思考の海深くに身を沈めると、熱に浮かされたように集中力が高まり、それと反比例するように左脳の陰が氷のように冷えてゆく。
その感覚に囚われると、外界のことが遠くなり、自身の脳内に宇宙が生まれるのが分かる。
それは、世界を理を理解するための真理の宇宙だ。真実の宇宙は暗く、果てなく広い。
その広さに対して、蓄えた知識とデータで捕られる範囲はなんと狭いことか。
この世界では、認識できるものよりも、認識できないものの方が圧倒的に多い。
ともすれば、果てない宇宙空間に、一人、小さく爪を立てるような無力感に襲われる。
けれどそこで辛抱強く真実を直視し、知識を蓄え、手が届く範囲を拡大し、周囲を注意深く観察すると、ざわりと皮膚が粟立つような感触とともに、時として世界を説明するきっかけが浮かび上がってくる。茫漠とした世界の奥に存在した " 軸 " のイメージだけがはっきりと浮かぶ。
すると世界は瞬く間に反転し、新しい視界が生まれ、世界は全く新しい何かに組替えられていく。
この軸は真理か偽りか、誤差はあるのか、どこまで普遍性を兼ね備えているのか。
軸を中心に検証すべき課題が放物線を描くように、爆発的な勢いで拡大していく。
それをあらん限りの力で追い駆け、組強き、構築していく過程の高揚感、酩酊感は筆舌に尽くせない。
その時間を邪魔するのは、大恩ある養父母でも、妻でも、子でも許せない。
それなのに ―――――――
第8話 : 大人の都合
晴人を寝かしつけた麻衣がリビングに舞い戻ると、そこは吐く息が白く凍りそうになるほど冷たく冷えた極寒の地に成り果てていた。
「寒っっ」
麻衣が思わず身を震わせて悲鳴を上げると、難しい顔をしてダイニングテーブルで宿題を片付けていた優人が顔を上げ、不機嫌そうに声を出した。
「晴人は?」
変声期を終え、今やしっかりと低音になった声はリビングのソファでこちらを完全無視した姿勢で専門書を読み耽る父親と大差ない。本人の意思とは反してどんどん父親と似ていく息子の姿に、麻衣はこっそりと微笑みながら首を傾げた。
「今気がついたわ。憑依されたわけじゃないから、大丈夫よ」
その声と同時に立ち上がりかけた優人を麻衣は慌てて制した。
「でも、ちょっと話をしたら疲れて眠っちゃったの。だから今はそっとしておいてあげて」
「寝た?」
「そう・・・最近ちょっとピリピリしていたでしょう?優人とナルの喧嘩でびっくりしちゃったみたいね」
そう言った途端嫌そうに顔を顰めた優人を見上げ、麻衣は苦笑しながらリビングのナルにも重ねて声をかけた。
「ナルもよ!いい大人が子ども相手にムキにならないでよね?!ものには言い方ってもんがあるのよ?!」
「・・・」
耳に入ってはいるだろうに、返事どころか顔も向けないナルに対して、優人は軽く舌打ちして麻衣の横をすり抜け、階段に向かった。
「優人!」
「晴人の部屋にはいかないよ。部屋で勉強する。今日は泳いでそのままシャワー浴びてきたら、僕もそのまま寝るよ」
「日本行きの話はもういいの?」
麻衣が尋ねると優人は大げさに肩をすくめ、首を振った。
「研究バカなだけじゃなくて、守銭奴だったとは知らなかったね」
「優人!」
「もう別にいいよ。急いで行きたかったわけじゃないから。それに、そもそもこんなことが借りになるなら、僕の方で願い下げだからね」
当て付けのように優人はそう言い捨てると、にっこりと優美な笑みを浮かべて麻衣の肩を叩いた。
「おやすみ、麻衣」
そして麻衣の頬に優しくキスを落とすと、優人は踵を返し、ガツガツと大きな足音を立てて階段を登っていった。
「 あんな風に笑いながら名前呼んでさ、おやすみのちゅぅって、ナルにしてもらいたかったなぁ 」
2人分の紅茶をリビングに運びつつ、うっとりと麻衣が呟くと、それまで無関心を装っていたナルが、それでも専門書から視線を上げずにため息をついた。
