月子の話を聞いた重三と草子はショックのあまり寝込んでしまった。
呪いが解けたとは言え未だ全快ではない大樹のこともあいまって、月子、綾子はその3人の看病に取られ、真相解明以降ふさぎ込むようになってしまった朋樹は常にどこかに姿を消していた。
その為社に設置された機材の撤収はおのずと麻衣の両肩に圧し掛かり、深山の社、海岸端の社と姫乃島に点在して置かれた機材をかき集めるのに丸々一両日かかった。
それでも何とか機材を片付け、残るは総出で取り付けた養生園のみとなった翌日、疲労困憊の麻衣を見かねてリンと滝川がナルに進言した。
「谷山さんはお疲れですから、明日はベースで休んで頂いてはいかがでしょうか?」
「残ったのは養生園だけだし、あそこの撤収作業は男手だけで十分だろうよ」
2人の優しい進言に麻衣は感動の涙を浮かべた。そうして、
「僕はデータ解析があるので手を離せませんが、残りの人間でできるなら構いませんよ」
物腰丁寧に惨いことを言いのける所長を、諦めを通り越して憎悪の眼差しで睨み付けた。
#029 判断基準
「それじゃぁ谷山さん、今日はゆっくり休んで下さいね」
「ベースに居座るとまたナルに雑用押し付けられんだから、仮眠室とかで寝てるんだぞ」
「はぁい、皆気をつけてねぇ」
「ほな、いってきますです」
島に一台の軽トラックに乗り込み、養生園へ向かうリン、滝川、ジョン、安原を上機嫌で見送った後、麻衣はくぅっと背伸びをして冷たい冬の空気を吸い込んだ。
島にはまだ問題が山積していて、それをこれからどのように解決するかを考えると未だ胸は痛いが、ともあれ浄霊はうまくいったようで心なしか島を取り巻く空気は一段澄み渡ったような気がしていた。
このまま冬の柔らかな日差しを浴びながら散歩でもしたいところだが、まだ調査中の現場だ。滝川が言うように休んでいるわけにもいかないだろうと、麻衣はコキコキと肩を鳴らしながら踵を返し、ベースに向かった。
ことの経緯のせいで草子らの前に麻衣が顔を出すのは問題が多過ぎて役に立たなかった。それでもベースにはまだ大量の機材が残されている。屋敷に残っても仕事はまだ山のようにある。
玄関から和室に上がり、その奥に足を踏み入れると昼でも薄暗い廊下が待ち受けていた。
寝込んでいる人間がいるためか、そもそも元からそういうものだったのか、滝川らがいなくなった廊下はしんと静まり返って、どこか余所余所しい雰囲気すら醸し出していた。何となくその雰囲気に蹴落とされ、麻衣も知らず足音を忍ばせ廊下を進んだ。そうしてベースに続く襖に手をかけた時、中からぼそぼそと不機嫌そうに語られる話し声が耳に入った。
「確かに、この国の法律では殺人罪の時効は15年(*注1)に制定されていますね」
「らしいな」
感情の伺えない淡々とした口調で語る話し声の一つはナルのもので、それに輪をかけて不機嫌そうな声で相槌を打っていたのは、狭い島のどこにいるのかと思っていた朋樹のものだった。
「安原君、法学部なんだって?その現役の学生さんが言っていたんだからそうなんだろうな」
「・・・・ええ」
「今回分かった件はもう20年前に起こったことだから、時効は既に成立していて、そういう意味でも、姫さんとダイは法的に罰せられることはない」
「そうなりますね」
「そうだ。誰も何もできない。いや・・・・よそう。そう言うのは結局どうでもいいことだ。悪いな、落ち着いたつもりだったんだが、どうもうまく説明できない」
朋樹は自らの苛立ちを恥じ入るように唸り、深いため息をついて沈黙した。
