「 嘘つき 」
日本へ向かう機内の中で、16歳の少年は窓の外を眺めたまま小声でそう呟いた。その呟きは 「帰ってくる」 と明るく笑って手を振った少年の兄に向けたものに違いなく、誰に聞かせるつもりもなかったであろうその言葉を、誤って耳にしてしまったリンは思わず息を止めた。
かける言葉などあるはずもない。
その場でリンができたことは、触れて傷など付けないように、気配を殺して身を硬くするしかなかった。
それが、彼にできた精一杯の庇護だった。
第5話 : 彷徨う記憶
カタカタと、風が防寒用の分厚い窓ガラスを揺さぶる。
その音を聞きながら、リンが研究室の窓から鉛色の雲が覆う冬空を眺めていると、ひょっこりとまどかが顔を出した。
「あら?晴人が来てるって聞いたんだけど?」
「ハルトなら今日は早く帰らないといけないからと言って、先ほど帰りましたよ」
「え!もう帰っちゃったの?!」
なんだ、残念。と言うまどかの手には大がかりな装飾を施された水色の紙袋があった。
リンが訝しげにそれを見つめていると、まどかは朗らかに笑って紙袋を持ち上げた。
「晴人のバースデープレゼントよ。せっかくなら当日渡せた方がいいかと思って、慌てて持ってきたの」
まどかに言われて、リンはようやく晴人が言い残していった" ペナルティ "の意味に思い当たり、顔を顰めた。
「すっかり忘れていました。今日は晴人の誕生日だったんですね」
「あら、リンったら忘れてたの?」
仕方ないわねぇ、と笑うまどかに、リンはぎこちなく頷いた。
「ハルトにペナルティを出されました。今度会った時に埋め合わせしておかないといけませんね」
まどかはくすくすと笑いながら、周囲を見渡し、見慣れた黒のロングコートがコート掛けにないことに目をとめた。
「ナルなら一緒に帰りましたよ。誕生日の本人が押しかけたなら、さすがのナルも付いて行かざるを得ない」
「リンが忘れていたくらいだから、ナルも晴人の誕生日を忘れていたんでしょうしね」
まどかは肩をすくめながら研究室に足を踏み入れ、空いたデスクの上に大きなプレゼントを置いた。
「早いものね、あの小さな天使みたいな晴人ももう13歳になるのよ」
「もうそんなになりますか・・・・」
本気で驚いた様子のリンに、まどかは笑みを深め、頭を振った。
「年取るはずよね。晴人は13で、優人なんかもう16歳よ?」
そして、ふと、まどかは微笑を浮かべた顔に陰を落とした。
「ナルがジーンを探しにリンと日本へ行った歳だわ」
耳に痛いその事実に、リンは目を細め、カタカタと鳴り続ける窓ガラスに手をつき、陰気な空を見上げた。
「もう、あれから何年になりますかね・・・」
「ちゃんと数えると自分の歳を呪いたくなるからやめておいた方がいいわよ」
心底嫌そうにうなるまどかに、リンは僅かに微笑みんだ。
「あの年も随分寒い冬で、天気が悪かったですね」
その言葉に引き寄せられるように、デスク脇に立っていたまどかはリンの横に歩み寄り、揃って厚い雲が垂れ込める空を見上げた。
底冷えするイギリスの陰気な冬は、どれだけ月日が流れようとも変わらない。
それを見上げながら、まどかは小さくため息をついた。
「あの時も何でこんなに若い子が死ななくちゃいけないんだろうって思ったものだけど、今こうして優人や晴人の成長を見てからだと、あの子は本当にまだ子どものうちに死んでしまったんだなぁと実感するわね」
やや投げやりなまどかの口調に、リンは僅かに目を伏せた。
「あの日、日本へ向かったジーンを見送ったのが最後になるとは思いもしませんでした」
「当然よ。あの双子達本人だって思いもしなかったんだから」
「そうですね。彼らに予感できなかったのだから、他の誰も分かるはずありません」
