人影もまばらなフロントを抜け、晴人は観客席に続く階段を全速力で駆け上がった。

キュッと、リノリウムの床とスニーカーが擦れて鳴る。

その音に急かされるように薄暗い通路を抜け、晴人は突き当たりの扉に手をかけた。

古めかしい金属製の扉が開くと同時に、塩素独特の臭いが鼻をつき、一気に開けた視界の先には、鮮やかな明るい水色に統一されたプールが飛び込んでくる。

プールを囲む蛍光灯の眩しさに、晴人は思わず目を瞑ったが、すぐにプールサイドを視線を転じ、未だスタートを切っていない選手たちを確認し、ほっと安堵の息を漏らした。

                               

                                     

                                   

                           

                                      

第1話 : 僕のヒーロー

                                    

                                       

                                           

                                           

                                  

館内アナウンスが本日最後の自由形決勝を告げると、観客席からは大きな歓声が上がった。

ハイスクールの地区大会であるにも関わらず、客席は多くの女の子達で賑わっていた。

そしてアナウンスがスタート地点に立つ選手を1コースから順番に紹介し、それが4コース目の選手になった途端、その観客からは一際高い歓声が上がった。

                   

                 

「4コース、***** スクール、ユート・デイヴィス」

                    

                       

悲鳴のような歓声に、それが向けられたであろう優人は煩げに手で払うジャスチャーをした。

――― その態度が大騒ぎに火に油って自覚あるのかなぁ・・・

不遜な態度を隠そうともしない兄に呆れながら、晴人は何とか空いた席を見つけすべり込んだ。そうして硬い座席に体を預けた瞬間、鋭くホイッスルが鳴り、会場中から歓声が沸きあがった。

立ち上がらんばかりの勢いで観客の視線がプールに集中する中、晴人はただ一人膝の前で両手を合わせ、探るように瞳を閉じた。

キン…と、金属がぶつかるような、奥歯が痛む音が脳に響く。

と、同時に晴人の意識は白い水しぶきを上げて泳ぎ出す選手全員を捕らえ、次の瞬間、晴人は自分の意識を偽物のような水色をした水中に潜らせた。

1コースから最終コースまで、時間にして僅か2秒。

瞬きするほどの短い時間で、晴人は撫でるように一瞬ずつ選手の意識を覗いた。

" 意識 "と表現するには語弊があるかもしれない。

それで分かるのは、選手の考えでも体調でもない。かといって精神状態と言うのも少し違う。

あえて言葉を当てはめるとすれば、それは選手達の " 意識の状態  "  を確認しているということが近い。

誰にも共感してもらうことはない、晴人だけの感覚だ。

しかしこの場で晴人が確認したかったのはそれだけだった。

 " 意識の状態  "  が他人の干渉や自分の体調に左右されず、良好でありさえすれば、人はその時自分の実力を存分に発揮できる。

――― 大丈夫、いつもの冷静な優人だ。

言葉ではうまく説明できないその感覚を確認すると、晴人は瞳に込めていた力を抜いて、ぼんやりと屋内プールの天井を振り仰いだ。

心配はいつも杞憂で終わる。

自己を律する精神力が強い優人は、メンタル面でそうそう崩れることがない。その状態で、優人本来の実力が発揮されれば、もはやこの地区で優人に敵う水泳選手はいないだ。

晴人がそう独りごちていると、どこかで興奮した女の子が絶叫した。

「ユート!かっこいい!!愛してるぅ!!」

感極まった女の子の絶叫に、観客席からは失笑が漏れた。

物思いに沈んでいた晴人はその声に我に返り、それから同調するようにひっそりと頬をゆるめた。

――― もちろん優人はかっこいい。今日も優人は1を取るんだから。

そんな晴人の確信を裏付けるように、軽快にターンを繰りかえした優人は、誰よりも早くゴールに辿り着いた。

                      

                      

                            

                        

                   

