「麻衣、お茶」
所長室からお出ましになった麗しの所長様に向かって、応接室で一人、事務作業に勤しんでいた安原はにっこりと微笑んだ。
「谷山さんは本日遅くなるそうです。所長、お茶でしたらお入れしましょうか?」
「・・・では、安原さんお願いします」
「はい」
寡黙な所長はそれだけ言うと、ソファに腰を下ろし、手にしたファイルをめくり始めた。その態度を横目に、給湯室に引き込みながら安原は声にならない苦笑をもらした。
ここ最近のナルの機嫌はすこぶる悪かった。
さらに言えば麻衣の機嫌も悪かった。
お陰で事務所の空気は殺伐とし、なんとも居心地の悪い空気が充満した。しかもここにきてナルに若干愁傷な態度が見られるということは、原因が自分であることをあの所長様も気がついているようだ。
安原は頷くまでもなく現状のおおよそを把握すると、手際よく二人分の紅茶を準備し、ナルの前にいれたばかりの紅茶をセティングすると、伺いもたてずに所長向かいのソファに腰を下ろした。
常にない安原の振る舞いに、所長は僅かに眉を上げたが、そのまま無視することに決めたのか、顔も上げずにカップに手をのばした。無視されるだろうが、と思いつつ、安原は自身も紅茶を口に運びつつ口火を切った。
「イギリスへの帰国もいよいよ間近にせまってきましたねぇ」
「…」
「僕も大学入学からのアルバイトと考えると、あしかけ5年になりますから、ここがなくなるとなるとやっぱり寂しいです。多分、皆さんも寂しいでしょうが、谷山さんが一番寂しがっているでしょうね」
「…」
「でも、所長が谷山さんをイギリスに引っ張っていくとは、正直驚きました。まぁ恋人なんですから当然と言えば当然かもしれませんが…長いですよね?もう3年ですか?」
音もなくカップがソーサーに戻されるのを確認して、安原はにっこりと微笑んだ。
胡散臭いことこの上ない安原の越後屋スマイルに、所長はゆったりと顔を起こし、対面している人間が裸足で逃げ出したくなるような優雅で怖い笑顔を作ってみせた。
「無力な子どもではないので」
「でも、谷山さんは最近ご機嫌斜めですね」
しかして、越後屋は、逃げるどころか間髪入れずに反撃に移った。
「やっぱり寂しいのでしょうか・・・でも、イギリス行きの件は熟考の末決められたこととお見受けしていたのに、ここに来て不機嫌とは・・・不思議ですよねぇ」
とぼける安原に、所長は笑顔を崩さず物騒な瞳の色を濃くした。
「麻衣の機嫌がそれほど重要ですか?」
「ええ、それはもう!大切な同僚ですし、職場環境の劣化に直結しますからね」
「職場ですから、機嫌などは無視して下さって結構」
にべも無い所長の返答に、安原は顎を指でかき、手元の紅茶に視線を落とした。
「僕の恋人は谷山さんの相談役を買ってでていらっしゃるので、こちらのご機嫌も比例するように悪いんですよ。もう怖くて怖くて、臆病な僕は倒れてしまいそうです。今回の谷山さんの不機嫌は僕の生活環境を公私共々悪くさせているんですよ」
安原は手にしていたカップをテーブルに戻し、その動作のまま前かがみになり、美しい所長の顔を覗き込んだ。
「で、どうされたんですか、所長?」
二人の間に、身の置き場も無いような、感じ悪い沈黙が落ちる。
しかし、その沈黙に動じるようではココでは生きていけない。
5年で培った忍耐力で安原が笑顔のまま黙していると、耐え切れなくなったのはため息交じりの所長だった。
「麻衣に、結婚を打診しました」
想像できないことではなかったが、そんなことを臆面もなく口にするナルに、安原は内心驚愕した。が、何とかそれを表面に出すことなく、「ほ、ほほぅ」と、無難な相槌を打つことに成功すると、ナルは更に説明を続けた。
「イギリスへ行くとなると、自然、住居や生活の問題点がクローズアップされる。また麻衣の風当たりも強くなる。研究だけでなく、こちらもプライベートなことですが、少なくない女性からの攻撃対象となることが目に見えています」
「所長には女性ファンが多そうですからねぇ」
