眠気覚ましのコーヒーを飲み終え、優人が2階の自室に戻ると、使用前のベッドがこんもりと人型に山を作っていた。
第3話 : 大丈夫、平気
「もう寝てたんじゃなかったのか?」
さして驚きもせず、ベッドの脇に腰を下ろしながら優人が声をかけると、その山はもそもそと動き、寝るなら自分の部屋で寝ろ、とすげなく笑う優人の態度に、つまらなさそうな顔をした晴人が顔を出した。
「寝てたけど・・・話声がしたから、目が覚めた」
「地獄耳だな」
「ママも優人もイライラしてたでしょう?気配が煩かったんだ」
寝起きで不機嫌な晴人の様子に、優人は苦笑しながらシーツからのぞいた栗色の髪をすいた。
「そりゃ悪かったな。原因はいつもの生活破綻者だ。文句ならあいつに言ってくれ」
冷ややかに言い捨てる優人の声に、晴人は顔を顰めた。
「パパ、まだ帰ってきてないの?」
「ああ」
優人はデスクの上に広げていた教科書を手に取りつつ頷いた。
「いつものことだ」
「そう言えばそうだけど、ここ最近は本当に酷いね。僕、もう一週間も顔見てないよ」
「心配するな、僕だって同じだ」
「なんだろうね・・・2月に学会があるせいで毎年年末は忙しそうだけど、今年は特に酷いような気がする」
「あの専門バカが何考えているかなんか知るか。好きにやらせればいいんだよ」
冷淡な優人の言葉に、晴人はさらに眉間の皺を深くした。
17歳で名門トリニティ・カレッジの入学を果たし、10代で発表した論文から一躍心霊現象研究の若きカリスマとなったその人、オリヴァー・デイヴィスこと、二人の父親は、現在ではその業界では世界で最も影響力の大きい研究者として名を馳せていた。
その父は控えめに言って大変整った容姿をしていて、さらに控えめに言って大層性格が悪く、生活態度に関しては破滅的と言って良かった。
こと研究に没頭すると、寝食を忘れ、家族を忘れるのだ。
自分の研究意外には極めて関心が薄く、二人の記憶にある限り、家庭内においで父親らしいことをしているところなどは皆無に等しい。
一度だけ、どうしても他に都合がつかなかくて、父親が優人と晴人を迎えに学校まで来たことがあったが、その時父親の姿を見付けた兄弟は揃ってお互いの手を抓ったものだ。
そんな人格者とは程遠い人物である父親を、兄の優人はことの他毛嫌いしていた。
それは傍目にも無理からぬことと思われたが、その一方で晴人は父親のことをそう憎からず思っていた。
ごく幼い頃から、晴人は父親の被験者として様々な実験に参加していた。
優人よりも直に接する時間が多かった分、晴人自身が他者の感情に敏感な性質だった分、そして何より、父が晴人と同じように他人と異なる才能を持ち合わせているという同族意識がある分、その性格から気軽に接することはできないけれど、晴人は父親を苦手意識も持たず、ごく好意的に受け入れていた。
だからこうして兄の優人が父親に対して敵対心を顕わにすることを、晴人は快くは思っていなかったし、できれば父親を庇って弁護したかった。
けれど、優人がここまで父親を嫌うのは、傲慢な父親から母と弟である自分を守ろうとする意識の強さであることを晴人は十分に理解していた。
「僕はお前のナイトなんだよ」
小さな頃から繰り返し囁き、実際に様々なものから身を呈して自分を守ろうとしてくれる兄に、一番のネックである父親について、正面切って文句を言うことはできなかった。
晴人はすぐにでもテキストに集中しそうになる優人を見上げ、話題を変えた。
「試験勉強進んでる?」
「まぁね」
「大変?」
「別に、誰でも通る道だ。まぁできるだけいい成績は取るつもりだがな」
テキストから目を離さず、優人はシニカルに微笑んだ。
イギリスの教育制度では、義務教育を終る16歳時に統一学力試験を受けることが義務付けられている。
その後、義務教育後の進路として就職するか進学するかを決めるのだが、どちらにせよ、その学力試験の成績如何で、進学先等が決定されるのため、その後の進路に統一試験は大きなウェイトを占めていた。
大学への進学を希望する場合はさらに6th Formという2年間のコースへ進み、18歳で履修した科目のGCE-A Level という統一試験を受けA Levelを取得しなければならない。
医師を目指し、専門の大学進学を希望する優人は正にそのコースを辿る計画でいた。
その為にも、目前に迫った統一試験、GCSEではある程度の高い成績を取る必要があったのだ。
「平常点は問題ないし、あとは6月の試験を受験するだけだ。まだ半年もある。大丈夫だろ」
「ヒギンズ先生が、優人の成績だったら勉強一本に絞ればオールA*も可能だって言ってたよ」
晴人の疑問に、優人は鼻でせせ笑った。
「勉強ばかりに重点を置くなんてナンセンスだ」
暗に誰かを非難する優人に晴人はため息をついたが、優人は構わず続けた。
「16歳で3教科のA Level取得は確かにすごいとは思うけど、それだけだ。僕は専門バカの研究家になるつもりはないからな、同じことをするつもりはない。水泳を休止するつもりもないし、やりたいことはやる」
そしてふと思いついたように、晴人の顔を覗き込み、あっさりと日本行きの計画を話した。
「たぶん5日間くらいになるだろうけど、クリスマスが終わったら日本に行ってこようと思ってる」
