優人の日本旅行計画に対するナルの返答は一言だった。
「却下」
それまで比較的和やかだったはずのリビングは、その一言で絶対零度の冷気を発する親子が対峙する、極寒の地に変容した。
第6話 : 冷たい争いの意味
思わずその場から一歩退いた晴人の横で、冷気の元の一つである優人は怯える様子もなく、逆に一歩前に出て、耳を殺ぎ落とさんばかりの冷気を纏ったまま、対面する父親に向かって冷淡な口調で尋ねた。
「何故?」
一方、対面するナルは、これもまたごく素っ気無く返事を返した。
「日本行きの必要性を感じないからだ」
その簡素な理由に、優人はひくりと頬を歪ませ、大仰にため息をついた。
「・・・・・・行動を起こすのは僕なんだから、特にあんたが必要性を感じる必要はないと思うけど?僕にとって価値があればそこに必要性が生まれる。あんたと僕の価値観が一致することこそ必要ない」
「むろん、同一の価値観を強要するつもりはない。ただし資本は僕のものだろう。であれば、その資本の使用用途は僕の価値観によって判断されるのが道理だろう」
「本来保持しているものではなく、サービスだよ。自分が使用する予定がないなら、有効利用したいと言っているんだけど?」
「サービスの言葉の定義が間違っているな。これは利用を促した販促行為だ」
「提供されるサービスに変わりはない。みすみす無駄にすることはないでしょう?」
「無駄? 販促行為の戦略に乗らなくとも、僕は自分の資本を無駄にしたことにはならない。優人は" 算数 "もできないのか? 」
にっこりと、微笑みながら囁かれた暴言に対して、優人は僅かに顎をあげせせ笑った。
「利息を受け取らないのは無駄だよ。" 経済 "を知らないの?」
「供給者に追い立てられる資本主義を指したものに興味はないな」
「賢い選択ではないね。興味がないなら興味のある人間に譲渡しても構わないじゃないか」
「" 経済 "に参加したいのなら、自分で資本を作ることだな。僕が付き合ってやる問題ではない」
「仮にも親なら、子どもにチャンスを与えるべきだ」
「それはあくまで親の視点から考えたものであるべきだ。そういう意味でなら、僕は優人の言うチャンスに価値は見出せない。無意味な上、必要性もあるとは思えない。よってその論理は成立しない」
「なぜそこで無意味と判断するかの基準を知りたいね」
あくまで喰いさがる優人に、ナルは薄く笑って肩をすくめた。
「価値観は強要しないんじゃなかったのか?そこの差異を明確にしたところで相互理解が図れるとは思えないのだが?」
酷薄に微笑むナルに、堪らず麻衣が横から口を出した。
「ちょっとナル?!少しは子どもの言い分も聞きなさいよ!」
その一言でナルはその場から軽く身を引いた。
その態度に優人は明らかに気分を害し、さらに話を続けようとした麻衣に苦心して微笑を向けた。
「いいんだよ、母さん」
「優人?」
今にも食って掛からんばかりの麻衣を制して、優人はにっこりと力強く微笑んだ。
「僕はこの人と話をしたいんだ。少し黙っててくれない?」
それは確かに微笑ではあったのだが、有無を言わさぬ迫力で作られた拒絶だった。
僅か16歳の息子とは言え、それはナルの子。
持ち合わせた迫力は、皮肉なことに父親に酷似して圧倒的ですらある。
麻衣は昔ナルに対してそうしたように口元を歪めて押し黙った。
ナルはその様子を興味なさげに見守ると、ため息を一つ落として立ち上がった。
「麻衣、お茶」
そしてそう言い置くと、リビングのソファに向かったナルを、優人は悠然と追いかけていった。
そのそっくりな後姿を見つめながら、麻衣はこれもまたため息をついて肩を落とし、同じように食卓に取り残された晴人を見つめ、すがるような視線で麻衣を見上げていた晴人と視線を合わせた。
「もうここ片付けちゃう?」
「そうねぇ・・・あらかた食べちゃったし、もう食事にはならないでしょう。晴人、手伝ってくれる?」
「いいよ」
そして二人は静かな舌戦を繰り広げるナルと優人を置いて、食卓を片付け始めた。
