最初に教わったのは、身を守る方法だった。

                

               

                 

                

                

第7話 : 完璧な部屋

                

                 

                

                

                

「部屋をイメージしなさい、晴人」

ナルはそう言いながら、目の前のモニターにこれといって特徴のない部屋を写した。

「この中には何も入ってこれない。何も見えないし、何も聞こえない完全な部屋だ。この中はとても静かで、誰も晴人を傷つけない」

そう言うと、ナルは少し間を置いて晴人に尋ねた。

「何が見える?」

晴人は広がっていくイメージに言葉を被せようと目を瞑り、視界の底にある部屋の気配を探った。

そうするとその部屋は閉じた瞼の奥にぼんやりと浮かび上がり、晴人をすっぽりと包んだ。

「・・・・・光・・・・あったかい・・・・・黄色・・・・・あったかい・・・・・・熱い?・・・・・・光ってる」

「いい部屋だな」

褒められて、晴人は嬉しくなって微笑んだ。

  

安全で、あたたかくて、幸せな " 部屋 " 

 

しばらくの間、晴人がその部屋の中で遊んでいると、ナルは晴人の肩をたたき、目の前のモニターを切り替え、特徴的な鍵の映像を見せた。

「鍵をイメージしなさい、晴人」

「かぎ?」

「小さくていい、その鍵があれば、晴人はいつでもこの部屋に帰ってこれる。鍵を閉めればもう誰もその部屋には入れない。その鍵さえあれば晴人は安全だ。そして晴人はいつでもその鍵を持っている」

晴人はイメージの部屋から這い出して、モニターに写る鍵をその手に取った。

けれどその鍵では部屋のドアにはうまくささらなかった。

そもそも、晴人の部屋のドアに鍵穴はなかった。

晴人は困ってナルを見上げ、訴えた。

「ささらないよ」

その返答に、ナルは無表情で頷くと、晴人の瞼に大きな掌を乗せ、視界を塞いでさらに尋ねた。

「部屋にドアはあるか?」

「あるよ」

「晴人はいつもそのドアの側にいる」

「うん」

「晴人はいつでもこのドアから部屋に入れる。でも他のものは入れない」

「どうして?」

「とても頑丈なドアだからだよ。晴人が思えば、そのドアはいつでも晴人の前にあらわれる」

「いつでも?」

「いつでも。このドアは晴人を部屋に入れて、出たい時に出してくれる。晴人を守ってくれる」

「おばけが来ても平気?」

「平気」

「どうして?」

「晴人が大切だから、晴人のために・・・・晴人を守ろうとしているからだよ」

「ああ・・・」

晴人はそこではっきりと " ドア " の形を捉えた。

 

 

 

 

 

「 それ " 優人 " が開けてくれるドアなんだね! 」

 

 

 

 

 

晴人は微笑み、納得した。

四角い部屋は、そのまま現実の部屋だ。

パパの家だから、この部屋はとても頑丈で、ママのように明るい陽の光に満ちて温かいのだろう。

そうして、その中にはいつも優人がいるのだ。

優人はいつでも僕の側にいて、僕のためにドアを開けて中に入れてくれる。

そうして何ものにもそのドアを譲らない。

優人は見上げるほどに強いから、優人は誰よりも僕を大切にしてくれるから、優人は僕が好きだから。

                  

だからここは " 完璧な部屋 " 

                

そこはいつでも現れて、僕を守ってくれるのだろう。  

                

                

                

                

                

                

                

                

               

ぱかり、と唐突に目を開けた晴人に、ちょうど顔を覗き込んでいた麻衣は思わず息を飲み、そのために反応がワンテンポ遅れた。ぼんやりと自分の顔を覗き込む麻衣を見上げ、晴人はかすれ声を発した。

「・・・すっかり忘れてた」

汗でべったりと額にはり付いた晴人の髪をかきあげながら、麻衣は首を傾げた。

「どうしたの?」

熱はないようだけど・・・と、気遣う麻衣に、晴人は先の質問を無視して訪ね返した。

「ここ、僕の部屋?」

「そうよ。晴人はリビングで気を失っちゃったの」

「・・・ああ」

「優人が運んでくれたの。気分はどう?気持ち悪くない?」

「大・・・丈夫・・・・・だと思う」

「そう、良かった。でも不安なら言いなさい。優人呼んで来るから」

麻衣の言葉に晴人は力なく首を横に振ると、大きくため息をついて瞼を閉じた。

「いいよ。ここに居れば平気だもん」

「そう?」

優人やナルのように急いて事の詳細を聞き出そうとはしない麻衣に、晴人は瞼を閉じたまま微笑んだ。

理知的というよりもむしろ感情的に、何に対しても同情して、共感することを最優先する母親はある意味とても効率が悪くて、物事の根本解決からは程遠い性格の持ち主だ。

躊躇いなく突きつける感情の熱い熱は、ともすればとても滑稽に見える。

けれど、この瞬間的な熱は小さな理屈も真理も溶かして、あの父親の絶対性すら奪い去る。

その原始的な力強さに、ギスギスしてしまいそうなこの家族はどれだけ癒されてきたのだろう。

 

