入館パスを提示するまでもなく、初老の守衛は顔見知りの子どもの姿に目じりを下げ、門扉を開けた。

「やぁ、ハルト。久し振りだね。元気だったかい?」

「うん、元気だよ。ありがとう」

邪気のない天使のような笑みを浮かべる晴人に、守衛は微笑みながら栗色の髪を撫でた。

 

 

 

 

 

第4話 : わすれもの

 

  

 

 

 

ケンブリッジという学都の一角、トリニティ・カレッジ。

そこが晴人の父、オリヴァー・デイヴィスの仕事場だった。

晴人は見知った研究者に会釈をしつつ、通いなれたラボの廊下を進み、見慣れた研究室のドアに手をかけると、無意識のうちに中の気配を探った。

ぼんやりと目の裏に浮かぶ2つの見知った影。

晴人はその存在に安堵しながら、勢いよくドアを開けた。

 

「こんにちは、リン!」

 

手前のデスクでパソコンに向かっていた一人、林興除は晴人の姿を見つけると、愛想のない無表情の顔を僅かにほころばせ、キーボードを打つ手を止めた。

「こんにちは、ハルト。どうしたんですか?今日は実験の予定はなかったと思いますが・・・」

「パパに忘れ物を届けに来たんだよ」

お邪魔します、と頭を下げつつ、晴人が奥へと続く扉を見やると、リンは困惑したように眉根を寄せた。

「ナルなら奥にいますが、最近は特に忙しくてピリピリしているんです。忘れ物でしたら私がお預かりしますから、中に入るのはやめた方がいい」

苦笑まじりにそう言うリンの顔を晴人はまじまじと見上げ、それからくすりと小さく微笑んだ。

「確かに中の機嫌は悪そうだけど、これは僕が直接じゃないと意味がないんだ。心配してくれてありがとう」

「そうですか?」

立ち上がりかけていたリンを制し、晴人はマフラーとコートをハンガーにかけ、奥の扉に向かった。

そしてドアの前まで来ると、思い出したようにくるりと振り向き、晴人は悪戯っこのような笑みを深めて言った

「でもね」

「はい?」

「リンもペナルティだね。後から回収するから、それまでには思い出しておいてね」

そして困惑顔のリンを残し、晴人は研究室奥、父親が個室として使用している部屋のドアをノックした。

 

 

 

 

照明は十分なはずなのに、その部屋の中はいつもどこか薄暗いような重厚な空気に満ちている。

その原因は部屋の住人が纏う濃密な空気によるとことが大きく、しかもリンの忠告通り、普段から決して軽くないその御仁の発する空気は、今は極悪というまでに暗く、冷たく淀み切っていた。

晴人はその厚い空気の層を雪を踏むようにして足を踏み入れた。

その侵入者に気がつかないわけはないのに、問題の父親は顔を上げることもなく、均一のスピードでキーボードを叩いていた。そうして晴人が父親のデスクに両手を突いた段階になって、ようやく重い口を開いた。

 

 

「何の用だ?」

 

 