「同じ顔に今やってもらっているんだからいいだろう」
「そうは言っても、優人は優人。ナルはナル。別人だもん」
「ほぅ?」
僅かに上がった語尾に、麻衣はにんまりと微笑みその顔を覗き込んだ。
「今からでも遅くはないよ?」
悪戯っ子のように栗色の瞳を輝かせる麻衣を一瞥し、ナルは肩を竦めた。
「やりたくない」
「ちょっ・・・・言うに事欠いて、やりたくないはないでしょう?!」
大声で騒ぎ立てる麻衣から視線を外し、ナルは手元の専門書のページをめくった。
端整に整ったその横顔を眺めながら、麻衣は開きかけた大口を閉じ、ひっそりと笑った。
「ジーンだったらやってくれたと思うんだけどなぁ」
形のいい柳眉がぴくりと一瞬だけ跳ね上がった。
それでも動じることなくめくられたページに並ぶ、難解な文章の羅列を横目に、麻衣はナルの隣に腰をおろし、翌日の天気の話でもするかのように軽い口調で続けた。
「 優人はそんなにジーンに似ている? 」
隣の空気が不機嫌そうに少し下がった。
麻衣はそれでも息をつめて辛抱強く返事を待つと、さらにページがめくられる音がして、それからようやくため息混じりの返事が返って来た。
「似てない」
「でも、今回の日本行きの反対理由はジーンのことを思い出したからじゃないの?」
すぐに口を噤み、どうにも口の重いナルに、麻衣はため息をつきながら、その肩に頭をもたれさせた。
「ナルが優人を見ていない、って晴人が怯えてた」
「・・・」
「晴人は優人が一番だから、優人よりも優人に起きる異変に敏感なんだろうね。晴人の大事な " 部屋 "のキーパーソンは間違いなく優人だもん。そういうイメージを作ったのはナルでしょう? " 部屋 " がなくなってしまうって恐怖で、晴人はパニックを起こしたのよ。もともと晴人は優人がいなくなったらどうしようって、何故かずっと拘っていたみたい。だからナルの変化にことの他敏感だったのかもね。ね、これってただ単に兄弟離れの過程だからなのかな?それとも・・・」
麻衣はそこで少し躊躇い、それでも意を決して話を続けた。
「 優人を失う予感に怯えてるナルに影響されたのかな? 」
「晴人はミーディアム(霊媒)だけど、最近はリーディング(読心)の力の方が強くなっているみたいだもん。晴人が自覚できなくても、無意識のうちに影響を受けている可能性はあるんじゃない?」
容赦なく自分の内面に手を伸ばしてくる麻衣に、ナルは煩わしそうに眉間に皺を刻み、こめかみに指を当て、身体を傾げて大きくため息をついた。
しかし、それでも横から発せられる麻衣の視線は誤魔化されず、ただ真っ直ぐナルの顔に注がれていた。
「優人が16歳になってからずっとだよね」
「・・・」
「ナルは晴人にもバレないようにうまく隠していたけど、ずっと優人には近付こうとしなかった」
「・・・」
「でも今日はさすがに動揺して、晴人にはバレちゃった。っていうことじゃないの?私、間違ってる?」
執拗なまでの麻衣の追及に、ナルはとうとう根負けして手元の専門書をバタリと閉じた。
「ナル?」
「できすぎだろう」
「え?」
そして本を手前のローテーブルに投げ捨てながら、ナルは麻衣の方に向き直り、言った。
「よく似た顔をした、同じ名前のあいつは、16歳の冬に日本に行ったんだ」
言わせた張本人のくせに、途端に泣きそうな顔をした麻衣に、ナルは鼻白みながら冷ややかに冷笑した。
「馬鹿げた符号の一致だとは思うが、連想しないバカはいないだろう」
「・・・・」
「非科学的な話だがな。――――― 少し、動揺した」
泣きそうになりながらも、必死に涙を堪えて顔を顰めた麻衣に、ナルは呆れて赤く染まった鼻をつまんだ。
「!!!!!」
「不細工」
「なっっ・・・・!!!」
突然の暴行に麻衣が目を白黒させていると、ナルはいよいよ面倒そうにため息をつき、うろたえる麻衣をせせ笑った。
