気が付いたきっかけは、ベターマンションの調査だった。

調査のおおよそが終了し、最後の晩にナルの心中を占めていたのは独占欲や嫉妬心で、その感情のまま随分乱暴に麻衣を扱った。
それでも行為を中断したのは、理性でもなんでもない。

 

 
自分の男性本能への純粋な恐怖。

ただ、それだけだった。   

 

 

そうしてナルは悟った。 

セックスをする男性は加害者でしかないと、自分が信じ切っていることに。 

  

  

   

008   Over shoes, over boots

     

   

  

麻衣と付き合い始めてから、自身の身体の変化に最初こそ戸惑ったが、じき慣れていった。
慣れればどうということはない。
失望感は残るが、正常だというなんの慰めにもならない知識はあった。

助けてと、叫べなかった程残忍な記憶は、かつて自分の身体に実際に傷を作った。
数時間に渡り意識を奪われ、ようやく我に返ったときは心臓に負荷が掛かりすぎた硬直状態で、そのまますぐに病院に担ぎ込まれたこともあった。その過去は消えないし、実際に額に浮かんだ脂汗の感触は記憶にこびりついている。

しかし日々疎くなる記憶より、新たな本能は勝るのだろう。

その流れにそえば、そのうちにトラウマも克服される。そう、アルコールのように。
ナルは自身の問題について、ある種楽観的にこう考えていた。
しかしベターマンションでの一件で、ナルは自分の認識を改めざるを得なくなったのだ。 

    

 

 

    

あの場で感じた嫉妬心と独占欲は、トラウマをもせせ笑う程苛烈なものだった。
それなのに、最後の最後で、ナルの脳裏をかすめたのは被害者イメージだった。

実際の被害者は7歳の女の子だったはずのそれは、まだ幼く無力だった自分でもあり、最も汚されたくない麻衣であり、死して口をなくしたジーン。そういったナルの中でどうしようもなく柔らかいタブーだった。
それはナルに強烈なブレーキをかけた。

本能的な恐怖は、嫉妬心と独占欲をも簡単に、圧倒的に、屈服させた。
直後はショックだった。けれど一晩時間をおくうちにナルは至極もっともだと納得した。被害者心理を知るが故に、その加害者になる恐怖はどうしても払拭できない。きっともう何があってもそれは、覆すことがでない。
そう悟ってから、ナルはトラウマの克服を諦めた。

諦める方が楽観するより冷静な判断に基づく結果のように見えたし、実際に簡単だった。

その考えには、ある種克服したかのような、さっぱりとした充足感すらあった。
捻れた思考回路は、あたかもそれが忌むべき本能の克服と勘違いさせた。
しかしそこで弊害が生まれた。セックスをする男性が加害者なら、それを誘惑する女性は犯罪の加担者と見えるようになったのだ。
理不尽な考えだと自分でも呆れたが、ナルの中で新たに生まれたその図式は強固だった。何度再考しても嫌悪感は消えない。すると最もタブーに近い存在、麻衣そのものまでも疎ましく感じるようになった。自然、今まで麻衣としていたセクシャルな行為全てが嫌悪の対象となり、挨拶のキスまでができなくなった。

あまりに不自然で、麻衣がそれで戸惑っていることも分かった。けれどナルとしてはもはやどうしようもないことで、そうした行為が必要な関係を維持するのは苦痛でしかなかった。 

  

 

いつ、別れよう。    

 

 

麻衣を見るたびそう思う。
しかしそれと同時に頭に浮かぶのは、春先に麻衣と随分親しくなった藤原とかいう男性のことだった。藤原でなくてもいい、もっと言えばぼーさんでもあり得る話だ。

別れればいずれ麻衣は別の男性と交際するだろう。
その男とキスをして、セックスをする。

それについて自分が文句を言う権利はない。権利はないのだが、それでもそんなことを想定すると、今現在の麻衣への疎ましさよりまだ強い嫌悪感がナルの胸を真っ黒にした。

別れて、二度と会わない。

けれど麻衣だけは、決して他に男を作らなければいい。

自分が不快にならないためだけに、ナルはそんなことを夢想した。あまりに馬鹿げた妄想。

故にナルはすぐ思うことも止めた。そうして同棲を解消すれば麻衣が困るから、という、極めて理不尽な理由を盾に、それ以上考えを追求することも放棄した。

「このままじゃ、寂しい」と、麻衣に泣かれるまで。

  

  

  

   

  

  

