眠気覚ましにコーヒーでも飲もうと階段を下りると、階下から母親の怒声がもれ聞こえた。
「だからね、先に寝てろとかそういう問題じゃないの!もう一週間もまともに帰ってきてないじゃない!?」
感情的な高いソプラノの声はよく響く。
一方的に怒っているように聞こえるのはおそらく電話で話をしているからで、その相手は最近特に帰宅の遅いワーカーホリックの父親であることは想像に難くない。
自然、不機嫌になっていくのを隠そうともせず優人がリビングに顔を出すと、そこには予想違わず受話器を持って仁王立ちをしている母親、麻衣の姿があった。麻衣は突然リビングに現れた優人を見つけると、バツが悪そうに声を潜めたが、優人は構わずリビングを通り抜けまっすぐキッチンに向かった。
そうして再び電話口に向かって文句を言い始めた麻衣に背を向け、優人はポットをコンロにかけた。
「とにかく今日は今日中に帰って来て!絶対だよ!!」
じりじりと温まるポットを眺めながら、優人は麻衣が通話を終えるのを見計らって、声をかけた。
「コーヒー飲む?」
怒りのため、呆然としていた麻衣はそこでふっと我に返り、照れくさそうに優人を見て首を横に振った。
「紅茶がいいな」
「………面倒なんだけど」
「いいよ、自分でいれる」
「そうして下さい」
そうしてキッチンにやってきた麻衣を、優人は苦笑しながら迎え入れた。
第2話 : 愛の順番
慣れた手つきで紅茶を入れる麻衣の後姿を、優人はインスタントコーヒーを片手に眺めた。
女性らしい湾曲を象った、頼りないほど小さい背中。その背中が、今は苛立ちでピリピリと強張っていた。
優人は眉根をよせながら、いれたばかりのコーヒーを一息に飲みくだし、カップを脇によけた。
「あのワーカーホリックが無茶苦茶なのは今に始まったことじゃないだろ?そうカリカリするなよ」
優人の言葉に、麻衣は一瞬間だけ沈黙を落としたが、次に大仰にため息をついて笑い声を上げた。
「うっ・・・・ああ、そうだよね。全くね。本当にその通り。ごめんね煩くして」
指摘され、一段と小さくなる麻衣に、優人はため息をついた。
「昔からああいう人だって分かっているだろ?本人に治そうって気持ちがないんだから、注意するだけ無駄」
あっさりと言いのける優人に、麻衣はぷくりと頬を膨らませて弁解した。
「確かにそうだけど、でも仕事だからってそれで身体を壊したら元も子もないじゃない」
「それこそ自業自得だろ?放っておけばいいんだよ」
「そういうわけにはいかないわよ」
分かっていると言いつつも、いつまでも手ぬるい麻衣の返事に優人は顔を顰めた。
「家族なんだもん、放っておけないじゃない」
「あの人に父親らしいことなんしてもらった覚えなんてないけどね」
淡々と父親を断罪する優人に、麻衣は困惑した表情を浮かべてうな垂れた。
「それは・・・そうだよねぇ。本当にごめんね」
「別に母さんに謝ってもらうようなことじゃない。これはあの人の人格問題」
「そりゃそうだけど」
のらりくらりと見当はずれな返事ばかりする麻衣にじれ、優人は麻衣の両肩に後ろから腕を回し、麻衣の身体を拘束した。去年の夏から急激に伸びた身長と一緒に長くなった手足は、麻衣の身体をすっぽりと囲うことができる。そのために親子と言えど、それはしっかりと男が女を抱きしめるポーズになった。
しかし、そうされながらも、驚くこともせず、くすくすと笑い出した麻衣に、優人は情けないような気分に陥りながら、その小さな頭に顎を乗せ、囁いた。
「僕たちはいつもあなたの味方ですよ、お母さん」
「うん?」
「ああいう奴だって頭を切り替えることができなくて、苦しいんなら、離婚してきれいさっぱり手を切ってしまってもいいんだよ。あいつからなら慰謝料も養育費もふんだくれるだろうし、何よりも僕たちが側にいる」
ざっくりととんでもない提案をする優人に、麻衣は目を丸くし、次いで苦笑しながら随分と大きくなったその身体に体重を預けた。