「えぇ?!」
驚きのあまり飛び起きた晴人を見下ろし、優人は悪巧みでもするように、にっこりと含み笑いを浮かべ、リビングでの顛末を話した。
「GCEコースが始まったらさすがにそんな余裕はなくなるだろうしな。行けるとしたら今だけだろう。しばらくぼーさん達にも会っていなかったし、この先日本に移住する計画も今の所ないから、いいチャンスだと思ってさ」
「そんな突然・・・」
晴人の反応を愉しむように優人は微笑み、首を竦めた。
「何も留学するわけじゃない。単なる観光旅行だ。オーバーだな」
「ママは?ママは何て言ってるの?!」
「マイル保持者のあの人の許可が出たらいいってさ」
晴人は息子達の成績にはどこか無頓着でのんきな母の笑顔を思い浮かべ、眩暈を覚えた。
学力や進路について、父親は破格過ぎて話にならない、そして母親は暢気過ぎる。
ここで常識的にこの兄を諌めるのは自分しかいないと、晴人は顔を青くして、優人を睨んだ。
「何、バカ言ってんのさ!?今だってGCSE前じゃないか?!」
「心配するな弟よ。どっかの研究バカほどじゃないが、兄はそれなりに賢いし、こうして日々努力している」
慌てる晴人を優人は愉快そうに眺め、読みかけのテキストを閉じた。
「その日本のスイマーは、まだ17歳なのにもう少しでワールドレコードに手が届きそうなんだ。次のオリンピックには絶対に出てくる」
「・・・・」
「考えてみろよ、純粋にすごいと思わないか?せっかくそういう人間と知り合って、会える可能性があるんだ。僕は実際に会ってみたい。それでそいつと自分の違いを知りたい」
視点の違う優人の言葉に、晴人は何故か無闇に泣きたいような気分になった。
けれど皮肉屋の彼の前で泣くわけにはいかない。
晴人はぐっと唇を噛み、胸の中で荒れ狂う動揺を隠して、兄やそして父がそうするように、努めて冷静な感想を口にした。
「優人は・・・オリンピック選手でも目指すの?」
「は? いや、目指さない」
自分が慌てるように動揺してもらいたかったが、優人はあっさりと晴人の疑問を否定した。
「将来の夢の為にはちゃんと試験をパスすることだよ。晴人の言いたいことはわかるよ。でも、今、一番真面目に取り組んでいて、興味があるのは水泳なんだ。僕はそれもないがしろにはしない。両方手に入れるにはそれなりの努力が必要だろうけど、そこを怠けるつもりはない。僕は両方手に入れる。それだけの力はある」
そして、思わず見惚れるほどの優美な笑顔を浮かべた。
あたりの空気をそのまま飲み込んでしまうようなその笑みに、晴人が押し黙ると、優人はそれを別の意味に解釈して、顔から笑みを一掃し、晴人の頭に手をかけ、ぐっと力を込めて白い小さな顔を上向かせた。
「晴人も一緒に行きたいか?」
横暴とも取れるその話に、晴人は反射的に眉根を寄せ、苦しい体勢のまま首を横に振った。
「ぼーさん達には会いたいけど、今の僕に長距離移動は無理だよ」
「・・・無理?」
どこか他人事と距離をおいたような優人の口ぶりに晴人は苛立ち、反射的に声を荒げた。
「最近の僕の視力はちょっと半端じゃない。慣れた学校で精一杯なんだ。いくら優人が側にいても、生きている人間が大勢居る所に長時間拘束されるのはまず無理だ。煩すぎて耐えられないよ。そんなこと、優人は一番知ってるじゃない!」
「・・・ああ、そうだな・・・」
「視え過ぎるせいで、僕は優人ほど自由じゃないんだ!」
そして、思わず口走った言葉に、晴人ははっと息を飲んだ。
このやっかいな能力のために、晴人は実際に様々な困難を味わっていた。
けれど、4人家族の中でただ一人そのどんな才能をも持ち合わせずに生まれた優人が、そのことに人一倍コンプレックスを感じ、それを彼なりの強さで乗り越えていることも晴人は理解していた。
――― なんで、こんなこと・・・
晴人は自分が言った言葉が信じられず、じわりと掌に滲んだ汗を握り締め、恐る恐る優人を見上げた。
するとそこには、ひっそりと悲しみを潜ませた闇色の双眸がじっと晴人を見下ろしていた。
それを見た瞬間、晴人の耳は焼けたように熱くなり、鳶色の瞳には涙が込み上げてきた。
しかし、その涙が零れ落ちる前に、優人はその瞳から色を消し、薄く微笑んだ。
「晴人が嫌だったら、日本には行かなくていい」
ぽつりと落ちた涙を掌で乱暴にふき取りながら、優人はこともなげに言い放った。
「単なる趣味だ。晴人より大切じゃない」
その穏やかな口調に面食らって、晴人はたまらず顔を伏せた。
3つ年上の兄は、自分が思うよりずっと強くて、常に優しく、自分では想像もできないような世界を軽々と超えていく。
才能や力とは関係ない、その違いこそが優人の魅力で、晴人が欲しくてたまらないものだ。
「ほんの少しの間なんでしょう。別に大丈夫、平気だよ」
苦し紛れに、晴人がそっけなく答えると、優人はそれまでの重い空気を払拭するように軽い冗談混じりの声を上げた。
「本当に?」
その口調に晴人もほっと息をつき、にっこりと、浮かべなれた笑みを顔に乗せ、顔を上げた。
「優人がGCSEで後悔することがなければいいんじゃない?」
その皮肉に、優人は父親そっくりの自信過剰な笑みを浮かべ、即答した。
「まかせろ」