東京、渋谷、道玄坂。
渋谷 ・ サイキック ・ リサーチ
Shibuya Psychic Research
瀟洒なオフィスビルの一角に居を構えるそこは、雑多な渋谷の街の賑わいからは一線を期した静謐に包まれている。しかし姫乃島のような離島の本物の静寂に適うべくもなく、そこにはどこかしこに人の気配が潜んでいる。
それは胸騒ぎに似た、落ち着きの無い人の気配。
けれどそれも温いエアコンの空気と無機質なモーター音に紛れればたちまちのうちに現実感をなくし、意識を分散させる。その中で麻衣はいつの間にかデスクに肘を乗せたまま船を漕いでいた。
こくりこくりと頭が傾ぐたび、栗色の細い髪の毛がそよそよと揺れる。
時折がくりと首が大きく傾ぎ、その度に麻衣は何とか瞼をこじ開け睡魔を追い払おうとはするのだが、それはぬかるんだ沼地に手を突っ張るようなもので、中々功を奏しない。そうしていつしか本格的な睡眠に入ろうとしかけた時、何の前触れもなくブルーグレードアが開いた。
ドアが開くと同時に吹き込んできた風のあまりの冷たさに麻衣は文字通り飛び起き、思い切りデスクの天板に膝をぶつけた。
ゴスっと鈍く響いた音に似合いの重い痛みに麻衣は悲鳴を上げそうになったが、開いたままになっているドアに関係者外の来訪を感知し、麻衣は目に涙を浮かべつつも何とか声を押し殺した。そうして何とか痛みをやり過ごして顔を上げれば、そこには見知った顔の男性が一人立っていた。
「内郷先生?」
グレーのロングコートの前に黒の帽子を抱えた内郷は、先と変わらぬ温和な笑みを浮かべて軽く頭を下げつつ、慌ててよそ行きの顔に取り繕った麻衣に向けて品よく挨拶した。
「お休みのところ申し訳ない」
#030 東京渋谷道玄坂
「お恥ずかしいところをお見せしました」
頭から湯気でもでそうなくらい顔を赤くしたままお茶を運んできた麻衣に、内郷はにっこりと音がしそうな程はっきりした笑みを浮かべ、気にするなと小さく首を横に振った。そうして次いでのように静まり返った応接室を見渡し、首を傾げた。
「今日は君一人なのかな?」
「あ、いえ、奥にメカニックの人間がいるんですが、所長は外出中なんです。事務所に戻る予定なんですが、時間までははっきりしてなくて・・・」
「そう、それなら少し待たせてもらってもいいかな?」
「それは構いませんが、あの、いつ戻るかは本当に分からないんですが・・・・」
恐縮して肩をすぼめる麻衣に、内郷は眉根を下げた。
「30分程待って帰ってこなければ諦めるよ」
その返事に麻衣は恥ずかしがっていた表情を引っ込め、ハキハキとした口調で尋ねた。
「どういったご用件でしょう?宜しければ私が承りますが」
「いや、何もこれと言った用件はないんだ。ただちょっとお礼を言いたかったので、街に出てきた次いでに寄らせてもらったんですよ」
内郷はそう言うと香りを楽しむようにカップを顔の前に近づけ、ゆっくりとお茶を味わってから、カップをテーブルに戻して話を続けた。
「先日、姫乃島の村主朋樹君から報告書を受け取ったんです」
よく調べられていて、大変興味深い報告書でした。と、内郷は教え子を褒める教師のように穏やかな賛辞を述べ、その固有名詞に僅かに表情を強張らせた麻衣の顔を覗き込んだ。
「先代の姫巫女に憑依された女性というのはあなたなのかな?」
掛けられた質問にどのように答えるべきなのか、と、麻衣が返答に窮していると、内郷は元々返事など期待していなかったのか、構わず話を続けた。
「霊感というものには無縁の僕には夢物語のような話だけど、そういうことは現実に起こるものなんですねぇ。僕は専門家でもないので、それがどのように真実なのかを検証するつもりはないけれど、何はともあれそれで今の姫巫女の混乱が解けたのは本当に嬉しいことです。個人的な感想を言わせて貰えば、村主朋樹君に相談を受けてからずっとつかえていた重しが取れたようにほっとしています。
これで死んでも、先に亡くなった先々代の姫巫女に言い訳が立ちます」