聞こえてくる話題の不穏さから、麻衣はそのままベースに顔を出すのを躊躇い、そのまま足音を忍ばせて隣の仮眠室に移動した。それを待っていたかのように朋樹はそこで重い口を開いた。
「心情を長く語って同情を請いたいわけじゃないんだ。だから・・・・要約して、結論から先に言おう。これは俺の独断だ。他言無用。気を悪くしたならこの場で俺に言ってくれ」
「なんでしょう?」
「つまり・・・」
「・・・・」
つまりだ、と、朋樹は幾度か同じ言葉を繰り返し、それから意を決したように口火を切った。
「今回の調査の結果についてなんだが、これは元々内郷先生にお願いしたもので、その調査物は学術目的に使用することと、内郷先生が保管するものと決めていた。今だってそれに異存はない。
だが、この・・・20年前の件の真相については不問として欲しいんだ。内郷先生にも誰にも言わないでもらいたい」
「事実を隠匿せよ・・・・ということですか」
言葉にしずらいことをあっさりと断言するナルに、朋樹は苦しいように呻き、それからまたしばらくあって唸るような低い声でそれを肯定した。
「君らに不利益なことを強要はしない。島の記録も研究だか何だかに使ってもらっていい。社会的に問題のある過去の出来事についてだけだ。これだけは、悪戯に騒ぎ立てて欲しくないんだ。いくら時効が成立しているといったって、事が公になれば姫さんも大樹もただではすまない」
苦しい朋樹の提言に、ナルはハッキリとした口調で即答した。
「僕個人の見解を言わせて貰えば、情状酌量の余地はあるとしても殺人は殺人、殺人ほう助はほう助です。この罪に対して時効が存在すること自体理解できないし、したくもない」
隣室で耳をそばだてていた麻衣は、その言葉に不意をつかれて絶句した。
どんな気持ちでそれを言うのか。
それを思うと心は潰れたように真っ暗な空洞を作った。
その洞はあまりに深くて、あまりに悲しくて、必死に懇願する朋樹に対して、その物言いはあまりに厳しく薄情だと、非難する気すら起こさせなかった。
知らず、麻衣は息を止めて2人と隔てる薄い襖に身を寄せた。
そうして襖が透けて見えるかのように、じっとその正面を見つめた。
「・・・・わかる。常識とか法律は二の次でいいんだ。そう思うのが人情として本当だろう」
両極の位置で対面するナルと朋樹。
「けどな、俺は姫神さんがいないと言ったが為に窮地に追いやられ、姫さんやダイがどれだけ辛い目にあってきたのか見ている。その間の良心の呵責がどんなものだったのか・・・同じ島の人間で、樹の人間である俺にはそれがどれだけ辛いことか・・・・理解できるつもりなんだ。けど、2人は逃げもしないで、ずっとそれを背負っていた。それだけでも贖罪には十分過ぎるほどだったんじゃないかと思うんだ。俺はこれ以上、あの2人を悪戯に苦しめたくないんだ」
その双方が怖いくらいに心配だった。
「当人がそれを望んでいなくとも?」
「そうだ」
「自己満足ですね」
「ああ、俺のエゴだ。それでもこれは俺の " 望み " だ」
偽れない。と、朋樹は言葉を切って、それから自嘲気味に薄く笑った。
「姫さんとダイは俺の大事な家族なんだ。2人ともかわいい弟妹で、一緒に遊んだ幼なじみなんだ。
罪は罪だ。けど、それでこの先もずっとあの2人が苦しむばかりで幸せにもなれないなんてやっぱり嫌なんだ。守れるもんからは全部守ってやりたい」
「・・・・」
「卑怯臭いことを言っているのは百も承知だ」
自嘲しながらも、まるで泣き声のような声で訴える朋樹に、ナルはしばらくの間沈黙を落とした。