「優しい息子をもって、私は幸せだわ」
笑いながら体重を預けてくる麻衣を、優人は微笑みながら一段強く抱きしめ、栗色の髪に唇をつけ、限りなく優しい声で告白した。
「麻衣、愛してるよ」
美麗と賛辞を受ける顔立ちによく似合った声が囁く睦言に、麻衣は不覚にも頬を染めたが、喉元までこみ上げていた笑いを一掃するには至らなかった。麻衣は堪えきれないというった様子で噴出し、優人の腕をすり抜け、真正面からその顔を見上げた。
「私も優人を愛しているわ」
「嬉しいね」
「当然じゃない、優人も晴人も私の大切な息子だもん。でも、忘れないで。私はナルのことも愛しているのよ?」
そう言って、とても幸福そうに微笑む母親にそれ以上の何が言えるというのか。優人は不服そうに口元をゆがめながら、腕の力を抜いた。
「生まれてからずっと変わらない愛情を注ぐ息子よりも、生活破綻者の夫が好きなわけ?」
「愛に順番はないよ」
麻衣はそう言うと愉快そうに笑った。
そうして麻衣がいつまでも笑い続けるので、いい加減うっとうしくなり、優人が不機嫌そうに咳払いをすると、麻衣は慌てて弁解した。
「ごめん、ごめん。優人が小さい頃にも離婚しなよって言ってたの思い出しちゃったのよ。まだ5つくらいだったんだけど、それなのに、さっきの優人とほとんど同じ事言ったのよ。覚えてる?」
まだ目元が弧を描いている麻衣からカップを受け取りつつ、優人は頷いた。
「覚えてるよ」
「何で"離婚"なんて単語を知っているのかって、すっごくびっくりしたんだから」
優人はふんわりと微笑む麻衣の顔を半ば呆れて眺めた。
「子どもなりに真剣だったんだけどね、それを笑い話にするつもり?」
憮然とした態度の優人を前にして、麻衣はそこで我に返り、神妙に頷いた。
「うん、優人が本気で心配して、怒ってくれているんだって分かった。ああ、こんなに小さな子をこんなにも不安にさせてしまったんだなって、とっても反省したんだよ」
「…」
「だから今でも覚えてる。あの時も私は優人に今日と同じことを言ったんだよね」
――― たくさん喧嘩もするけれど、ママとパパは愛し合っているから別れたりはしないのよ。
優人は耳に甦ってきたその時の麻衣の言葉を思い出し、眉間に深い皺を作った。
その顔を眺め、麻衣は「ナルそっくり」と、優人にとっては耳障りなことを言って微笑んだ。
――― 愛しているから、もっともっと大切にしたい。その為に喧嘩をしてしまうの。不安にさせてごめんね。
喧嘩するほど仲がいい。
詭弁で、ともすれば単なるノロケの論理だ。
今ならこの喧嘩の裏の意味もなんとなくならわかるが、子どもがそんな話を理解できるわけない。
しかしその時の麻衣はまだ年端もいかない子どもに対して、ごく真剣に向き合い、その不条理な自分達の愛所の形について懸命に説明したのだった。
結果的にその母親の説明で幼い優人が理解できたのは、どうも自分が思うように母親は父親を嫌がってはいないということだけだった。
けれど、あの当時はそれで必要十分だったのだろう。その確信はあらゆる疑惑や不安から優人を守り、そんな騒動の後も全く生活態度を改めようとしない父親をさらに憎々しくは思ったが、両親の不仲が優人の成長過程に暗い影を落とすことはなかった。
何んだかんだと言って、この相変わらずの両親は互いを愛し合っているのだ。そして、何だかんだと言って、自分はこの危なっかしいほどに真摯な母親に弱い。
――― 本当に馬鹿馬鹿しい。
優人はため息をつきながらリビングに移動し、ふとあることに気がついた。
「そう言えば、マイルの特典って年内使用じゃなかったっけ?」
そうして言うが早いかリビング脇に並ぶ棚を開け、積み重ねられた雑多な通知書を漁った。
「マイルの特典?」
心当たりがないといった様子で首を傾げた麻衣に、優人は見つけ当てたダイレクトメールを差し出した。