地の底から響くような不機嫌そうな声に、晴人はにっこりと微笑み返した。

「忘れ物を届けに来たんだよ」

珍しい単語でも聞いたように、キーボードを叩いていた父親の指が一瞬止まった。

しかしそれも直ぐに元に戻り、父親は息子の笑顔を視界に入れることもなく首を傾げた。

「リンに預けておけ」

「リンにもそう言われたけど、直接渡す必要のあるものだからできないんだよね」

「そんなものを忘れた心当たりがないな」

「本当に?」

「ああ」

カタカタカタカタと、淀みなく続くキータッチの音を聞きながら、晴人は苦笑し、父親の前にあるノートパソコンのディスプレイ裏を指でつついた。

僅かに画面がぶれ、父親の眉間には深い皺が刻まれた。晴人はその顔を笑い、肩を竦めた。

「それをママと優人に言ったらダメだよ。父親失格って更に幻滅されて、散々嫌味言われるから」

「・・・」

「最近仕事ばっかりで深夜にならないと帰って来ないけど、今日は早く帰った方がいいと思うんだよね。それも今から、僕と一緒に」

晴人の進言に父親はひっそりとため息をついた。

「もって回った言い方だな」

「ママも仕事のし過ぎだって心配しているしね。心労でママの方が先にまいっちゃいそうだよ」

「忘れ物とは家族か?」

「それもある意味正解だけど、ちょっと違う」

「健康?」

「それもあるね」

「後は?」

「今日は12月3日なんだ」

晴人がそこまで言うと父親はようやくディスプレイから顔を上げ、疲労で曇った両眼の中に息子の姿を映した。

  

 

 

「13歳の誕生日おめでとう、晴人」

 

 

 

「ありがとう」

にっこりと微笑み続ける息子を前にして、父であるナルもようやく観念したように瞼を閉じ、キーボードを打つ手を止めた。

「誕生日のリクエストは?」

「パパの健康と家族の団欒。それにゲームソフトが付いてくれたら言うことなし」

晴人の要求にナルはちらりと薄目を開けた。

「帰宅は了解しよう。ただし、ゲームソフトの件については麻衣の許可が必要だな。了承済みか?」

子どもと話すにはあまりに適さない口ぶりに、晴人は苦笑しながら首を振った。

「ママはゲーム嫌いだもん。中々新しいソフトとか買ってくれないんだよね」

「それなら・・・」

「でもさ、誕生日忘れていたってペナルティとして、パパがその説得役をかってくれてもいいよね?」

さらなる提案に、ナルは面倒そうに目を細めたが、直ぐにため息をつき直し、キーボードに指を乗せた。

「パパ?」

「10分待っていろ」

ごく短い返答に、晴人はにっこりと満足げに微笑み、部屋を出た。

 

 

 

晴人がナルの個室から出ると、リンは手前の椅子をすすめ、熱い紅茶を手渡した。

そして晴人が落ち着くのを確認すると、自身も向かいの椅子に腰をおろし、晴人の顔を覗き込んだ。

「それじゃぁ、今日はすぐ帰るんですね」

「うん。久しぶりにリンと話もしたかったけど、それはまた今度ね」

小首を傾げて愛想を振り撒く晴人に、リンは生真面目に頷き質問を重ねた。

「最近、ラボに駆け込んでくることが減りましたね。力が落ち着いてきましたか?」

しかし、続けられた質問に、晴人は笑顔を強張らせ、ぎこちなく首を横に振った。

「・・・・それは逆」

「は?」

「全然ダメってこと。落ち着いてななんかないよ。最近は前にもまして酷いんだよね。道を歩いているだけで重いのから軽いのまでよく見える。見えるし、聞こえるし、臭うし、もうしっちゃかめっちゃか。学校に行くのもしんどいくらいなんだ。もちろんカットできるように気をつけているけど、二十四時間そうはやってられないからね。いつの間にか囲まれていることが多い。だから色んな人の思い入れの多いここに、メンタルトレーニングで来るのも辛くてさ、ついついサボりがちになってたんだよね」

晴人の返事にリンは小さくため息をついた。

「だからと言ってトレーニングを怠ればますます事態は悪化するでしょう?」

「優人がいるもん。悪化なんかしないよ」

そして晴人のさらなる答えに、リンは表情を曇らせた。

それと同時に言葉にならないリンの感情の気が晴人の元に流れ込み、晴人はひっそりと微笑んだ。

「心配しないでいいよ、リン。優人に頼らないで、自分でちゃんとできるようにならなくちゃいけないってことくらい僕だって分かってる。でもね、自立心?自制心?どっちでもいいけど優人っていう誘惑があると、それはとっても難しいんだ」