何を言い出すかと無闇やたらに人を不安にさせる嫌な沈黙だった。
天上天下唯我独尊的マッドサイエンティストの基準は、朋樹にはもちろん、長い付き合いの者にもようとして分からないブラックボックスだ。その生殺しのような沈黙の果てに、ナルはようやく重い口を開き、条件を提示した。
「一つ、約束してください」
「・・・・?なんだ?」
「守るというなら、徹底的に守ることです」
ナルはそう言うと温度の感じられない声で告げた。
「全ての片がついた後、あの2人を決して死なせないことです」
わかりますか?と、言外に問いかけるナルに、朋樹は挑むような鋭い眼差しで睨み上げつつ答えた。
「胸に刺して守ろう」
その声はもう震えてはいなかった。
朋樹がベースを出て行った後も、何だか気後れして麻衣は息を殺して仮眠室に潜んでいた。
しかしベースからはそんな麻衣の気遣いなど一切無視した平常通りの声が、襖越しにいつも通りの言葉を投げかけてきた。
「麻衣、お茶」
そのふてぶてしさに顔を顰めつつ、麻衣は内心で助かったと安堵し襖を開けて這い出し、その場で目が合ったナルを見上げて尋ねた。
「いつから気がついていたの?」
「最初から」
「あ、そう・・・」
人の気配に聡いことなどもう今更驚くまでもない。
麻衣は不貞腐れた顔をしたままモニターの前から動こうとしないナルの脇をすり抜けて、ポットの横に移動した。そのすれ違いざまに、ナルはぼそりと麻衣に零した。
「と、言うわけだ。依頼主の希望だ。余計なおしゃべりはするなよ」
「しないよ!」
注意されることも心外だと言わんばかりに麻衣は大声で反論し、それからちょっと考えて曖昧な言葉で誰のものとも分からない感想を言った。
「重たいねぇ」
しかして、ナルは意味が分からないといった体で、あっさりとそれを否定した。
「別に」
そのあんまりな返事に麻衣は盛大に顔を顰め、乱暴な手つきで淹れたばかりのお茶を運んだ。
「何が別に・・・だよ。うそばっかり」
ガチャリと音を立てて差し出されたお茶に眉根を上げつつ、ナルはごく軽く肩を竦めた。
「欲しいデータは十分取れた。守備範囲外の真偽など取るに足らないことだ」
「うっわ、ここでそんな事言う?本当にあんた信じらんない神経してるね!どこをどう見てそんなこと言えんのさ。あんた血の色緑でしょう!ゼッタイ人間らしい体温ないね!!」
立て板に水の如く沸いてくる非難の言葉にナルは一時眉を潜めたが、すぐに何かに思い当たったように僅かに口角を釣り上げ頷いた。
「・・・・・確かにな」
「は?」
本当に血の色緑?!と、わけの分からぬポイントで麻衣が目をむくと、ナルはしごく真面目な顔で麻衣に向き直り、世にも見事な豪奢な笑みを浮かべて立ち上がった。
「不利益は多々発生したな」
その迫力に本能的に生命の危機を感じ、麻衣は思わず後じさったが、咄嗟に動いた方向が悪く、逃げた背中はすぐに壁に行き着きいてしまった。麻衣は慌てて左右に逃げ場を求めたが、すかさず両脇に突かれたナルの手が進路を塞いだ上に、上半身を胸で押さえつけられ完全に退路を無くした。
「ナ・・・ナル?」
へらりと笑って見上げると、そこには絶世の美人が妖しく艶やかに笑っていた。
ざっと冷たいものが背筋を走る。
その表情の変化を見逃さず、ナルは口元だけに笑みを浮かべ続け、すっと目の色を一段深くした。
「どこかの半人前の調査員が条件付の憑依をされたがゆえに、性生活情報が露見した」
「!!!!」
「この落とし前はどうしてくれるんだ?」―――― それってあたしのせい〜〜〜?!!!