基本的にマイペース。

自分勝手で団体競技が大嫌いな優人は、ほとんどのスポーツや課外活動に関心を示さなかった。

ただし個人競技の水泳だけは性に合ったらしく、5歳でスクールに通い始めてからずっと熱心に練習を続け、16歳の今では地区大会の優勝の常連となり、強化選手に選ばれるようになった。

その抜きん出た実力のため、優人の知名度は年を追うごとに拡大の一途を辿っていた。

――― まぁ、実力だけが人気の秘密じゃないんだろうけどね。

晴人はそんな兄の姿を朴づえをついたまま目で追った。

プールサイドに上がるとすぐ、優人慣れた手つきでグレーのキャップと黒のゴーグルを外した。

近年ますます父親に似てきた白皙の美貌に、濡れた漆黒の髪がかかる。

その怪しげなまでに優美な容姿に、観客席からはため息ともつかない声が漏れた。

実力よりもむしろ、その整い過ぎた彼の容姿が多くの女の子の関心を集めるのだ。

だが皮肉にもその美貌は彼が最も嫌悪する父親に酷似したものだった。

そのために優人本人は自分の容姿を全くの価値がないものと見なしていて、お陰で彼を外見だけでもてはやす女の子にまるで関心がなかった。

それを体言するように、優人は盛んに観客席から叫ばれる自分の名前に振り向こうともせず、そのままプールサイドを横切ろうとしていた。

しかし、すれ違ったチームメイトに何事かを耳打ちされると、優人はゆっくりと観客席に視線を転じた。

そして群集の中にいた晴人と目が合うと、自身の優勝にも眉一つ動かさなかった顔を緩め、ひらりと軽く手を振り、微笑んだ。

つられて晴人が手を振り返すと、晴人は最前列で大騒ぎしていた女性陣に怖いような視線で睨まれた。

その苛烈な視線に内心で冷や汗をかきつつ、それにも晴人はにっこりと微笑み返した。すると、そんな晴人の態度に、睨みつけていた女性陣は顔を寄せ合ってひそひそと囁き始め、その会話が晴人の耳に入った。

「何、あの子」

「まだ子どもじゃないの」

「あら、知らないの?あの子、ユートの弟よ。妹と同級生なの、今年13歳のはずよ」

「あ、そうなんだ」

「なぁんだ」

「すっごいかわいい子ね!女の子かと思っちゃった」

それが心の声なのか、実際に音に出た声なのか、生きている者の声なのか、死んでいる者の声なのか、この雑踏の中ではそれすら晴人にはよくわからない。しかし、誤解された罪のない嫉妬とはいえ、真正面に向けられる悪意が痛いことに変わりはない。

晴人は浮かべた笑みを顔に張り付かせたまま座席を後にし、試合後の待ち合わせ場所として約束していたホールに向かった。

                       

                 

                        

                           

専門家の父でさえ明確な名称を付けることができない、自分の特質を説明するのは酷く難しい。

                           

                      

                              

                       

晴人は年に似合わない自嘲の笑みを浮かべつつ、人気のないホールのベンチに腰を下ろした。

父は心霊現象研究家で、破格のサイキック保持者にして、優秀なサイコメトリスト。

母は先天的センシティブで、夢を介して様々なものを視る能力者。

そんな両親の特異な性質を長男である優人は何一つ受け継がなかったが、次男の晴人は安定しないサイキック能力と霊媒体質を受け継いだ。

ただし、サイキックと目されていた能力は、晴人が自覚する前に消え去ってしまったため、現在の晴人には霊視・霊感能力があるのみとなっていた。

優秀な霊媒と同じようなものも見る。

しかしそれ以上に、晴人の目には様々な命あるものが写り、耳にはたくさんの音が届き、肌は他者の感情までをも感じ取り、ありとあらゆる情報を認知した。

それが晴人本人の口によって証言されてから、専門家である父親は様々な実験を試み、何とかそのメカニズムを解明しようとしているが、それは未だ結論をみない。

だが、理屈がわからなくとも、その能力は晴人の体内に宿り、深く浸透し、その能力のために、人よりたくさんのものを見聞きし、豊かな気持ちになったり、恐怖に震えたり、混乱に陥っていることもまた事実だった。

