六畳ほどの所長室。
壁には天井までびっしりと専門書が並び、窓際に近い場所に大きなデスクがある。
窓を背にして一人がけの椅子があり、デスクを挟んで対面するように小さなソファベッドがある。かつて瞑想と呼んでいた、つまりナルの深度の高いサイコメトリ時に使用していた仮眠用ベッド。
トレーニングはまずそこに座ってナルと話をする事から始まる。
前回の反省、良かったイメージ、本日の体調、簡単なカウンセリング。
それからソファに横になって、麻衣が乙女の意地で持ち込んだ毛布をかけて、できるだけリラックスしてトランスの準備に入る。
"睡眠"という行為の為、よほど上手くやらないと麻衣は自分でトランスができない。
その為訓練ではナルが暗示をかけ、徐々に睡眠状態に入るトレーニングを行った。
調査用に購入した小さなパイプ椅子にナルが腰を下ろす。
最小限に明かりの落とされた所長室では、小さな物音がよく響く。
キシリと、椅子がきしむ音がする。
そこから"睡眠"が始まる。
自分の不自然な呼吸音が気になって恥ずかしいと麻衣が訴えれば、それは良い、呼吸に意識が集中している証拠だとナルが褒める。
実際にトランスが必要になる場では、何も準備ができないことがあるかもしれない。
ロウソクも、メトロノームも、毛布も、いざという時にはないことがあるだろう。
だからできる限り必要要素というのはない方がいい。
しかし眠るきっかけを掴むためのセンテンスというのは必要で、それに呼吸は適している。眠るためには息をしていなくてはいけないのだから。
そう言われると麻衣は特に疑問にも思わず、無条件で安心する。
そうか、それでいいのか。と。
「今日の日付を確認したところで突然思い出した。それから泣き出して止まらなくなった。・・・・今日は命日ではなかったはずじゃないか?」
ナルが不思議そうに日付を再度確認したところで、麻衣はああ、と、ため息をついた。
「すっかり忘れていた。誕生日だ」
「は?」
「お母さんの誕生日!今日誕生日なの。それで思い出しちゃったんだぁ・・・」
乾いた目尻を擦りながら、麻衣は小さく苦笑した。
「ごめんねぇ・・・寝てるから無防備過ぎるね。そんな時に思い出したらそりゃ泣いちゃうわ。面倒臭かったでしょう。そりゃ随分時間経ったから生傷って程リアルじゃないけど、お母さんは私の弁慶の泣き所だもん。あ、弁慶の泣き所って知ってる?アキレスの足首みたいな意味なんだけど・・・なんつーの?どんな人間にも弱点はあるって意味で・・・」
誤魔化すように饒舌になる麻衣を、ナルはため息一つで黙らせた。
止まった舌は引っ込めるしか方法がない。
落ちてしまった沈黙は取り返しがつかないもののように重い。
気まずくなって、麻衣は毛布を顔まで引っ張り上げた。
どういう顔をして、どんな復活が一番自然なのか分からない。
泣いてしまったけれど、今は同情や憐憫が欲しいわけじゃない。
ある意味平気で、ある意味やはり弱点で、簡単には触って欲しくない。
ちょっとすれば腹の底をえぐってしまうような話題ではあるのだから。
「母親を亡くした経験はいずれ役に立つだろう」
毛布越しに低いテノールが無感動に感想を述べた。
「悲しみや苦労は経験しないと分からない」
麻衣はしばらくナルの言葉を頭で転がし、それから少し苦労して口を弧の字に曲げた。
「あれみたいだね。若い頃の苦労は買ってでもしろっての」
「そんなものだ。良かったとは言わないが、麻衣の強みにはなる」
「うん」
「だが、だからといって一々それに過剰反応していては危険だ。そもそもトランス状態において自分の感情だけに振り回されているのが未熟なんだ。この僕がトレーニングもしているんだ。もう少しコントロール方法を身に着けろ」
「・・・・・あい」
それから心底呆れて、麻衣は苦笑しながら顔を出した。
正面には真っ黒な美人が、深い闇色の瞳を細めて麻衣を覗き込んでいた。
真っ黒な瞳は焦りや動揺で揺らぐことはない。
決して揺らがないナルのその硬質さは、麻衣を酷く安心させる。
「もう大丈夫だな」
「うん。へーき」
「来週の木曜は父親の誕生日?祖母の命日?」
ナルなりのジョークに、麻衣は今度は心の底から笑って首を横に振った。
対して、まるで何もなかったかのように無感動にナルは告げた。
「では、次回は来週の木曜日に」
それで終わりとばかりにナルは手元のリモコンで照明を一段明るくし、音もなくすっと立ち上がると、ごく自然に麻衣に手を差し伸べた。
例えばこうしたふとした行為で。
2人きりのトレーニングがドキドキしないわけじゃない。
けれど真砂子や滝川の指摘するそれはまるっきりの杞憂だ。
緊張するのはナルが破格の美人で、安心するのは性格が悪いから。
こうしてナルに気遣われて嬉しくなるのはきっと、仕事ばかりでなく、恋愛ではなく、ごく近しい人として扱われるからだ。それは多分何よりも得難い。
麻衣は腹の底に沸く優越感に似たものにこっそりとにやけながら、差し出された手を思い切り強く握った。
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