暖房が効いて暑いくらいの店を出ると、外は冷たい風がふいていて、ぐるぐる巡っていた麻衣の脳内もいくらかすっきりした。

すっきりついでに、麻衣は綾子の腕を取り、幾分甘えた声で尋ねた。

「あたしがナルの家に帰れなくなったら、しばらく泊めてくれる?」

綾子は虚をつかれて咄嗟に黙り込んだが、言外に、麻衣が問題解決に重い腰を上げようとしていることを悟ると豪快に笑った。

「何があったか詳〜しく話してくれるなら、何泊でも泊めたげるわ。おまけに新しいアパートの保証人にもなってあげるわよ」

ぎゅっと組み直された綾子の腕からは、女らしい香水のいい香りがした。  

  

   

  

  

  

007   Seek and ye shall find.

     

   

  

「ただいまぁ、綾子にご飯ご馳走になってすっかり遅くなっちゃった。ナル、ご飯は?」

「食べた」
「本当に?」
「・・・」
「・・・・まあ、今日は信じよう。シャワーは?」
「すませた」
「の、割には普段着だね。まぁた夜更かし狙ってるでしょう」
「・・・」
「いっけどね。じゃ、あたしもシャワー浴びてこようっと」
  

極力明るく、ナルの顔を見ないようにして、麻衣はバスルームに直行した。

気合いを入れて念入りに身体を洗って、よく拭いて、すっかり髪を乾かしてセットし直しして、それから少し悩んで、化粧をするのはやめてリップクリームだけ塗った。 

リビングを覗くと、ナルは帰ってきた時と1ミリも変わらない体勢で、こちらに背を向けるようにして、ソファで資料に目を通している。そこまでの歩数を目測で測ってから、麻衣は一つ大きく深呼吸し、スイッチに手を伸ばした。

 

 

 

突然真っ暗に落とされた照明に、ナルは思わず身構えた。

その緊張を解くように、高い声が状況を説明した。

「停電じゃないよ」 
「・・・下らない悪戯はやめろ」
これでは文字を終えないと、ため息交じりに諫めると、足音と共に声の主が近付いた。
「話を聞いて欲しいの」
遮光カーテンの引かれた室内では、ちょっと先も全く見えない。
気配だけで目の前に麻衣がいることを確認して、ナルはまた盛大にため息をついた。
「酔っぱらっているのか?」
「飲んだけど酔ってない」
「酔っぱらいは常々そう言う」

埒があかないとナルが立ち上がりかけると、制するように麻衣が大きな声で尋ねた。
「ナル!ナルはまだ私に興味がある?」
尋ねられた内容とその声の震えに、ナルは動きを止めた。
それから諦めたように浮かしかけていた腰を下ろし、手にしていた資料を脇に置いた。

その小さな物音に、麻衣はほっと小さなため息をついた。ため息の後に大きな深呼吸。そうして麻衣は口を開いた。
「あのさ、私に興味がまだあるんだったら、今みたいに放り出さないで欲しい。手も足も口も出さないで、黙んまりは辛いよ」
「・・・・」
「嫌なことがあるなら言って・・・相談してほしい」
「・・・・」
「ナルは自分のことは何もしない。でも私はナルの為に色んな事ができるよ。だから・・・辛いことは、分けてほしい。何もできないまま、このままじゃ自然消滅しちゃうよ。ダメになるよ。そんなの嫌だ!」

まるで反応のないナルに、麻衣はつめていた息を吐き、少し考えて返答代わりに尋ねた。
「手、触ってもいい?」
拒絶がなければ、こんな場合でも許されているということだろうと、麻衣は暗闇の中、恐る恐る手探りでナルの手を探し、その手に自分の手を重ねた。
ナルの手はいつも以上に冷たく感じた。
その冷たさは早鐘のように打つ心臓を氷のように冷やす。不安をふくらませる。なんだか怖くて怖くてたまらない。でも、と、麻衣は破れかぶれの気分で考えた。
これで関係が破綻しても、綾子の所に転がり込めばいい。そこで泣いて泣いて泣けばいい。でも、このままだと泣くこともできないではないか、と。

