えの悪い頭だから画期的な活躍は最初から期待していないが、犬よりは役立つようにしこんである。なんとかなるだろう」

通りのいい毒舌が淡々と麻衣を切って捨てる。

そのあまりの小気味良さに、香奈は吹き出すのを必死になって堪えた。

「人を犬呼ばわりするなぁ!」

「猿ほど進化したのか?」

「猿でもなぁぁぁい!!!!」

「…猪だったな」

「違わい!」

最終日に目撃した姿そのままに二人のやりとりはポンポンと高速で進んだ。

それでいて所長は手元の書類から視線を外すこともない相変わらずの無愛想ぶりだ。

正面で見据えるには怖過ぎて心臓に悪いが、横から眺めるには面白いと、香奈は今更ながらのことに感心しながら、どうしても歪んでしまう口元を隠すべく書類に顔を伏せた。

一心に何かを読んでいる所長は相変わらずぞっとするほど綺麗で、探せど探せど粗など一つも見当たらない。その完璧な美しさは今更ながらに香奈の胸を切なくさせた。

貧乏くじだと思っていたあの仕事。

極めて短い期間だったが、それでもあの間は特殊で、ちょっと幸せだった。

不謹慎で、極めて思い込みの強い自己満足の極地だと判断できる理性は残っている。けれどいつの間にかそこは、香奈のパラダイスになっていた。

安原には原真砂子という彼女がいて、あろうことかナルシストの所長にまでも彼女がいた。それはそれでショックだったが、それを差し引いてもドキドキさせられる環境だった。

終わってしまって悲しかった。

そう思われるのも迷惑な話だとは思うが、偶然ながらこうしてまた再びその人の顔を見ると正直そんな不満が胸を占めた。

大人なので子供みたいに拗ねることはできない。だからこそ持て余す気持ちに、香奈は悔しいようなやるせない気持ちになった。

羨望の先、着地地点はどこを探せばいいのだろう。

自分はいったい何がしたかったのだろう。

どうしようもなくそのまま終わってしまったことに、後悔は、あったのだろうか。

考えがそこまで及んで初めて、香奈は2人の状況に疑問を持った。

この会話の内容からすれば、2人の間に何か重大な変化があったことが分かる。

麻衣が“仕事”と言ったのだから、少なくとも出会った頃のような、雇い主と学生バイトではなくなったのだろう。時節から考えれば、彼女は大学を卒業し就職したと考えるのが自然だ。

場所柄から考えれば、新天地はきっと飛行機で移動しなければならないような遠方で、そこに所長が見送りにでもきたのだろう。

そこまで考えると自然、香奈が2人を見守る目線は変わった。

遠距離は大変だろうと想像するのは簡単だ。

「頭が悪くて容姿も能力も目立った所がない」

「あ・・・う」

「冷静沈着とは正反対。コネも後ろ盾もない」

「・・・・・」

「そんな麻衣の価値を他者に理解させるのはほぼ不可能だろう」

香奈が考える通りなら、今は恋人としてのターニングポイント的なタイミングだろうに、所長の態度はあくまでそっけなく、冷淡に解説されるおよそ恋人とは思えない言葉の数々に、香奈の笑みはいつの間にかなくなった。

ここにきて香奈は初めて所長に嫌悪感を覚えた。

美術品のように綺麗な顔をした所長が吐く無愛想毒舌は、ナルシストっぷりも板について見ていると胸がすいた。特に麻衣は所長にしてみれば最も気安い女性なのだろう。発揮される毒舌は生き生きとして冴え過ぎるように冴えている。

しかしそれにしたって女の子に対して、最低限のデリカシーは必要不可欠だ。

いくらなんでもあんまりだ。

同じように麻衣の返事も消え去り、その沈黙は涙か怒りを含んでいるように思われた。そうと視線を上げると、小さくなった麻衣の肩越しにようやく顔を上げた所長の陶器のように白い顔が見えた。拗ねたように横を向いた麻衣を見下ろし、所長はその白い顔を1ミリも歪めることなく言葉を続けた。

「しかし、僕にとって麻衣は価値がある」

通りのいいテノールが、香奈の耳までその言葉を届けた。

驚いて香奈が顔を上げると同時に、恐る恐ると言った体で麻衣もまた正面に顔を向けた。そうして自分に向けられた顔を見つめ、所長の形のいい瞳は僅かに細められ弧を描いた。

   

 

「今後の生活にそれ以上の保証が必要か?」

   

   

微笑、とも名づけられないぐらいの些細な笑み。

しかしそれはかの所長のものだけに、それだけで視線を奪うには十分だった。

人知れず香奈が呆けている間に、所長は手元のティーカップを口に運び、顔を顰めつつ中のものを飲み下した。

思わずごくりと喉が鳴る。

唇がカラカラに渇いてカサカサする。

祈るような気持ちでその様子を見守っていると、所長はカップを持ち上げたまま、底にある文字を読み上げるように実にそっけなく言い放った。

「僕の側にいると決めたんだろう?踏ん張れ」

2人の会話はそこで途切れ、しばらくしてリンが店の入り口に顔を出すまで再開することはなかった。おそらく待ち合わせしていたのだろうリンの顔を見ると、2人は言葉少なに席を立ち、最後まで香奈に気が付くことなく店を後にした。 

方向的に向かったのは国際線。

香奈が知り得たのはそこまでだった。  

   

 

   

  

    

 

 

    

  

冷静になってよく考えればわかる。

そもそも矢面に立つ度胸もなかった。

側で見ていられればそれで幸せだった。

自分に都合のいい、自分好みのものだけ見ていたかった。

親しい間柄から感じられるのは優越感で、狂おしいように愛しさが込み上げるのは無責任のなせる技。

そんなレベルの好意を何と呼ぶか知っている。

ファン心理だ。

アイドルに恋い焦がれるそれと同じ。

そうして名前を付けてしまえばよく分かる。

香奈は安普請のカフェテーブルにつっぷしたまま、じたじたと小さく足踏みした。

恋人がいるのは正直ショックだった。

でも、今はそんなことはどうでもいいと思えるくらいのレベルになっている。

そこに自分好みの恋愛の形があるというだけで、なぜか嬉しい。

香奈は赤くなっているだろう耳を両手で塞ぎ、その熱さににやけた。

優しくしているならいい。

特別な恋ならいい。

どうせ見るだけならそういうのがいい。

彼女だけが特別で、チープなものに浮気しないで、絶対に裏切らないようなものだといい。

香奈はそこで我ながら阿呆らしいと苦笑した。

自分がこんなにもロマンチックに、中学生みたいに恋心にはしゃぐなんて信じられなかった。

でもあの廃墟で出会った彼らはそうなってもおかしくないくらい、やっぱり魅力的だったのだ。そう開き直ってしまえば自分の年も常識もプライドも全て無効化した。

純度が高くて熱は持て余すぐらい熱い。

手には届かないけれど、自分にそういう気持ちがあること自体が、酷く幸せだった。   

「また会ってみたいかも」

思わず口走ってから、香奈は肩を竦めて嫌に清々しい気分で空を仰いだ。

  

 

 

 

   

END