王国の住人1   願う平和な夜 〜 調査前夜 〜

  

    

豪奢なマンションのエントランスホールで、麻衣がカードキーを取り出すべくバッグの中を探っていると、ふいに横から

長い腕が伸び、短い電子音と共に両開きのガラス扉が音もなく開いた。

驚いて麻衣が振り仰ぐと、そこには先ほどまで職場で一緒だったリンが無表情で立っていた。

「あ・・・リンさん。おかえりなさい」

その言い回しも随分おかしなものだが、ぽんと頬を染めながらも笑いかけてくる少女に、リンはノートパソコンを脇に

抱えたまま片手で器用に内ポケットにカードをしまいつつ、僅かに微笑した。

 

 

 

東京、渋谷道玄坂。

『 Shibuya Psychic Research 』

 

 

 

そこでは学術的見地から心霊現象について科学的調査を行い、必要とあらば霊能者と呼ばれる協力者を招集し、

その問題解決に尽力している。

所長は御歳21歳の漆黒の美人、渋谷一也こと、オリヴァー・デイヴィス博士。

漆黒の髪、黒檀のような瞳、白皙の美貌。

眉目秀麗、頭脳明晰、新進気鋭の若きカリスマ心霊研究家であるところの彼は、しかしてその長所を補って余り

あるほど性格が悪い。

その性分は、傍若無人、天上天下唯我独尊的ナルシスト。

あわせてマッドサイエンティストにして、ワーカーホリック。

そんな博士の周囲にいる人間は、おのずと彼の自己中心的行動に振り回される。

しかもご意見申し上げたところで、待ち構えているのは極めて殺傷能力の高い毒舌なのだから始末に終えない。

彼と付き合うには、一筋縄ではいかない忍耐と努力が必要とされることはもはや常識となっている。

 

そんな博士は現在、日本のとある高級マンションの一室に居をかまえていた。

 

隣室には長年の部下であり、監視役でもある林興徐という長身の中国巫蠱道道士が住んでいるのだが、そんな

部屋に彼は最近になって恋人を引っ張り込み、同棲生活を始めた。

恋人の名は谷山麻衣。20歳。

もとは事務所のアルバイトとして雇用された、栗色の髪、鳶色の瞳を持つ、華奢な彼女は、その外見とは似合わず

極めて剛毅な性分で、溢れる情感の持ち主でもある。

博士と比較すればこれほど相容れない性格もないように思われ、事実二人はよく激しい喧嘩を繰り広げているのだ

が、何だかんだと二人の付き合いは長く、とうとう一緒に暮らし始めるようになっていた。

 

 