―――― " お母さん " だからかなぁ。

 

晴人は額に触れる柔らかい掌に自身の掌を重ね、泣き出しそうに熱くなった胸を宥めるように深呼吸した。

「僕ね・・・最近、前より幽霊がよく見えるんだ」

重ねた掌と、触れられた額からは柔らかい黄色の光が滲んで見えた。

黄色い、太陽のような暖かい光。" 完璧な部屋 " の色。

「生きている人の感情も、声も、聞こえすぎるくらいにわかる」

晴人の告白に、麻衣は驚くことなく頷いた。

「怖い?」

「時々、怖い」

「辛い?」

「・・・・とても、辛いよ」

日に日にその音が強くなったのはいったいいつからのことだっただろう。

それでも最初はその時だけだと思った。

明日には治る。来週には元に戻る。来月には慣れるかもしれない。

そう思っても、押し寄せる情報は日増しに増え、見たくないと必至に拒絶しなければ、息さえつけないような光景が広がった。願っても、祈っても、絶望的にその望みは叶わない。

「でも、僕には " シェルター " があるから平気なの」

「晴人の " 部屋 " ね」

「うん、そう・・・・・今さっき思い出したの。この部屋はパパが作ってくれた」

「そうね」

「部屋の色はママがつけてるんだよ」

「そうなの?ふふ、何だか嬉しい」

ふわりと浮かび上がる気持ちの波動に、晴人も思わず微笑んだ。

「そしてねその部屋にはいつも優人がいてくれるの。だから、僕は無条件で信じられたの。この部屋はいつでも僕を迎えてくれる。絶対に他の誰かには譲らない。ここは大丈夫だって、頭から信じられたの。だからどれだけ外が怖くても平気なの。僕には部屋があるんだから」

「最強ね」

「うん」

晴人は浮かべた笑みをそのままに、胸にせり上がった言葉を口にした。

 

 

 

 

「だから、優人がいなくなったらどうしようと思ったの」

 

 

 

 

「優人がいなくなったら、僕は生きていけない。優人がいなかったら、こんな世界耐えられない」

「晴人?」

「パパとママはパパとママだもん。ずっと側にいてくれるもん。でも優人は分からない。優人は兄弟だもん。いつかどこかに行っちゃうかもしれない。優人はこんなわがままな僕を嫌いになるかもしれない。そしたら、優人はどこかに行っちゃうかもしれない」

そう、最初から本当はただそれだけだったのだ。 

 

 

 

 

「優人に嫌われたくない」

 

 

 

 

ただ、それだけが怖かった。 

「嫌われるくらいなら、その前に嫌いになろうと思ったんだ」

「晴人・・・」

「でも、そんなこともできないの。だって僕はいつまでも優人の側にいたいんだもん。怖いんだもん」

怯え切ってかすれた声に、麻衣は堪らず晴人を抱きしめ囁いた。

「優人は晴人が好きでしょう?大丈夫、すぐ側にいるわ」

麻衣にしっかりと抱きしめられ、晴人はその温かい胸の中で湿気った息をつき、首を振った。

「そんなの分からないよ」

「うん、分からないかもしれないね。でも、今はとにかく大丈夫なんだから、優人を嫌わないでいいのよ?」

麻衣の言葉に、晴人は涙ぐみながらさらに強く首を横に振った。

「でも、だったらパパは優人を無視しちゃダメなのに・・・・」

「え?」

「優人がここにいるためには、パパが優人を見てないとダメなのに。さっき、パパは優人を見てなかった!」 

晴人はそこまで言うと、瞼を閉じたままぼろぼろと泣き出した。

 

 

 

「パパが優人を離したら、優人がダメなのにっっ」

 

 

 

混乱して会話が四方に飛ぶ晴人を胸に抱きながら、麻衣はゆっくりと深呼吸をした。

「晴人はそれが怖くて混乱しちゃったのね」

びくりと震える肩に、麻衣は切なげに微笑み、泣きじゃくる頬に頬擦りした。

「大丈夫よ、晴人。落ち着いてママの心を読んでみて?不安なんて感じてないでしょう?心配なんてしなくても、ナルは晴人も優人も愛してるし、いつか優人もそれを分かってくれるわ。焦らなくても大丈夫よ」

それは理不尽で、まるで説得力のない話のようだったが、それが見栄でもなんでもない本音とわかるだけに、晴人はその声に耳を傾け、不安で暴れだしそうな胸を辛うじて静めた。

その様子を確認して、同じように共感する力に長けた麻衣は腕の力を緩め、晴人の額に自分の額を擦り付け言った。

 

「 誰も晴人を一人になんてしないから 」

 

覗いてしまった暗闇に怯えて硬くなった心に、その声は直に届いた。

その衝撃に、晴人は安堵のあまりさらに涙をこぼした。

 

――― 優人にもこの力があればいいのに・・・・

 

そうしたら、こんなつまらない苦しみは消える。

そしてそんなことを思って、晴人は泣き疲れて眠りについた。