「ほら、あの人去年は学会続きでちょこちょこ海外に行ったじゃん。それで結構マイルが溜まっていたんだよ。そのポイントだけでも十分海外行けるだけあるんだけど、特典で復路の航空機代が半額になるって連絡が来てたんだ。そのサービスの有効期限が今年いっぱいなんだよ。ほら、年内の使用に限るって書いてあるだろう?」
優人に指さされ、麻衣はダイレクトメールを見つつ目を丸くした。
「本当だ。優人、よく気がついたわね」
「母さんは普段ケチなくせに、こういう特典はよく見逃すよね」
さらりと苛める優人に麻衣は嫌そうな顔をしたが、優人は構わず続けた。
「特典は利用者1名に限り。その代わりどこに行ってもいいんだから、できるだけ遠い所の方が得だな」
基本的に頭の回転が早い優人はそこで要約を確認すると、にっこりと微笑み、麻衣の顔を見つめた。
「ねぇ、今年の年末年始、日本に行ってきちゃダメ?」
突然の話に驚く麻衣に、優人はさらに畳み掛けた。
「日本だったらぼーさんの所でも、安原さんの所でも泊めてくれるだろうから宿泊費もかからない。僕のこずかいだけでも十分だしさ、どこに行くより安全だろ?僕、神奈川県に行ってみたいんだよね」
「神奈川?どうして?」
話についていけなくて、目を丸くする麻衣に、優人はにやりと笑みを浮かべた。
「1つ年上で、クロールの日本タイムレコードを持つスイマーが神奈川県にいるんだ。最近彼とメールでやりとりするようになったんだけど、今度日本に行ったら、どんな練習やっているのか見てみたいと思っていたんだ」
小さな頃からどこか大人を喰ったような性格をしていた優人だが、水泳のことになると一気に熱が入る。
麻衣はその様子にあっけにとられたが、まるで子どものような微笑ましい優人の姿に、笑顔で頷いた。
「一度ナルに相談してみなさい。それで許可が出たら真砂子に泊まらせてもらえるように頼んであげる」
「えぇ?」
「父親だし、マイルの所有者なんだから当然でしょう。大丈夫よ、頭ごなしに反対なんてしないから」
嫌がる優人に苦笑しながら、麻衣はふっと天井を見上げた。
「それよりもむしろ晴人の方が問題じゃない?」
つられて天井を見上げながら、優人は既に就寝しているであろう弟を思い出し、口元をゆがめた。
「僕もついて行くって大騒ぎするわよ。何でも優人と一緒がいいんだから。そうしたら一緒に連れて行ってね」
のんきな麻衣の言葉に優人は苦笑した。
「どうかなぁ……最近、晴人は一緒にいるの嫌がるからな」
「あら、そうなの?」
「基本的に側にはいるんだけど、距離を取りたがっているって感じかな。晴人も13歳になるからね。いつまでも兄弟一緒じゃ、つまんないんし、恥ずかしいんだろ」
優人の言葉に麻衣は不服そうに唇を尖らせた。
「それって何だか寂しい。小さい頃はあんなに仲が良かったのに」
成長を歓迎しつつも、どこか複雑そうな表情を浮かべる麻衣に、優人は肩をすくめた。
「しょうがないでしょう。それに………あいつの場合ちょっと事情があるし」
かばうように優人が口した言葉に、麻衣はさらに困惑した表情を浮かべ、首を傾げた。
「それもちょっと心配なのよね」
「ん?」
「最近の晴人は特に感覚が鋭くなっていて、自分でも制御できないようになっているのよ」
「僕には元気に喧嘩ふっかけてくるけど?」
優人はちゃかすように愚痴をこぼしたが、麻衣の表情は晴れなかった。
「視え過ぎるっていうのは結構つらいのよ。そのストレスでイライラしているんだと思うのよ」
切なそうに遠くを見つめる、かつては父親の片腕として様々なものを見てきた能力者である母親に、優人は疎外感を感じつつも微笑みかけ、その薄い肩を抱き寄せた。
「晴人には先に相談しておく」
「うん・・・」
「そんなに心配しなくても、すぐ帰ってくるわけだし、大したことないよ」
「そう・・・だよね」
それでも心配そうに顔を曇らせる麻衣を抱き寄せ、優人は親愛の情をこめ、麻衣の髪にキスを落とした。