安原が感心して言うと、ナルは興味なさげに首を傾げた。
「様々な問題を手っ取り早く解決するには、入籍してしまうのが一番早い」
「まぁ・・・理に適っていますね。最も合理的です」
「そこで麻衣には結婚するかと言ったのですが、それからアレの機嫌が悪くなりました」
「え?」
「機嫌を損ねたきっかけは僕ですが、理由が理解できない」
ソファにもたれかかり、億劫そうにファイルを開くナルからは、本当に理解できないと言った不機嫌オーラが漂っていた。
それを感知した安原は脳内情報処理スピードをフルに活かして考えた。
この所長とあの谷山麻衣が付き合い始めて、既に3年の歳月が流れている。所長の論理に破綻は見られない。そして結果的にそれは谷山麻衣にとっても最善策と思われるのだが・・・どこでどうボタンが掛け違っているのか・・・安原はそこでふと、自分の恋人が漏らした不満を思い出した。
『 本当に、ナルは女性の気持ちを無視してますわ! 』
オーバーラップする感情的な怒声。
そこで閃いた自分の直感を・・・安原はできたら信じたくなかった。
そうして横目で麗しの所長様を盗み見た。
当年とって23歳。美麗な容姿に男の色気を漂わせた、才能豊かな、大変頭の切れる上司。しかし、しかしかの人は、あのナルなのだ。
「・・・・所長」
安原は意を決して、一つ年下の男に声をかけた。
「結婚を申し込んだのは分かりました。・・・ですが、それを、所長は谷山さんに何て言って申し込んだのですか?」
ナルはそこでようやく顔をあげ、怪訝そうに安原を眺めた。
「さきほど言った通りですが?」
「と言いますと、所長は色々と面倒だから結婚しようって言ったんですね?」
何をつまらないことを聞くと顔に書きながら、ナルは僅かに頷き同意した。
安原は麻衣に心の底から同情しつつ、我が事のように憤慨していた愛しの恋人を思ってため息をついた。もうここで身を引きたいのは山々だが、彼女らを思えばそれもできない。
安原は両肩に泥でもつまったような重圧を感じつつ、辛うじて笑みを浮かべた。
「所長」
「何でしょう?」
「例えご面倒でも、何故結婚したいか、一度きちんとセリフとして谷山さんにお伝え下さい」
安原の力の抜けた薄い笑いに、所長様は心底嫌そうに顔をしかめた。
けれどそれにイチイチ反応していては先に進まない。
「その上で、エンゲージでも何でもいいですから指輪とか贈って下さい。そうですねぇ、結婚相手は谷山さん以外考えられないとか」
「話にならない」
「一生側にいて欲しいとか」
「それは既に了解済みのことですが?」
「愛してるとか」
突如黙するナルに、安原は脱力感を感じつつ微笑んだ。
「安原の遺言と思って、お願いですから言葉を選んでもう一度お伝え下さい」
「・・・僕は既に・・・」
「現在のところ所長の申し込みは、目的を達成するには最悪の手段です」
最悪と断罪されて、ナルは無表情の下で更に機嫌を悪くしていた。
「僕が女の子だったら泣いちゃってますね。女の子にとって結婚は一大イベント何ですから、少しはプロデュースするのが男の甲斐性ってもんです」
むっつりと黙り込むナルに、安原は薄く笑った。
「お姫様の機嫌は、僕が何とかしなくちゃいけないんですから、ご協力願います」
ナルは疲れたように瞼を閉じ、手にしていたファイルを持って所長室に引き返した。
――― まずは、同意したと取っていいでしょう。…実行するかどうかは別として。
不機嫌オーラを漂わせた漆黒の後姿を見送りながら、安原は堪えきれずに笑みを漏らした。
――― ああ、もう、本当に頑張ってくださいね所長。
くつくつと人の悪い笑みをこぼしながら、こんな姿を見るのもあと僅か。と、安原は、彼にしては本当に珍しく、心底寂しくなり、そんな感傷に動揺した。
「閉鎖の日は、さすがに泣いちゃうかもしれませんねぇ」
安原はくすりと笑い、カップの底に残った紅茶を一気に飲み干して立ち上がった。
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