ブルーグレーのドアを開けると、中からは優しげな声がした。
「こんにちわ、原さん」
「こんにちわ安原さん、ご無沙汰しておりましたわ」
その声に真砂子はにっこりと笑顔を浮かべ、そのまま閑散としたオフィスを見渡した。
真砂子の視線の行方に安原はにっこりと微笑みを返した。
「今日は事前調査で所長とリンさんは外出中です。谷山さんはもうすぐいらっしゃると思いますよ」
お茶でも入れましょう。と、安原は真砂子にソファを薦め、真砂子は薦められたソファに腰を下ろした。柔らかなソファに、無愛想な応接室。見慣れた風景。暖かな香りと共に差し出された緑茶を口にし、真砂子はそのままデスクに戻ろうとした安原を呼び止めた。
「安原さん」
「はい?」
「最近・・・この事務所の様子はどうですの?」
「?・・・事務所・・・ですか?」
質問の意味を図りかねて首を傾げる安原に、真砂子は苦笑した。
「言い方がいけませんわね。正確に言えばナルと麻衣の様子ですわ」
ああ、と頷き、安原は真砂子の表情を探るように目を見開いた。
自分の恋心などこの若年寄りには自明のことと、真砂子は悪びれもせずにその目を見返した。そのことに安原は何か含むような笑顔を浮かべ、軽い調子で頷いた。
「所長は相変わらずですよ。相変わらず美人で、不機嫌、不遜、無愛想、無口、仕事に厳しく、仕事ばかりして、ああ、最近は論文が捗っていないらしくて、いつにも増してご機嫌斜めで、よくリンさんにあたってます。今日は二人で出かけるっていうんで、リンさんの背中には悲壮感が漂っていましたねぇ」
「・・・本当に相変わらずですわね」
「谷山さんも相変わらずです。お休みもないですし、勉強との両立が大変だっていつも忙しそうにされてますが」
真砂子は安原の優等生らしい返答にまぶたを閉じ、ゆっくりと口を開いた。
「麻衣、痩せましたわね」
真砂子の言わんとしたことを悟り、安原は浮かべた笑顔を顔に貼り付けた。
「そうですね」
「見ているとイライラしますわ。あれではダイエットというより病気です」
「うぅん・・・鬼気迫る儚げさって感じですかね」
「そんないいものではございませんでしょう!」
「男から見れば、凄みある美しさに見えますよ?」
「・・・そん・・」
「恋煩いでしょう?」
真砂子はきっと安原を睨み上げたが、安原はその笑顔を崩さず、うっすらと開けた瞳で真砂子を見下ろした。
「最近の谷山さんは、怖いくらいに綺麗ですよ」
真砂子はついぞ目にしない安原の据わった目つきに絶句した。
普段から笑顔がはりついたような安原の無表情は、存外ナルよりも怖いかもしれない。しかしここで怯むようでは、そもそもの決意が倒れてしまう。真砂子は気を取り直すように襟を正し、安原の感傷を断罪した。
「不健康ですわ」
真砂子の毅然とした言葉に、強張った安原の顔は緩んだ。真砂子はそれを横目に内心安堵したのだが、安原は自分の行動が不本意だったのか、彼にしては珍しく視線を逸らした。
しかし咄嗟に口から出た言葉は、常のように軽く空気をなでた。
「そんな風に言い切れるのは原さんと松崎さんくらいですよ。本当にかっこいいですねぇ。惚れ惚れしちゃいます」
「・・・それはお褒めいただいたのかしら?」
「もちろんですよ」
「でも、女性に " かっこいい " はございませんでしょう?」
「ああ、そう言えばそうですね。じゃぁ言葉を代えましょう。綺麗ですね」
「麻衣と一緒の形容詞ですわね」
「かわいいです」
「何だかバカみたいですわ」
「美しいです」
その賛辞が気に入ったのか、真砂子はそこで艶やかに微笑んだ。
「安原さん、わたくしは本当に綺麗でしょうか?」
「綺麗ですよ。神々しいばかりにお美しい」
「本当かしら?」
「本当ですよ。本当にお綺麗です」
「安原さん」
「はい」
「もう一度言ってくださいます?」
真砂子の言葉にしては意外なもののような物言いに、安原は好奇心から真砂子を見やった。
そうして見遣った真砂子は無表情で空を睨んでいたのだが、その厳しい眼差しは彼女の美貌によく栄えて、いっそ痛ましい程に人目を引いた。
「たいへん・・・・美しい」
言い慣れた賛辞とは異なる、少し間が抜けた賛美の言葉に、安原は自分で言っておきながら、言った直後に気恥ずかしくなり誰にも悟られないように自嘲した。しかし、そうした安原の動揺も何もかもを無視して、真砂子は真砂子は背筋をのばすと、ゆっくりと瞼を閉じ、ゆっくりと瞼を開けながら安原を見上げ、悠然と笑った。
「ありがとうございます。勇気が出ましたわ」
艶やかな微笑を浮かべたまま、真砂子は湯気の少なくなった緑茶を口にした。
安原が首を傾げると、真砂子は微笑んだまま物騒なことを言った。
「あたくし、これから麻衣と喧嘩しますの」
その柔らかな物腰には余りに似つかわしくない単語に安原が目をむくと、真砂子はころころと笑い声を上げた。
「恋煩いで綺麗なんて言ってられませんわ。それで倒れたら元も子もございませんでしょう?わたくしは明るく元気な麻衣が好きですの。だから、喧嘩してでも麻衣の笑顔を取り戻してみせますわ。それで嫌われても構いませんのよ?それで大好きな麻衣が返ってくるなら安いものですわ。ということで、安原さんにお願いがございますの。3時間ほど席を外して下さい」
その美しい人のお願いに、嫌と言える男はいないだろう。
安原は手際よく仕事を配分し、遅れてバイトにやってきた麻衣とすれ違うように事務所を後にした。また直後にブルグレーのドアにはCloseの札を下げ、所長とイレギュラーズには何気なく電話連絡し、誰も真砂子の邪魔しないように画策することも忘れなかった。
無意識にでもできるすばやい手回しは『 越後屋 』の異名を取る自分の自負を裏付ける。
通話を終えた携帯を閉じながら、安原はぼんやりと空を仰いだ。この場には苦笑が似合うと知ってはいたが、美しい横顔の残像に心奪われて、さしもの『 越後屋 』も笑うことはできなかった。顔に張り付いているはずの微笑を剥がされて、安原は不本意そうに顔をしかめた。
恋する女の子には、『 越後屋 』だって適わない。
『 越後屋 』では適わない。
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