内郷はそこでおどけるようにささやかに笑った。
そんなどこまでも実直に、それでいて完璧なまでに穏やかにカバーされた内郷に対して、麻衣は事実を隠匿する犯人のような、なんとも複雑な気分で小さく頷いた。
不要な事実は公表しない。
そう決めたナルが作成した報告書は、調査期間中に発生したおおよその事実はあったものの、20年前に時子と月子の間で起こった事件の一切が不自然でないように削除されていた。
むろん麻衣もその報告書には目を通していたが、それだけを読んだ人間がどのような感慨を持つのか予想はできないでいた為、麻衣は内郷への態度を決めあぐねていたのだが、次に続いた内郷の言葉に思わず動きを止めた。
「姫神の風習がなくなるのは本当に残念なことだけれど、神などとはそもそも生きている人間に必要とされていなければ存在できないものですからね」
動きを止め、自分を凝視する麻衣の視線を受けて、内郷はますます笑みを深めてゆっくりと語った。
「何をそう呼ぶか、それは自由です。ただ、人はいつの時代でもそのようなものが必要だった。
だから、不思議と思うもの、大きな意思を感じるものにその名前を付け、敬い、物語を作り出して、人一人だけでは理解できないものを何とか理解しようとした。知らないという事こそ、か弱く、考える事で生き抜く術を生み出した人間が最も恐れる事ですから。理解し、慰め、秩序を生み出すもの。それは何も神だけではありません。物語にせよ、歌にせよ、そうして人が生み出したものは元はと言えばそうした必要から生まれたものだった・・・・と、そう考えることもできる」
内郷は教科書でも読み上げるようにそう言うと、ほっとため息を落とした。
「姫神の風習がなくなるのは本当に残念なことです。でも、それは今の姫乃島の必要に合致しなかっただけのことと思えばそれもまた一つの慰めです。人は生きていく限り変化し、こうして世の中は動いている。姫神が失われることもまた、島の人間が生きている証とも言えますからね。安直な変化は退化を示すのでしょうが、形を守ろうとするあまり、誰かが不幸になっては本末転倒です。失われるものは僕のような人間が集めて保管します。だから、生活をするものには変化を恐れず、大切なものを慈しめるようにあればいいと僕は思っています」
「・・・・」
黙り込んで耳を傾ける麻衣に、内郷は照れ隠しのように口角を歪め、皺だらけの掌で顎を撫でた。
「姫乃島の変化を聞きつけた時、それでも僕は本当に残念に思いました」
「・・・・はい」
「でも、次にこのようなことを考えたんです。曲がりなりにも姫巫女の末裔です。もしかすると彼女は、島の人間の誰よりも早く、津波が起こる3年も前から必要の変化に気がついたのではないかって。まぁこれも随分都合のいい夢のような仮定ですけれど。ただ、残念なのは姫巫女当人にしても、その内実が分かっておらず、悪戯に混乱しているのではないかということでした。混乱は更なる混乱を呼び事態は悪循環に陥っているように見えましたから。だから僕個人の勝手な言い分ですが、さっき言ったようなことを・・・・僕はできたら伝えてあげたかった。そしてせめて混乱して苦しむことだけは除いてあげたかった」
内郷は温和な口調を崩さず、淡々とそう言った。
「ただ、そのまま僕が言ったところでこのような言葉はまるで伝わらなかったことでしょう。単なる学者の戯言として聞き流され、誰の胸にも残らず、それどころか厄介な毒のような言葉になる」
そうかもしれない、と麻衣が内心で頷いたのが分かったのか、内郷は困ったように眉根を寄せて苦笑した。
「嫌なものですね、年の功でそんなことばかりがよく分かって、解決方法が分からない。それで僕は口を噤んでしまった。薄情なことですが、簡単に言うと諦めたんです」
「・・・・」
「ところが今回こちらに調査をお願いしたところ、結果的に島の住民達は変化を前向きに受け入れられるまで様々なことを理解するに至った」
実は奇跡を目にしたように、感動的なほど嬉しいんですよと内郷は微笑み、だからどうにかして直にこの感謝を伝えたかったと繰り返した。