晴人の誕生日だからと大量に作った料理を片付け、手分けして食器を洗いながら、麻衣はため息をついた。「せっかくのお誕生日なのに、何だか散々ね」
ごめんね、晴人。と、肩を落とす麻衣に、晴人は苦笑しながら首を横に振った。
「ううん、久し振りに家族4人揃って食事して、ケーキ食べて、皆からプレゼントもらえて、僕は満足だよ」
「晴人・・・・・」
皿を拭く手を休めて目元を潤ませる麻衣に、晴人はころころと笑いながら首をすくめた。
「だって優人とパパが喧嘩するのはいつものことだもん。こうなることは予想できたけど、パパを呼んだの僕だしね。自業自得って言うんでしょう?こういうの」
感激で涙ぐんでいた麻衣はあっさりとした晴人の返事に涙がひっこみ、複雑そうな顔をして晴人を見下ろした。
「まぁ・・・・確かにいつものことだけど・・・・ね」
「でしょう?」
まるで大人のような顔つきの晴人に麻衣は苦笑した。
「よくもここまで喧嘩のネタがつきないわよね」
「今回の旅行の件は優人の思いつきだから、状況は優人の劣勢だけどね。ああなっちゃったら、パパに口で勝てるわけがないのに、優人も懲りないよね。実はパパのこと好きだったりして」
「実はそうだったりしてね」
麻衣と晴人は顔を見合わせ、リビングの2人にバレないように声をひそめて笑いあった。
「パパと話していると、不思議といつの間にか自分が間違っていたような気分になるよね。どうしてだろう?」
「口がうまいってそう言うことを言うのよ。見習わなくてもいいからね!」
力説する麻衣に晴人は苦笑しながら頷いた。
「ナルが考えていることはいつもよく分からないけど、結果的に筋は通っているのよ。自分勝手に見えるでしょうけど、必ずしも全部が全部そういうわけじゃないのよ?特に優人と晴人のことはちゃんと考えているはずよ。だから今回のことも、多分、何か考えがあってのことなんだろうけど…でも、あんな言い方じゃぁ優人だって納得できないわよね。何もあそこまで強固に反対しなくてもいいのに」
納得いかないと顔に書いてため息を落とす麻衣を見上げ、晴人は困ったように首を傾げた。
傍若無人で、口が悪くて、性格も悪くて、逆立ちしてもハートフルな態度はとってはもらえないけれど、父親は常に真摯に自分達家族、現実、そして研究に向き合っている。
愚直なまでに揺るがないその姿勢は、圧倒的な絶対性を兼ね備えていた。
あの人はあの人なりにいつだって自分達を大切にしてくれる。
例え何があっても、最終的には必ず助けてくれる。
その実感は何物にも代えがたい安心感をうみ、幾度となく晴人を支えた。
見えすぎて、聞こえすぎて、どれが " 本当 " なのかと混乱しそうになる時、それは一筋の光になる。
何もかもを疑って、狂ってしまえたらいいと自棄になりそうな時も、晴人を" 現実 "に引き戻してくれる。
――― そういう意味では、僕はパパを全面的に信頼しているんだろうな。
晴人は未だ優人と冷戦を繰り広げる父親を遠目に眺めながらそう一人ごちた。
だから、どれだけ理不尽だと感じても、この人の言うことだからきっと何かあるに違いないと、ほとんどの場合、晴人はナルの言うことを全面的に信頼し、結局は全て飲み込んでいた。そして本人の生活態度以外に対しては、母親も父親に対してそう思っていることは、分かりやすい性格からして疑いようがなかった。
ただ、優人はそれを良しとはしていない。
晴人と麻衣を守ることを自分の責としている優人にしては、父親の態度は許しがたく、さらに晴人と麻衣の父親に対する態度も面白くないのだろう。
そしてこの親子の関係は悪化していくのだ。
――― 特に誰が悪いってわけじゃないのにな。
きっと同じ感慨を持っているだろう麻衣と同じようにため息をつき、晴人は最後のカップを洗い終えた。
そして、ふと、その違和感に気が付いた。
それは言葉にしたはしから逃げていってしまうような、本当に些細な違和感だったが、確実に晴人の胸を撫で、肌をざわつかせた。
胸騒ぎに似たその感触に、晴人は反射的に周囲の気配を探った。
―――― 何だろう?