  

  
「このままじゃ、寂しい」
  

  

口にして初めて、麻衣はずっと自分が心に抱えていたものをようやく見つけた。

ナルとの関係に遠慮して、忘れてしまっていた自分の感情。
それが分かった瞬間、麻衣の視界はぱっと晴れた気がした。 

行為が重要なんじゃない。それで寂しくなってしまうのが問題だったのだ。

それが分かると俄然力が沸いた。

綾子が言っていたことの意味がようやく理解できる。言うべき事が洪水のように押し寄せてきて、麻衣は早口でまくしたてた。

「ぶっちゃけさ、夏の調査依頼じゃん。こうしてなんだかおかしくなっちゃったの。それって・・・その、あの暗示が関係してるよね?あれ以来、ナル絶対に一緒に寝なくなって、そのうちキスもしなくなっていった。それ以外になんか理由ある?私、なんかした?」

ここまで話をしても反応一つ返してこないナルに、麻衣は諦めと達観と、それから確信を持った。多分、自分の直感は間違っていない、と。

「調査でレイプする暗示に私かかったよね。あれ、相当嫌だったんでしょう」

「・・・」

「それから全部嫌になった?私も嫌になった?」

「・・・」
「言おうよ。それならそうだって言ってよ。これからでもいいから言って?じゃないとどうしていいか分からない。それとも、もうナルは私と暮らしたくない?」

硬直するナルに、麻衣は緊張に耐えかねてその場にしゃがみ込んだ。 

「ナルがエッチ嫌いなの知ってる。戸惑ってるのも、警戒してるのも分かる。ベターマンションはそれをピンポイントで思い出させるような調査になっちゃったよね。それでおかしくなっただけなのかな?これって時間が経てば元に戻れることなの?」

麻衣はそこまで言って、首を横に振った。ここまできて偽ることはない。

「嘘。それも嫌だ」

麻衣は深呼吸をすると、震える指を必死に押さえつけた。

「ね、私は元にも戻りたくない。調査の前まではイロイロしたよね。でも、ナルは最後まではしなかった。私が嫌がるから。しょうがないじゃん、だって私バージンなんだもん。どうしても怖いんだもん。でもさ、それはナルを否定しているわけじゃなかったんだよ。調査の時も言ったよね、レイプとそれは全然違うって。でも、ナルは全部ひっくるめて嫌がった。でもさぁ、それってさぁ、わかるけどさ、私を傷つけないようにって言ってて傷つけてたんだよ」
卑怯だ。と思っても涙が勝手に溢れ出す。
こんなことがしたいんじゃない。これじゃ誤解されてしまう。

麻衣は悔しくて震えながら、それでも懸命に言葉を繋いだ。
「いくら言っても信じて貰えなくて悲しかった。それにさ、そりゃ痛いとかなかったけど、私ばっかりエッチなことして・・・ナルは何もなくて、何だかナルの前で一人でしてるみたいだった。それしかないのかなぁって思ってたから、それでいいんだって思い込もうとしてたけど、それじゃやっぱり嫌なの。でも、それ言っちゃうとまた全否定されるように受け取られるって思って言えなかった。あんな関係に戻るのも嫌。やっぱり嫌なの」
先を言わせて欲しいと、気が焦って手に力が入る。

麻衣はごくりと唾を飲み込んだ。
「でも、でもね、だから全部やりたくないじゃないの!今みたいに何もないのはもっと嫌。私はナルが好きなの。別れたくなんかない、ダメになんかまだなりたくない。私はナルをちゃんと知りたい。ちゃんと抱きしめたいし、抱きしめて欲しい。それでね、だからねっ」
それでも口はカラカラに乾いて、伝えきる前に呼吸困難になりそうだ。