「僕は全くの部外者であるのだけれど・・・・・姫乃島とそこに残った島の子らの幸福を祈らずにいれたわけではないんです」
そうして内郷は深い安堵のため息を落とした。
画像解析作業に一区切りがつき、リンが資料室から応接室に顔を出すと、デスクにいるはずの麻衣が中央のソファに足を投げ出して座っており、放心状態でぼんやりと空を眺めていた。
その様子とテーブルに広げられたままになっている来客用のカップを見咎め、リンは訝しく思い麻衣に声をかけた。
「来客があったんですか?」
その問いかけに麻衣は金縛りから解けたように目を見開き、ああ、と、今気がついたようにテーブルに出しっぱなしになっているカップを見つめながら頷いた。
「内郷先生・・・・ほら、姫乃島の調査依頼に来たナルの知り合いの先生が来てたんです。直に調査のお礼が言いたいからってさっきまで待ってたんだけど、ナル帰ってこないし、電車の時間だからってついさっき帰られたんです」
「そうですか・・・」
「はい・・・」
普段ならリンからこれだけ話しかければ、元々人の感情に聡い麻衣はリンの心配を感じ取り、自ら率先して反応を返してくれるのだが、今日は何かに意識を奪われたように腑抜けて動こうともせず、突然かけられた低い声にも驚く素振りすら見せなかった。
いくら心配が先立っても、本来コミュニケーション能力に乏しいリンがこうした場でできることは皆無に等しい。かけるべき言葉もなければ、伸ばせる手も持ち合わせていない。
けれどここまで鈍い反応を示す麻衣を放置しておくわけにも行かず、リンは眉を顰めながらも、麻衣に近付いてその足元に膝をつき、未だ焦点の定まらない麻衣の顔を見上げた。
とすると、麻衣は突然身体を折りたたむように前屈みになってリンの顔を覗き込んだ。
そうして隣り合った顔は些か近過ぎる距離で、リンは思わず身を引こうとしたが、続く麻衣の声にその衝動を辛うじて止めた。
「ねぇ、リンさん。姫乃島にはやっぱり姫神様がいるのかもしれないね」
ふいに零れた麻衣の言葉に、リンは訝しそうに目を顰め、麻衣を凝視した。その反応に麻衣は申し訳なさそうに眉根を下げ、そうしていながらも一気に思っていたことを吐き出した。
「さっきね、内郷先生と話していて思ったの。今回姫乃島の調査に行ったのは全くの偶然だったけど、私達が行かなかったら月子さん達は未だずっと20年前のこととか、嘘とか、色んなものを今でもずっと抱えて苦しんでいたのかもしれないなって。なんだかさぁ、まるで月子さん達を守るためみたいに私達が呼ばれたみたいだなって思ったの」
それは些か感傷的過ぎるような感慨ではあったが、それを言う麻衣の表情は何の打算も見えない、それでいて純粋過ぎない落ち着いたものだったので、リン僅かに躊躇った後、そうかもしれないと、ごく控え目に相槌を打った。
後から振り返れば、確かに計られたように全ては揃っていた。
一つとして欠けていたら、数ある選択肢の内、ベストとは言えないまでも最悪は免れたであろうこの結果に辿り着くことはできなかっただろうから、そこに何らかの意思を感じ取ることもできるだろう。
そんな極めて冷静にて、無愛想ながらも嘘の臭いのしないリンの相槌に、麻衣は泣き笑いのような複雑な表情を浮かべて、口元を両手で覆った。
「どうしよう、リンさん」
「どうしました?」
「本当にそうだったら、何だか泣きたくなるくらい嬉しいや」
そうして零された麻衣の呟きは既に涙に潤んでいたけれど、それは確かに嬉しそうで、リンは滅多に表情を浮かべない口元を僅かに歪めた。
信じる限りはそこにあり、いないと思えば消えるもの。
それは確かに願いに似ているのかもしれない。
END
Thank you very much for a long time .
Since 2007/10/01 → Last up date 2008/03/13 written by ako (C)不機嫌な悪魔