優秀な術者であるリンが結界を張っているため、この家の中に強い悪霊がいることはない。
あわせて今は優人が側にいるために、晴人を煩わせるような霊が近づくこともありえない。
それなのに、晴人が感じた違和感は確かにマイナスの思念を含んでいた。
聡い麻衣に気がつかれないように、晴人は無言のうちに自身で張り詰めていたガードを一部解き放ち、意識を切り替え、神経を尖らせた。
しかし、結界で守られたこの場に家族以外の意識の痕跡は見当たらなかった。
――― でも、何かある。
晴人は掴みきれない違和感の正体に、僅かに眉を顰めた。
晴人にとって家は聖域だった。
そこに自分が感知できない異物が混入しているのはどうしても許せなかった。
過敏な神経はガードを全面的に解いて集中してしまうと、様々な情報を優先順位を付けずほんの些細なことすら完璧に近い形で感知する。
少し怖いけれど、集中すれば違和感の正体は掴めるだろう。
晴人はその予感に騒ぎ出す胸を押さえ、意識して深呼吸をした。
外でそんなことをすれば、雑多な意識に飲まれて気を失うことは必須だろうが、この状態の家でならおそらくそこまでの負荷はないだろう。きっと大丈夫だ。
晴人はそう結論付けると、自身の神経を研ぎ澄ませた。
ピンっとこめかみが張り詰めるような感触がする。
すると晴人の視界は幾重にも重なるフィルターのように変化し、視界の隅にある白熱灯の熱まで感じ取れるほど肌が敏感になった。雑多な情報が押し寄せてくる。
その変化を感じたと同時に、晴人は違和感の正体に気がつき、驚きのあまり目を見開いた。
―――― なんで?
意味がわからない。
晴人は目にした情報に混乱したまま、慌てて集中を解き、情報をシャットダウンした。
「どうしたの、晴人?」
突然硬直した晴人に、麻衣は首を傾げてその顔を覗き込んだ。焦点の合わないその表情に、麻衣は顔を曇らせ、濡れた手をエプロンで拭きながら、晴人の視線まで腰を降ろした。
「何か入ってきちゃった?」
麻衣の問いに晴人は思案顔のまま首を横に振った。
「霊なんて・・・・いないよ」
そして未だ口論の続くナルと優人の方に視線をはわせ、眉間に皺を刻んだ。
「でも、おかしい」
「何が?」
晴人の言葉に促されるように、麻衣は晴人の視線を追ってリビングのソファを見やった。
ソファにはアームに頬杖をつき、すっかりくつろいだ風のナルが腰を下ろしながらも、正面に仁王立ちする優人を見上げ、口論を続けていた。
先ほどと少しも変わらない光景だ。
麻衣が首を傾げる脇で、晴人は視線を逸らさずに声を出した。
「 どうしてパパは優人を見ていないの? 」
意識を全開にした晴人の目にナルは盲目のように映った。
それが晴人が感じ取った違和感の正体だった。
目の前に優人がいて、言い争いまでしているというのに、ナルは全く優人を見ていなかった。
言い争いはしょっちゅうだけれども、それも晴人から見れば、ナルは優人を自身のテリトリーに保護した上での諍いに見えていた。しかし今日の態度はそれとは明らかに違う。
――――― 優人を拒絶している?
晴人はその事実に呆然としながら、思わず傍らに立つ麻衣の上着を掴んだ。
口喧嘩は見慣れている。
そんなものは怖くない。
どれだけ真剣に怒っていても、それは家族のスキンシップだ。
真剣に向き合っている証拠だ。
愛されている証だ。
でも、これは違う。
これは、怖い。
見る間に顔色をなくしていく晴人を麻衣は慌てて抱きしめ、カタカタと震えだす晴人の肩に腕を回した。
「どうしたの晴人?大丈夫よ。落ち着いて」
柔らかく、優しい声が、思いの他力強く心に響く。
それでも冷水を浴びたように体の震えが止まらない。
「晴人?」
麻衣と晴人の異変に、それまで口論に夢中になっていたナルと優人も気が付き、2人はすぐに晴人の元に駆け寄った。
「僕がいるのにこの家に何かいたっての?」
心外そうな優人の声に重なるように涼やかな声がした。
「麻衣、見せてみろ」
その声に晴人は恐る恐る顔を上げた。
そこには深い闇を思わせる黒い瞳があって、それは真っ直ぐに晴人を見つめていた。
いつもと変わらない、まばゆいまでに真摯な父親の瞳。
真っ直ぐに自分と向き合ってくれる、くもりのない瞳だ。
その普遍的な安定感に、晴人は逆に怯え、さらに強く麻衣の上着を握り締めた。
―――― だったらどうして、パパは優人だけ見ないの? パパは優人が嫌いになったの?
鉛のように重い痛みが晴人の胸を突いた。
何がそんなにショックなのか、それを晴人が理解する前に、衝撃に耐え切れず、晴人は意識を失った。