第9話 : 万に一つも望みはない

                

                 

                

                

                

その日のメニューの最後に、優人は500mのクロールを入れた。

最初はフォームに忠実に無理なく泳いでいたのだが、途中でリズムが乱れ、ラストはかなりいっぱいいっぱいになってしまった。それでもなんとか泳ぎきり、勢いよく水面に顔を上げると、酸素不足で頭がくらくらした。

肩で息をしながら、壁にかかった時計でかかったタイムの大よそを確認していると、すかさずプールサイドから先にメニューを終えたであろう同じスイミングスクールのアーヴィーが声をかけてきた。

「どうしたんだ?調子悪いみたいだな」 

得意種目は異なるが、自分と同じレベルのスイマーであるアーヴィーを誤魔化すことはできない。

優人は露骨に顔を顰めながら、禄に力の入らない腕を無理に伸ばしてプールサイドによじ登った。

「集中力が切れたんだ」

「300までは良かったのに、その後がボロボロだったな」

優人は上がった息を整えながら、頭を締め付けていたゴーグルとキャップを一気に脱ぎ捨て、悪態をついた。

「いいんだよ。とにかく泳ぎたかっただけなんだから」

「無駄な練習嫌いのユートらしくないな」

苦し紛れの優人の言い訳をアーヴィーは笑い、深い皺が刻まれた優人の眉間を指でつついた。

「ダメだよ、ユートはここのアイドルなんだから。そんな顔しているとファンが減る」

「本望だ」

「おうおう、人気のあるヤツは言うこと違うね」

アーヴィーがからかうと、優人は眉間の皺を更に深くし、首を振った。

「下らない。大体大騒ぎするヤツほど、興味があるのは僕の顔だけだ。本当に趣味が悪い」

「趣味が悪いはないだろう。ユートの顔は確かに綺麗な部類なんだから」

「僕は大っ嫌いだね」

「せっかく綺麗な顔をしているのにもったいない」

「こんな顔が欲しいんなら、いつでもくれてやるよ」

優人はそう言い捨てると、アーヴィーを押しのけシャワールームに向かった。

                

                 

                

                

                

元・オリンピック選手のスイマーが経営するこのスイミングスクールに、優人はプレスクールの時からイギリスにいる間は学校帰りに週に3回通っていた。

地元の名門スクールであるせいで、このスイミングスクールの選手層は厚く、優人と同じように幼少時代からティーンエイジャーになるまでスクールに通い続けている生徒も多かった。お陰で同い年のアーヴィーに至っては、トータルすると8年以上の付き合いで、幼馴染でもある彼に遠慮という文字はなかった。

                

                 

                 

                 

                

「どうせまた親父さんと喧嘩したんだろう?ユートも本当に飽きないよなぁ」

本来であれば禁止されているシャンプーを手早く泡立て髪を洗うアーヴィーからボトルを奪い取り、優人は顔を顰めたまま同じように濡れた髪にシャンプー液を塗りたくった。

「でも今回のはあいつが全面的に悪い」

「いつもそう言ってるじゃん」

「そういやそうか、じゃぁいつも横暴なんだよ」

口の減らない優人にアーヴィーは笑いながら首を振った。

「四六時中家にいるわけでもないんだろ?イチイチ喧嘩なんかしてないで無視しちゃえばいいのに」

「分かってるよ。でも、ムカつくものはムカつく」

「親なんてどこもそんなもんだよ。こっちが大人になってやるしかないだろう?」

「昔からあいつが大人になって折れたことなんてないんだ。どうしてこっちが折れてやらないといけないんだよ」

憮然とした態度の優人にアーヴィーがあきれ返っていると、シャワールームには遅い時間のコースを選択している会員がどやどやと入ってきた。

その時間を選択しているのは、通っている学校や住んでいる地域こそ異なってはいたが、長くスクールに通うティーンエイジャーばかりだったので、顔を出した人間は優人とアーヴィーの顔見知りばかりだった。そして彼らはアーヴィーと優人を見つけると親しげに手を振り、話しかけてきた。

「よぉ、アーヴィーにユートじゃん。久しぶりだな、元気だったか?」

「久しぶりジャン。珍しいな、最近サボってばっかりだったじゃないか」

「ははは、ジャンはネットゲームの方が楽しいんだもんな」

「何んだそれ?ネットしててサボってたのか、しょうがないなぁ」

「うるさいよ」

気安い会話にシャワールームは一気に騒がしくなった。

しかし、優人は互いに軽口をたたくその集団の付き合いが苦手で、手早く髪を洗い終えるとさっさと更衣室に向かおうとシャワーのコックをしめた。ところがその行く手を阻むように、一番身体の大きなイアンが、ユートに顔を向け声をかけた。

 

「そういや、ユート。2階にお前の弟が来てたぞ」

 