でもこれだけは、自分から言わないといけない。

そうじゃないと進まない。

  
「ちゃんと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・エッチ、してみたい」
  

珍しいことに、ナルが息を飲むのが分かった。
そのことに麻衣は顔から火が出そうな位恥ずかしくなったが、もともとここで引き下がる程度の覚悟じゃない。きゅっと唇を噛んで、麻衣は意を決した。

「これは避けてもきっともう解決しないよ。避け続けて3ヶ月経って、関係悪くなるだけだったもん。だったら正面から一回ガチンコ勝負してみたい。それでもトラウマに負けるかもしれない。でも、気持ちは繋がるよ。その過程が一番大切じゃない?」
「・・・」
「私も経験ないからうまくできないだろうけど・・・・それが問題になるなら、ぼーさんトコにでも修行に行ってくるから!」

綾子に言われたことがそのままセリフになった。
そこでナルがようやく初めて口を開いた。 
「なんでそこにぼーさんが出てくるんだ?」

その不機嫌そうな口調に、麻衣は戸惑いながらしどろもどろと説明した。
「え・・いや、だから、私も経験ないから、ついイヤだって言っちゃうし、方法もよく分からないからうまくいかないのかなぁって思って・・・。そしたらさ、ぼーさんだったら経験豊富そうだし、イロイロと教えてもらえば、もっと気楽に問題解決が・・・」
そこまで言うと盛大なため息が先を遮った。
暗闇の中では顔も見えないが、呆れかえった顔をしているのが目に浮かぶようだ。麻衣は一気に落ち込んで、そのまま重ねていた手まで落ちかけた。しかしその手は離れる直前に力強く掴まれ、怒鳴られた。

 
「他の男の名前なんてこんな時に聞きたくない!」

 

心臓が飛び跳ねる程驚いた。

が、不機嫌なナルの怒声に、麻衣はふにゃりと笑みを浮かべた。
それなら、いいのだ。

それなら。

麻衣はそこで満足しかける自分に、がんばって首を振った。

姫神は認めたが、自分がもう知っている。もう完全なプラトニックに戻ることはできない。
中途半端な位置に立ち止まってしまった自分達は、そこから勢いで進むこともできない。

それでも、後退では結局どちらの心も満足はさせられず、問題は先送りになって事態を拗れさせるだけだと、皮肉にも今回のトラブルで思い知った。

それではトラウマなんて大きなものはとても超えられない。
それならがんばって進むしかない。
「ナル、今晩一緒に寝てくれる?」
「・・・・麻衣」
「寝てくれるなら手を伸ばして、寝れないなら・・・」
それでも、こんなことで選択を迫るのは、やっぱり嫌だ。

こんなことをがんばっている自分が、とんでもなく滑稽に見えて居たたまれない。

「お願い、このまま手を離して」

でも、寂しいんだから仕方がない。

実際に何が何だか分からなくなるくらい寂しいんだから仕方がない。

言葉で埋めてくれるようなタイプじゃない。

だからこそスキンシップが大切なんだ。大嫌いなスキンシップだってわかっている。それでも自分には必要だから、譲歩する形だけでも見せて欲しい。
「それに、私だって初めては好きな人とがいい。ぼーさんとかじゃなくて、ナルがいい」
ここまできて手を離したりしないで、と、半ば祈る気持ちで、残り半分は説得する気持ちで答えると、
「少し、我慢しろよ」
そう言うが早いか、掴まれた手が力一杯引かれた。 

   

   

  

   

そうして麻衣を抱き留めて初めて、ナルは純粋に驚いた。

腕の中に倒れた麻衣はタオル一枚が身体を覆うだけで、ほぼ全裸に近い姿をしていた。
息を飲むと同時に現金にも反応する身体が煩わしくて、ナルは慌てて意識を外に向けた。
温暖な東京の機密性の高いマンション内だと言っても、季節は秋だ。
「寒くないのか?」
その感想に麻衣は呆れたようにナルの顔を見上げたが、すぐに小さく笑った。
「寒いよ、あっためて?」   

大口を叩いた割に、そうしてすり寄るだけでもう、麻衣の寂しさは十分に癒され始めていた。