「もう四半世紀も前の話だぞ?あいつだって、優人が生まれて以来ずっと出てきていないんだ。あのバカもいい加減成仏なりなんなりしてここにはいないだろう。今更麻衣が泣くようなことではない」
すらりと言いのけられた皮肉に、麻衣は顔を真っ赤にして鼻をつまんだ指を払い落とし、声を荒げた。
「そんなこと言って、そもそも動揺したのはナルじゃんか?! 私だけじゃないでしょう? 優人の日本行きだってだからあんなに反対したんじゃないのさ!」
「それとこれとは話が別だ。混合するな」
「同じでしょう?!」
「違う。価値観の差異と、算数と経済観念の問題だ」
「またそんな屁理屈ばっかり言って!!!!」
「お前の耳は飾りか?まだ優人の方が話がわかるぞ?」
「あのねぇ!!!!」
「うるさい、麻衣。晴人が起きる」
「・・・・っっ」
ナルの指摘に、麻衣は難しい顔をしながら口を押さえて二階の気配をうかがい、晴人が起きてくる様子も、優人が怒鳴り込んでくる気配もしないことを確かめると、へたへたと肩の力を抜いた。
そして超然と構えるナルを恨みがましい視線でねめつけ、勢いをつけてその首筋に飛びついた。
未だに突然人に触られることが苦手なナルはその奇襲に顔を歪め、乱暴に麻衣を引き剥がそうともがいたが、麻衣は構わず体重をかけてソファにナルを押し倒した。
「麻衣!」
険しい怒声にも麻衣は首を横に振り、声を押し殺してナルに詰め寄った。
「ナルにはお兄さんがいて、優人はその人の名前をもらってる」
「麻衣?」
「そのせいか、優人はとってもその人に似ていて、見るのが時々辛いんだって、あの子達に説明してもいい?」
麻衣の言葉にナルは今度は露骨に顔を顰め、圧し掛かる胸を押した。
「 子どもたちには関係ないだろう 」
低く、殺意さえ滲んだ胡乱な声に、麻衣は大きくため息をつくと、押し付けていた四肢の力を抜いた。
「そうだよ。あの子達には関係ないことなんだよ」
「・・・」「でも、そうやって私とナルが引き摺っていたら、傷付くのはあの子達だもん!だったら説明して、理解してもらう方がいいじゃない?誤解したまま家族がすれ違うのは嫌だよ!」
「馬鹿馬鹿しい。親の感傷を子どもに押し付けるのか?」
「それが嫌ならナルは優人から逃げないで!!」
痛いような麻衣の叫びに、ナルは苦いものを口に含んだように顔を顰め、それからしばし躊躇ってから、上に圧し掛かる麻衣の頭に腕を回した。回された腕に麻衣は少し抵抗したがすぐに諦め、代わりにナルの胸に顔を押し当て、先ほどまでとは打って変わった穏やかな声で囁いた。
「心配なら心配って、素直に言ってあげればいいんだよ」
不満そうに黙りこくったナルに、麻衣はころころと転がるような笑い声を上げながら瞼を閉じた。
「優人は優人、晴人は晴人、ジーンはジーン。大丈夫、優人はいなくなったりしないよ」
そして晴人にそうしたように、麻衣はナルをしっかり抱きしめ、同じことを何度も繰り返し囁いた。
「優人はいなくなったりしないよ」
まるで子どもに言い聞かせるような麻衣の声に、ナルは僅かに息をつめ、天井を仰いだ。
思考の海を漂う充足感。
その時間を邪魔するのは、家族ですら許せない。それなのに、それを邪魔する原因が自分自身の感情や感傷だとすると、不快感は殺意にすら発展する。
特にそれが根拠のない被害妄想だとすれば、自己嫌悪で身が千切れる。
それでも払拭できない不安に、焦燥感は募るばかりで、ナルは物理的にそこから目を逸らした。
16歳の優人。
その姿は既に遠くなっていたはずの古い記憶を、鮮やかなまでに明確に呼び覚ます。
それは間違った自分勝手な思い込みで、その弱さが様々なものを傷つけると分かっていてもなお、歪んだ視界
はそこに失った片割れの姿を見い出してしまう。
もう見たくはないのだと願っても、視界はそこに類似点を見つけ出し、その度に激しくナルの心を乱した。
それほどに、優人はナルに酷似して成長してしまった。