言いがかりだ!と心は思っても言葉にならない。真っ赤になって身動きすら取れない麻衣を拘束したまま、ナルはふっとため息をつき、千切れそうに赤くなった耳元に唇を寄せた。
「しかも他の男に抱かれて寝てるし」
「・・・・ち、ち、違!!」
反論を封じ込めるように太ももの間にぐっと力を込めてナルの足が割り込んできた。
「!!!??????」
「僕の不利益の原因は麻衣に起因しているものばかりだな」
首筋を舐めるように口を寄せながら、流し込むように囁けば、麻衣の鼓動が限界まで早打ちするのがわかった。こうなってしまえば生け捕ったも同然。いかようにもできるものだ。が―――
ナルはちらりと横目で壁にかけられた古時計で時刻を確認し、くつり、と、僅かに笑った。
「 "続き" は帰ってからだな」
耳元で囁かれた言葉に安堵と一縷の希望を見出し、硬直していた麻衣の喉に息が通った。
「は、はああああああ?!」
甲高い麻衣の悲鳴にナルは煩さそうに顔を顰めつつ、緩めた手綱がそのまま抜け落ちないように軽く引いた。
「そろそろ松崎さんが戻って来る」
「ななななななななっっっ」
「別に警戒する必要はないだろう?それとも何か期待しているのか?」
「ばっっ・・・・!!」
涙目になりながらも、負けじと睨み返そうとする麻衣の視線に嗜虐性を刺激されながら、ナルはそれらを全部身の内に包み隠してゆったりと微笑んだ。
折りよく、その時廊下からのたりくたりと近付く軽い足音が聞こえてきた。
その物音にびくりと麻衣の肩が震え、怯えるように目元が潤んで、見る見るうちに蒸気が上がるほど顔が更に紅潮していく。
あまりにあからさまなこの体勢は、尊厳に関わるほど恥ずかしいものなのだろう。
次の瞬間に突き出されるであろう拒絶の手を予期して、ナルは一瞬早く身を起こした。予想違わず麻衣の手はナルが抜けた空間に突き出され、勢いよく空を切った麻衣の手に続いて倒れきた麻衣の耳元に、ナルは頭だけ預けて囁いた。
「東京に戻ったらそのまま部屋に来い」
聞こえたな? と、視線だけで念を押し、ナルそのまま麻衣の返事を待たずに踵を返した。
そしてチェック途中の作業に取り掛かるべく、メインモニタの前の椅子にナルが腰を下ろしたと同時に、件の綾子がガラリと勢いよく襖を開けた。
「あ〜〜疲っれたぁ。肩痛い〜〜、腰痛ぁい!なんだって私がこんなことしなきゃないのよぉ?!」
綾子は疲れたという割には元気のいい声で文句を言いつつ、脇目も振らずに暖かいストーブに近寄り寒そうにストーブの炎に手をかざした。
そうしベースに香る紅茶の臭いに気がつくと「あらいい香り」と相好を崩し、部屋の隅で呆然と立ち尽くしている麻衣の方を振り返った。
「麻衣、あたしにも熱いお茶ちょーだい。この間もらった美肌のお茶まだあるでしょう?」
「・・・あ、あ、あや・・・」
「?何?何か変なこと言った?」
「い・・・・いや!いやいやいやいや!!!だっじょーぶ!!お茶ね!お茶!!」
ぴしゃりと撥ね付けるように反応する麻衣に、綾子は眉間に皺を寄せて顔を覗き込んだ。
「・・・って、やだ、あんたまた熱ぶり返したんじゃない?顔が真っ赤よ?」
「うへぇ?!」
「ちょっと平気なの?また何か持って返ってきたわけじゃないでしょうね?!」
「違うぅぅぅ!!!本当に大丈夫だから!!!」
慌てふためく麻衣は " 何かあります " と顔に書いたまま、綾子の追及を必死にかわして平素を装いながらガチャガチャとお茶の支度に取り掛かった。
その耳障りな音を聞きながら、ナルは顔には出さず胸の内でほくそ笑んだ。
きっとコレからの麻衣は挙動不審な状態に陥り、口うるさい保護者がまた騒ぎ出すだろう。
麻衣はそれを懸命に誤魔化しながらぐだぐだ悶々と一頻り悩みあぐねて、それでも無駄な罪悪感に苛まれ、楽観的な可能性を信じて部屋に来るだろう。
その時の表情まで手に取るようだ。
麻衣の素直過ぎる反応は、馬鹿の領域に達していて普通は厄介なことの方が多いけれど、こういう時は好都合だ。
独裁者の高慢さを持ってして知る愉悦心に、ナルは密かに積もった溜飲を僅かに下げてモニタに映し出される暗い画面に意識を集中させた。
四角い画面に切り取られたその中では、もう島では見ることのない、苦しみ、彷徨う亡霊の姿が映り込んでいた。
*注1 : 2005年の法改正により、現在の殺人罪の時効は25年です。しかし、この話は原作に順じ、90年代の出来事を想定している為、当時の時効を当用しています。