そんな同僚とエントランスで顔を合わせた二人は、何となく気まずい顔をしたまま、無言で同じエレベーターに乗り

込み、同じ階に向かった。

同じ職場の上司にして、恋人の保護者役でもあるリンには、麻衣がマンションで一緒に暮らしていることなどはとう

の昔にばれていた。しかしもともと無口で表情のないリンは、その件に関して麻衣に何か言ってきたことはなく、ま

た特にマンションで顔をあわせることもなかったので、麻衣が同棲を始めてから、マンションでリンと会ったのは、実

にこれが初めてのことだった。

そもそも最初に隣室住んでいたのはリンなので、ばったりと顔を合わせる可能性は十分にわかっていたことなのだ

が、実際に顔を合わせてみると、むやみに恥ずかしくて、麻衣はリンの顔を直視できず、顔を赤らめ俯いた。

その恥ずかしさは、何となく、恋人を家族に合わせるような感覚に似ていた。

その時、音もなく昇るエレベータが、突然一時停止した。

「うやぁん!」

ふいに襲った浮遊感に麻衣がバランスを崩して悲鳴を上げると、リンはとっさに麻衣を抱きかかえた。

華奢な体がもう一方の腕にあるノートパソコンと同じように軽く空に浮く。

その不思議な感覚に麻衣が身を縮めているうちに、エレベータは再度ガクンと大きく揺れ、再び何事もなかったか

のように動き出した。

リンの腕にしがみついたまま、麻衣はその様子におそるおそる顔を上げ、思わず口を開いた。

「………えっとぉ、霊現象じゃない。よ…ね?」

職業柄、口をついて出た麻衣のセリフに、リンは無表情で頷きながら、思わず抱き上げてしまった麻衣に気がつき、

自身の腕を眺め、苦笑した。

「失礼しました」

「あ、あ、いえ。ありがとうございます!」

リンが麻衣を一度抱き直してから、床に下ろすと、麻衣はそこで深呼吸するとにっこり微笑みリンを見上げた。

「やっぱりリンさん力持ちだねぇ」

「そんなことはありませんが」

「いや、全然適わないって感じですよ。あんなに簡単に持ち上げられちゃあ。オトコのヒトってすごいねぇ」

素直に感心する麻衣に、男女差、体格差があるのだから当然だろうと思いつつ、リンはそれ以上の反論をやめた。

ここで必要もない個体格差を論じても仕方がない。

しかしそのアクシデントですっかり場が砕けた二人は、言葉を交わしながらエレベータを降り、部屋に向かって歩み

を進めた。

「そう言えば、昨日依頼のあったマンションの調査、明日からですよね」

「そうですよ」

「マンション全体の調査は初めてですよね・・・うう、機材設置大変そう」

麻衣がげんなりと肩を落とす様を見て、リンは重ねて質問した。

「今回は滝川さん達の応援はないんですか?」

「うぅんと、ぼーさんと真砂子は捕まったよ。まぁ真砂子は途中から別件の仕事で途中リタイアするかもって言って

たけどね。綾子は今旅行中。ジョンは手が離せないって」

「そうですか・・・」

「ぼーさんはいいけどさ、真砂子は来ても機材設置はしてくんないし。辛いことには変わりないよね。あ〜あ、私も

リンさん並に力持ちだったらなぁ。それにこの暑さ!ホントにしんどそうだよ」

ぶちぶちと文句を並べている麻衣に、リンは僅かに頷いた。

梅雨明け前の7月。

日本の気温は上昇の一途を辿り、さらによく降る雨が高い湿度が不快指数を高めていた。

確かにこの中での機材設置は考えただけでうんざりする。特に湿気は機材の大敵なのだ。

ほどなくして、二人が手前のリンの部屋に到着すると、リンと麻衣は何となく顔を見合わせ、軽く会釈し、それから

麻衣が隣り合った別々のドアに向かった。

カードキーが短い電子音を放つ。

「あ」

リンがドアを開けた時、同じように隣のドアを開けた麻衣が声をあげ、扉の向こうからひょこりと顔をだした。

「リンさん、助けてくれて本当にありがとうございます」

改まった礼にリンは僅かに身じろいだが、すぐに目を細めて首を振った。

「いいえ、それよりも谷山さん」

「はい?」

「明日から調査でろくに睡眠が取れなくなりますから、今晩はナルもしっかり寝るように説得して下さい」

リンの注文に、麻衣はわずかに目を見開いたが、それから酷く幸せそうに微笑み、元気のいい返事をした。

「任せて下さい」

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

  

 

 

極めて生活感のないマンションの自室に足を踏み入れ、リンは身に着けたスーツを脱ぎながら、何気なく先

ほどの出来事を回想した。

心霊研究に携わる仕事を始めてから、彼はそのおおよそをナルというかなり難解な人物と共に歩んでいた。

出会った当初は天才少年と呼び声高い彼の性格の悪さに、反感を感じなかったわけではない。

しかし、その才能を目の当たりにしている内に、リンはそんな些事はどうでもいい事のように思うようになった。

彼はそれほどに優秀だった。

そもそもリンにしたところで愛想がいいとはお世辞にも言えない。

僅かなコミュニケーションで仕事ができるならば、それはリンの望むスタイルでもあったのだ。

それに、ナルの人間嫌いは、彼が持つ特殊能力に起因していることも、そこに譲渡の余地を作っていた。 

ナルにはそのあり余る知性の他に、生来から破格のPKと優秀なサイコメトリという特殊能力を保持しており、

特に物質から記憶を読み取り自身の体験としてプレイバックしてしまうサイコメトリは、ナルの人格形成に多

大な影響を及ぼしていた。

リンが初めてナルのその苦悶を目の当たりにしたのは、まだリンが大学院生時代のことだった。

その時、ナルは『 誤って 』サイコメトリを行い、3時間もの間意識を失い、硬直状態で意識を取り戻した。

意識を取り戻した時、ナルは脂汗を流し、全身に青痣を作っていて、しばらく口も利けない状態だった。

後から、リンはその時のナルが性的虐待の末に殺された幼児の記憶をサイコメトリしたと知った。

その事件は後に大きく新聞の見出しを飾ったが、その経過は表舞台にはもちろん語られないほど陰惨だった。

少なくともティーンエイジャーが見るような映像ではなく、知って、許せる現実ではなかったはずだ。

人の陰惨な部分を己のものとして体験してしまう能力。

そんな力を持ったナルが人間を嫌うことは仕方がないことだとリンは思った。

それほどに、以後も繰り返し起こったその特殊能力で苦しむナルの姿は壮絶だった。

リンはナルは他人との接触を拒絶したまま、ただひたすら研究に没頭する人生を送るのもやむを得ないし、

ナルはそれで幸せなのだろうと考えるようになっていた。

そして、唯一、ナルが例外として認めていた双子の兄のジーンが、不慮の事故で十代の若さで死んだ時、

それは決定的になったと感じていた。一般的には「哀しい」と称されるかもしれないが、それは仕方がない。

そうした悲劇は世の中でままあることだ。

しかし時の流れはナルと、それからリンにとっても意外な形で変化を求めた。

  

 

リンは明日から始まる調査のために準備した荷物を、予め車に積もうと玄関に向かった。

そこで玄関の扉を開けかけ、廊下の足音に気が付いた。

規則正しい、もの静かな足音はそのままリンの部屋を通り過ぎ、隣の部屋の前で止まった。

しばしあって、カードキーが鳴らす開錠の電子音が短くした。

「おかえりなさい」

ドアの開閉と共に聞こえた明るい声に返事はなかったが、その音にリンはふと口元に笑みを浮かべ思った。

幸運を約束する、確かな呪法があるならば、それは彼らにかけたい、と。

もちろん、そんなものはいらないと拒絶されるのは、目に見えているけれど。