#008  人間ではないものに化けているといい

    

   

白い朝陽が差し込む部屋では、熱が篭った夜もあっけない夢幻のような気がする。

濃密であったはずの闇も嘘のように白々しい。

その空々しさは、寝乱れたシーツに感じる不快感にも似ている。

 

 

首筋を撫で上げるその苛立たしい感触から逃れようと身体を起すと、身体にかかったシーツからそれを止めようとするかのような力を感じた。

力点になっているはずの方向に視線を這わせると、いつの間に目を覚ましていたのか、シーツを被って丸くなっていた麻衣がナルを見つめていて、目が合うと照れたように笑みを浮かべた。

 

「起きていたのか」

「・・・今さっき」

「立てるなら、先にシャワーを使え」

 

ナルはそう言うと立ち上がろうと麻衣に背を向けたのだが、それは麻衣の手で押し止められた。

 

「なんだ?」

 

眉間に皺を寄せながら振り返ると、麻衣はくすくすと笑いながら、目の前に下ろされたナルの腰にキスをした。

 

「ナルって綺麗だねぇ」

 

何と答えてよいのか分からず、ナルはため息を一つ落とした。そのため息にも麻衣はくすくすと笑い、それから思いきったようにぎゅっとナルの腰にしがみついた。

 

「ナルぅ」

「なんなんだお前は」

「ナルは・・・・私のこと好きなんだよね?」

 

醜態、と表現しても言いような昨夜の自分の言い草を思い出し、ナルは露骨に顔を顰めた。

どう言っていいのか分からず口から出た端からおっていった話だ。訂正するつもりもないが、からかわれるのは面白くない。

咄嗟にどこの寝ぼけが聞いている。と、嫌味を返そうとした瞬間、ナルは麻衣が僅かに震えていることに気が付き、言葉を飲み込んだ。

顔は口調と同様に微笑んでいる。

しかし、その鳶色の目はむしろ恐怖に怯えているようだった。

腰にしがみつく麻衣を抱き上げれば、頼りないほど軽い身体は簡単に持ち上がる。

自分と向かい合うような形になると、麻衣は俯いて視線から逃げようとした。抱き上げた両手を離すわけにもいかないので、ナルは麻衣の額に自分の額を押し付けて、触れるような近さで鳶色の瞳を見つめた。

視線が交じり合う。

その危なっかしいバランスに、ナルは思わず目をそらしたくなったが、それよりも好奇心が先に立ち、じっくりとそれに立ち向かうことを選んだ。

潤んだような瞳はどこか怯えたように瞬き、それでいって必死に自分の中の感情を探ろうとしていた。

 

――― まさか、な。

 

ナルは突如思い立った考えに慌てて封をした。

それはあまりに都合が良すぎると思えた。

けれど、その可能性に気が付けば、その考えは酷く甘くナルを誘惑した。

ナルは矜持と欲求の狭間で、それを口に出すべきか僅かに迷ったが、ここにジーンがいないことを思い出し、つまらないプライドを捨てた。

 

――― 本音を聞きだすにはピロートークが一番というのは存外真実かもしれないな。

 

自分ですらそうなのだから、他人ならもっとたやすいことだろう。

ナルは自分の幼さには気が付かないまま苦笑し、訝しげな顔をした麻衣にキスをした。

 

「僕がこんなことをするのは麻衣だけだが」

「う?」

「そういう意味・・・・いや、言い訳がましいな」

「え?」

 

尋ねておきながらどこまでも鈍感な麻衣に、ナルは苦笑した。

 

「恋愛感情という分類なら、僕は麻衣だけが好きだけど?」

 

どこまでも往生際が悪い。

ナルは自分の性分に閉口しながら、何時の間にか閉じかけていた瞼を開いた。

すると、ぽん、と、弾けるように浮かんだ麻衣の涙が視界に飛び込んだ。

事態の急変にナルは僅かに驚いたが、麻衣が突然泣くという事実だけには既に慣れていたので、意味は分からないままだったがそのまま目元に舌を這わせ、後から後から零れてくる涙を舐めとった。そして、そのうちに、ナルの胸中には一つの考えがまとまった。

欲深く、欲しい欲しいと訴えるのは何も自分だけではないのではないか、と。

 

 

 

 

「麻衣、お前は皆に優しいジーンでは足りないんだろう」

 

 

 

 

びくりと肩が震える様が滑稽で、食べたくなるほど愛しく見えた。

 

――― 当たり、だ。

 

腕の中で息遣いを荒くした麻衣に、ナルはできる限り魅惑的に微笑んだ。

煩わしいと思っていた整い過ぎた顔。  

  

「僕が女として見れるのは、麻衣だけだ」

 

低く魅惑的に響くであろう声。

 

「だから、僕はジーンと僕の両方を見ている麻衣では不満だ」

 

天から授かった美麗と賞される自分の外見を、ナルはこの時ばかりは感謝した。

 

 

  

 

 

「麻衣、僕だけ見ていろ」

 

 

 

 

 

誘惑に、これほど説得力のある武器はない。

どれだけ明るい光に見えようと、麻衣は圧倒的な孤独の闇、恐怖を知っている。

それはなまじ温かさを知っているだけに酷い飢餓を生むだろう。

冷静に判断すればわかりやすいのに、当事者になってみると存外に見えないものだ。

ナルは自分の考えを確信に変えた。

ジーンのあくまで自分に固執した愛情では、麻衣は満足できなかったのだ。

その貪欲さに、ナルは笑い出したくなる衝動を必死に堪え、更に優しげに囁いた。

 

「僕以外の前では、息を止めているといい」

  

麻衣は餓えている。

ナルはその確認に後押しされるように、抱き上げた麻衣の顔を両側から手で挟んだ。

麻衣の顔はそれだけで覆えるほど小さい。その小さい顔のパーツをナルは一つ一つ丹念になぞっていった。

最初に潤んだような鳶色の目の淵を指でなぞり、薄い瞼を閉じさせた。 

 

「盲目になって」

 

次に、小ぶりでやや形ばった耳を覆い、

 

「耳を塞いで」

 

最後に、飽きるほど口にした赤い唇を掌全体で塞ぐ。

 

「声もつぶして」

 

そうして注ぎ込むように柔らかに囁いた。

 

「夢もみないで、誰にも触れないで ・・・・・・・人間ではないものに化けているといい」

 

優しさだけでは満たせなかった飢餓には、固執は酷く甘く映えるだろう。

執着は愛着の深さに見えて、それは誠実にも見えるかもしれない。

だが、それでいいんだ。

そうやって騙されてしまえば、気が付いてしまった飢えは存分に満たされる。

 

 

 

 

「僕の前でだけ息を吹き返せ」

 

 

 

  

そんな命令に、麻衣は熱に浮かされたような顔で頷き、細い腕をナルの首筋に回ししがみついた。