そして、晴人は他人事のように遠い目をした。

「いっそのこと、優人と離れた方がいいのかもしれないね。そうしたら、こんな甘えはなくなって、僕はちゃんと自分をコントロールしようとするのかもしれない」
「それは考え方の問題ですよ、ハルト」

常に冷静で、型に嵌った的確な言葉を告げるリンを見上げ、晴人は首を振った。

「わかってる。僕だっていつまでも " やさしい優人 "に頼った" お兄ちゃんっ子 "でいるつもりはないよ。頼って、甘やかされているうちはいいけど、それで優人の負担になるのは嫌だもの」

「ハル・・・」

穏やかな口調に引き摺られて、哀れみと同情が入り混じった空気がその場を覆った。

その生温い空気に晴人が息をついた瞬間だった。

  

 

 

 

「馬鹿馬鹿しい罪悪感だな」

 

  

 

 

突然告げられたあまりに乱暴な一言に、晴人が驚いて声のした方を振り向くと、何時の間にか部屋から出ていた父親が、黒のロングコートを片手に歩み寄ってきていた。

「ナル?」

リンが怪訝そうな声を上げるのを横目に、漆黒の美人は嫌に平坦な口調で続けた。

「利用できるものを利用して何が悪い」

「!」

「力が制御できない時期は能力者にはままあることだ。その時サポートできる人間がいるのであれば、それを使わない手はない。発熱すれば解熱剤を飲む。それと同じだ。薬に依存するのは問題だが、それを恐れるあまり服用しないのは馬鹿のすることだ」

淡々と発せられる刃物のように鋭い指摘に、晴人は思わずナルから顔を背けた。

「薬と優人を一緒にしないでよ。優人の人格はどうなるのさ。僕に利用されているんだよ?」

「それは優人の問題であって、晴人が考えてやる問題ではない。それにたった2人の兄弟で、互いを利用することに罪悪感を持つ必要はない」

ナルはそこで躊躇いなくはっきりと断言した。

 

「自分の主は自分だ。それさえはっきり自覚できれば、問題はない。そう焦らなくても、嫌でもいつかは優人に頼っていられなくなる時がくる。それまではせいぜい使ってやることだ。それと甘えを混同して、根本の問題から目を背けるな」

   

他者を飲み込む独特の雰囲気を持つ父親を前にすると、晴人は自分が酷く愚かな考えに囚われているような気分になった。けれどそれはすんなり飲み込める意見ではなくて、晴人は何とかそのナルに反論した。

「パパは自分に自信があって、強いからそんなことが言えるんだよ。僕みたいに意思が弱くて、目の前にスケープゴートがあったら、そうはなれないよ・・・そうは思えない」

しかし、その反論にもナルは僅かに目を細めただけで、動じることはなかった。

「そうやって自覚があるうちは大丈夫だ。そういう意味で晴人は昔の僕より聡い。いつか優人と離れてもその時はその時でどうとでもなるだろう。曖昧な不安に振り回されて心配するのは無意味だ」

そのあまりにとっぴな言葉に、晴人は一気に肩の力が抜け、苦笑した。

 

「何それ?予言?」

 

嫌味交じりに応じると、ナルは首を傾げ、ややあって答えた。

 

「・・・・・いいや、ただの経験則だ」

 

そして嫌に艶やかな笑みを浮かべ、ナルは小さく笑った。

その意味を知らない晴人はただ見惚れ、意味を知るリンは思わず目を背けるほど、その笑みは哀しいほどに美しく、印象的なものだった。けれどそれも一瞬のことで、ナルはすぐにその顔から表情を落とし、コートを羽織ると同時に研究室のドアを開けた。

「パパ?」

「帰るんじゃなかったのか?」

「あ!うん!!ちょっと待って!!!」

バタバタと支度をする晴人に、リンはほっとしたようなため息を落とし、ナルに視線を投げた。

「後は頼む」

「ええ」

そして、できうる限り、触れて傷など付けないように、リンは無表情で頷き、親子を送り出した。