そして成長期を迎えた現在、その能力は最盛期を迎え、日常生活に支障がでるほど肥大化していた。

                       

                           

                       

晴人は視界の端にチラチラと現れるやけに頭部の大きな女性を見つめながら、ほっとため息をついた。

害意のある死人ということはそこから漂う濁った空気でわかった。

けれど今日は側に優人がいる。

「ここにはいない方がいいよ。もうすぐ、優人がここに来る。そうしたら問答無用でぶっとばされちゃうから」

晴人は女性の霊を刺激しないように穏やかに声をかけた。

しかし女性の霊は声をかけた途端、意味不明の叫び声を上げ、床をぶち抜く勢いで全身を床に叩きつけて暴れだした。鼓膜を破らんばかりの不快な怒声と衝撃音に、晴人は辟易しながら両手で耳を塞いだ。

                        

                          

                       

兄の優人に霊感はなかったが、彼には晴人に害を及ぼす雑多な霊を無意識で追い払うという特質があった。

どれだけ意地の悪い浮遊霊が側にあっても、優人はそのどれよりも力強く、目が覚めるような光を発してそれらを一瞬で追い払うことができた。そのために、晴人は小さい頃はいつも好んで優人に抱きついていた。

晴人にとって優人の側は一番心地良く、どこよりも安全で、天国みたいな所だった。

だから能力がどれだけ強くなり過ぎても、晴人は優人の側にいれば安全だった。

生きているものからの干渉からは逃れることはできないが、少なくとも優人が側にいる限り、死んでいるものからの干渉はシャットダウンできる。それだけでも晒される情報は半分に減り、晴人の負担は格段に減るのだ。

霊感のない優人にその自覚はなかったが、ある霊媒師からその事実を教わってからというもの、晴人を守ることが自分の役割だと言うように思うようになり、優人は晴人を特別に庇護する兄になった。

そしてそれは今現在も続いている。

 

                       

―――――― けれど 

                       

 

晴人は側のガラスに映った幼い自分の姿を眺め、耳を塞いだ両手をさらにきつく頬に当てた。

その柔和な容姿からよく 『 女の子 』 と間違えられるが、メンタル的には間違いなく晴人は 『 男の子 』 で、多感な思春期を迎えた今になっては、それなりの自尊心も芽生えていた。

いつまでも誰かの影に隠れて守られてばかりいるのは、 『 男の子 』 としてみっともない。

『 お兄ちゃん子 』 のレッテルはそろそろ剥がしてしまいたい。

それが今の晴人の本音だった。

                   

                      

「 晴人! 」

                       

                     

その時、変声期を終えて随分低くはなったけれど、通りのいい声がホールに響いた。

そして声の主がホールに足を踏み入れた瞬間、それまで大騒ぎしていた女の霊は爆風を受けたようにその場から跳ね飛ばされ、晴人の視界から消えた。

晴人はその無意識の勇姿に苦笑しながら立ち上がった。

「優勝おめでとう、優人」

晴人の賛辞に優人は無表情に頷くと軽い足取りで晴人に近付き、ためらいもせず栗色の髪を細い指でかきあげた。そして黒曜石のような深い漆黒の瞳を心配そうに曇らせ、晴人の顔を覗き込み、尋ねた。

「大丈夫か?」

絶対的に強いヒーローは、自分と母親にだけは圧倒的に優しい。

そうして自分を守ってくれるヒーローは、限りなく自分を甘やかす。

                      

                          

                        

――― 堕落させないで欲しい。

                              

                            

                      

それは八つ当たりだと知りながらも、晴人は縋り付きたくて堪らない兄を見上げ、矛盾した気持ちを抱えたまま、にっこりと、母親に似ていると言われる柔らかな笑みを浮かべた。

そして耳を塞いでいたその手で、髪にかけられた細い指を勢いよく払った。

 

「何のこと?どこのおせっかいおばさんだよ。子ども扱いしないでよね、お兄ちゃん」

 

晴人の言い草に優人は露骨に顔を顰め、払われた手を今度はしっかりと握って晴人の頭に落とした。