「酷い女だな」
「え?」
「僕はセックスが嫌いだし、セックスする男が大嫌いなんだ」
「・・・・う、ん」
「それでも麻衣は僕にセックスをさせようとしている」
「そうだ、よ」

「セックスしたいと、思わせる」
「・・・・」
「麻衣、僕はお前が嫌いだ」

 

 

   

  

  

   

慣れたベッドで、しかし初めて裸で抱き合っているというのに、睦言とは遙か遠いことを囁くナルに、麻衣は胸が潰れそうになりながら、それでも辛うじて微笑んで言い返した。

 

  

「それは褒め言葉?」 
  

 

麻衣にしては思慮深く、それでいてあり得ないほど大胆不敵な返事。

その返事を聞いた瞬間、驚きでナルの動きが止まった。

麻衣は傷つかないのかもしれない。
自分は麻衣を傷つけずにすむかもしれない。

まるで信じられなかったその可能性が、ナルの中で初めて現実味を帯びた。それでも猜疑心の強いナルのこと、おいそれとはそれを全面的に受け入れることはない。けれどそこに穴を穿った。その事実は大きかった。

ナルは自分を縛り付けていた固定概念が、たちまち無力化したことを実感した。

胸に沸く温かな熱のようなものが、確かに何かを焼き切ったのだ。
それは嫌悪の鎖のようなもので、強固過ぎてもう断ち切るのは無理だと諦めたはずのそれは、一旦切れてしまうと、今までの剛健さが嘘のように威力の一切を失った。そのあまりのあからさまな事態の変化に、ナルはある種の脱力を感じた。
滑稽にも程がある。
「ある種、最大の褒め言葉だろうな」 

堪えきれず苦笑が漏れる。
そのナルの返事に麻衣はほっと息をついた。そしてすぐくすくすと笑いだし、ナルの右腕に顔をすり寄せた。飴色の髪がさわさわとナルの首をくすぐる。
「嬉しい。優越感で溺れそう」
声が、耳を喜ばせる。
「もっともっと嬉しがらせて」

言葉が、熱を持って肌を溶かす。
「バカな上に強欲か」

誤魔化すようにナルは悪態をついたが、麻衣はもう取り合ってはくれない。

「いいじゃん。私は唯一の女なんでしょう?」
愛憎紙一重。

まるで他人事のことだと思っていたその故事を、ナルは甚だ不本意ながら実感した。そうしてこればかりは心の底から正直に吐きだした。  

「こんな面倒、麻衣一人でたくさんだ」

笑わせるつもりもないのに笑われて、面倒になってナルは麻衣の口を塞いだ。   

そしてそのまま、かつて可愛がって、ついさっきまで疎ましく感じていた身体を貪った。   

  

 

   

   

   

 

 

   

この夜を越えたら、劇的な変化があると思った

 

  

   

 

 

 

 

 
麻衣に至っては、恥ずかしながら極めて乙女ちっくな数々のドリームもあった。

けれど現実はそう甘くはなくて、翌朝は恥ずかしい程に身体が動かず、動いたところで洗濯物に追われることとなりとても余韻に浸るといった雰囲気ではなかった。さらにあの親密な雰囲気は嘘だったんじゃないかと疑いたくなるほどナルは相変わらずのナルで、日常生活ではやっぱり喧嘩ばかりが続いた。それでも、それでも多少の変化は生まれた。

 ナルは秘密裏にドラッグストアで買い物をするようになり、麻衣はそれまでまるで気にしていなかった生理日を覚えるようになった。
そうしてあっという間にディープキスもセックスも日常の中に溶け込んでいった。

  

  

「One crime is everything. two,nothing」 

「は?」
「この程度が聞き取れないのか?」
「いや、聞き取れても意味が分からない」
「一つの罪は全て、二つ目は平気」
「なぁに、それ?」
「ことわざ。最初の罪が肝心。一度罪を犯してしまえば二度目は平気になってしまうこと」
「罪なんですか?」
「罪深いだろう?」

「まぁね。結局それなら何度でも平気になっちゃうってことでしょう」
「規模を指すこともあるな。As well be hanged for a sheep as a lamb.子羊を盗んで絞首刑になるより、親羊を盗んで絞首刑なったほうがまし」
「毒喰らわば皿までってことかい」
「まぁそうだろう」 

  

  

そうなってしまった自分たちを自嘲しながら、それでも以前よりずっと風通しよくなった関係に、些かの満足感を持って。

  

  

  

END

 

  

 
あとがき♪