自信たっぷりに言い切ったリンの言葉に、まどかはさしたる疑問も持たずに頷いた。
「ジーンが帰国したらすぐに調査予定入っていたから、年明け早々忙しくなるんだなぁって思っていたわ」
「ナルは早く調査に入りたがっていましたから、不機嫌そうでしたね」
「ふふ、そうだったかしら」
「あの当時は現象を映像記録することにご執心でしたから」
「それが次に会えたのは、1年以上も先で、見分けもつかない腐乱死体だとはね」
軽い口調であるけれど、そこに込められた痛みは自分と同じように、そしてこの部屋の主と同じように、未だに疼くのだろう。共有するその痛みにリンが言葉をなくすと、まどかはそれをちゃかすように話題を変えた。
「この先会えるとしたら、自分が死んだ時だけなんて本当に嫌ねぇ」
突然の話にリンが僅かに顔を上げると、まどかは朗らかに笑いながら、顎に指を当て、首を傾げた。
「知らない?自分が死んだらその前に死んだ家族とか、親しい人が三途の川を渡って "お迎え" に来てくれるって迷信があるのよ。これって日本だけだったかしら?」
その専門家が何を言い出すのか、と、リンは半ば呆れながらも、律儀に返事をした。
「未だに実証はされていませんが、臨死体験者が亡くなった家族に会うというのは、多い話ですね」
「ね?だったら、私が死んだらジーンが出てきてくれるってことでしょう?」
「・・・まどかは家族ではないのですから、無理ではないですか?」
「あら、家族みたいなものじゃない。ケチ臭いこと言わないでよ」
そういう問題ではない。と、リンが違う意味で言葉をなくしている脇で、まどかは調子付いて口を滑らせた。
「そう思ったら、死ぬのも少しは怖くなくなる」
「まどか!」
咄嗟に声を荒げ不快感を顕わにしたリンに対して、まどかはしくじったと首を竦め、リンの重いため息を勝ち取ると、その腕に凭れ掛かって薄く笑った。
「 う そ 」
「・・・」
「嘘に決まっているじゃない。バカなリン」
続けられた言葉に、リンはさらに顔を顰め、預けられた頭を軽く小突いた。
最後に " 彼 " と会ったのは、ヒースロー空港だった。
単身で日本へ向かおうとしていた彼 は終始上機嫌で、見送りに来たナルに何とか抱きついて別れを告げようと画策していたが、そのことごとくをナルの強固な拒絶によって不発に終わらせていた。
「なんだよ。折角なのに」
「ふざけるな」
「寂しいでしょう?」
「冗談じゃない」
仲がいいのか悪いのか、満面の笑みと不機嫌そうなぶっちょう面をつき合わせる双子に、見送りに来たまどかが苦笑した。
「もういい加減にしなさいよ、2人とも」
「だって折角なのにさぁ」
「まぁ、そうよねぇ、ナルもジーンとハグくらいすればいいじゃない」
「・・・」
「お兄ちゃんが一人で行っちゃうから寂しくて拗ねてるの?」
「あ、なぁんだ!そういうこと!!」
はしゃぐ2人に呆れ果てて帰ろうとするナルをルエラが慌てて止めていた。
その様子を眺めながら、彼は満面の笑みを浮かべて言った。
「すぐ帰ってくるからね!」
彼が日本に向かったあの日も、見上げた空は光のない、陰鬱な冬空だった。
「 すぐ帰ってくるからね! 」
けれどその暗かったはずの天候さえ吹き飛ばすように、彼の笑顔は輝やかんばかりに明るかった。
「 すぐ帰ってくるからね! 」
誰も思わなかった。
双子の弟も、そして彼自身も、よもやその約束が果たされないとは夢にも思わなかった。
だからあの日、私たちはいとも簡単に別れを告げた。
その先に待ち受けていたことを予感して、彼を引き止めるようなことはなかった。
それはどれだけ悔やんでも修正できない過去の出来事で、
今ではもう、諦められるほど遠い、遠い過去の出来事だ。