身体の割りにやけに甲高いイアンの声はよく響き、その場に居合わせた面々はその話題に関心を寄せた。

「ユートの弟?」

「ほら、小さくてさ、茶色い髪のヤツだよ。さっき2階のラウンジにいただろ」

「ああ・・・あれ、男だったの?!てっきり女の子かと思ってた!」

メンバーの中ではまだ付き合いの浅いダンが驚いて大声を上げると、他のメンバーは声を上げて笑った。

「まぁ、昔から下手な女の子よりかわいかったもんな」

「ぱっと見男には見えないよなぁ」

「名前なんだっけ、ハート?」

「違うよ、ハイトだよ」

「ちげぇよ、ハートでいいんだよな。な、ユート」

「 ハ ル ト だ 」

好き勝手に名前を呼ぶ面々に、優人は苦虫を噛み潰したような顔をして訂正した。

しかし怒った優人など既に慣れっこの面々は、特に気することもなく話を続けた。

「昔はさぁ、すっげぇユートになついてて、いつもユートの後ついてきてたんだよ」

当時を知らないダンはその話に首を傾げた。

「それじゃぁ、あの子・・・・ハルトだっけ?今は水泳やめちゃったの?」

「やめたっていうか・・・・もともと彼はここの生徒じゃないんだよ」

「昔からいつも見学だけしに来てたんだ。確か体弱いんだよ。昔からよく倒れてたし」

アーヴィーが説明すると、ダンはそれこそ分からないと首を傾げた。

「体弱いんなら、競技用じゃなくてリフレッシュ・コースででも泳げばいいのに。僕だって喘息持ちだったけど、水泳で随分良くなったよ」

「水が苦手なんだよ」

悪意はないのだろうが、とても面倒な質問をしてくるダンに優人はため息とともに曖昧に答えを濁し制した。

ダンは納得していないようだったが、それ以上つっこんでくることはなかった。

 

晴人が5歳、優人が8歳の夏。

家族で出かけた海で、晴人は大勢の死者に足を掴まれ海の中に引きずり込まれた。

その時は側にいたナルが自身も危うい目に合いながらもそれらを振り払い、何とか晴人を助けあげたため大事には至らなかったけれど、岸に戻った晴人の全身には無数の赤黒い手形がついていた。

その経験がよほど怖かったのだろう。

それまでは優人が側にいることを条件に、晴人も多少は泳いでいたのだが、あの時以来、晴人は例え優人と一緒でもプールにすら入ろうとはしなくなった。

泳ぐことがストレス発散になる優人から見れば、それはとても残念なことに見えたが、そんな経験をもつ晴人に無理強いはできなかった。そして、その理由を他人に広く説明することもまたできはしない。

少し変わった性質の弟は、うまく人に説明できない様々な制約がある。

その複雑な状況を晴人本人は面倒だと嫌がりつつも、ある種の達観を持って受け入れている。

それを優人は心から可哀想だと思う一方で、特別な両親の血を受け継いだ、特別な子どもの証明 と触れ回っているようにも見えて、少し疎ましくも思っていた。

  

知らず、優人が物思いに沈んでいる内に、メンバーはすぐにその話題に飽きて別の話を始めた。

「相変わらず仲いいんだな。兄弟でそこまで仲いいのは珍しいよな。俺の弟なんて本当にかわいくないぜ」

「でも、あんな弟だったら、兄弟でも懐かれれば可愛いだろうよ。お前のクソガキと一緒にするなよ」

「最近は大会の時だけでめったに練習まで見には来てなかったんだけど、この間からまた来るようになったんだよ」

「へぇ、そうだったんだ」

「一人ごと言ってたりして、ちょっとぼんやりしてるとこは昔と変わんないみたいだけどな」

「あれで男だなんてサギだよ。もったいない」

優人はその言葉に飛んでいた意識を戻した。

 

 

「せめて妹だったらデートに誘うんだけどなぁ。ユートに似たら、すっげぇ美人になるんじゃないの?」

 

 

お調子者のウィルが口を滑らせた瞬間、優人の機嫌は一気に氷点下まで下がった。

凍りついた空気にメンバーは慌てて口を噤んだが時既に遅く、それまでケラケラと笑っていたウィルがその事態に気がつき、顔色を変えて振り向けば、そこには目が全く笑っていない優人がいた。

「ユー・・・・・」

ひくり、と頬をゆがめたウィルを見据えたまま、優人は体を洗い終えたアーヴィーに声をかけた。

「アーヴィー」

「何?」

「ウィルの学校ってどこだったかな?」

優人の質問に、アーヴィーは亀のように押し黙った周囲を見渡し、たっぷりと時間をおいてから愉快そうに口角を吊り上げ答えた。

「ハイウェストだよ」

「アーヴィー!!!!!!」

ウィルは悲鳴を上げつつアーヴィーを睨んだが、アーヴィーは愉快そうに笑うだけで相手にせず、ついでに余計な情報まで優人に伝えた。

「確かこの間の大会で観客席の最前列でユートに歓声あげていた3人組も同じ学校だったんじゃないかな?彼女達ユートの熱狂的ファンだからねぇ、ユートが困っているって知ったら、どんなことでもしてくれるんじゃないかな?女の子って他人の恋愛に対してやけに連帯感強いもんねぇ」

アーヴィーが最後まで言い切る前に、ウィルは真っ青な顔で優人に詰め寄った。

「ご・・・・ごめん!ユート!!!つい口が滑っただけなんだよ!!! 頼む!勘弁して!!!学校の女子に嫌われたら、俺マジで生きてけない!!!」

取り乱すウィルを優人はしばらく冷淡に見下ろし、ウィルの必死の弁明を聞き終えた後、ゆっくりと迫力たっぷりに微笑んだ。

「わかった・・・・今回だけは見逃す」

「ユート!」

ぱっと顔を輝かせたウィルに、しかし対面する優人は冷徹な視線で釘を刺した。

「でも、二度とそんなふざけた口を利くんじゃない。それから、ウィルは晴人の半径5m以内には絶対近付くなよ。近付いたら、その瞬間からホモだってあらゆる人間に触れ回ってやるからな」

絶対零度の冷ややかな脅しに、ウィルは壊れた人形のようにカクカクと首を振った。

そして次の瞬間にはすぐに興味を失ったように顔をそむけた優人から、逃げるようにウィルはシャワールームを飛び出した。

そうして気がつけば、シャワールームには優人とアーヴィー以外の人間は消えていて、アーヴィーは大爆笑しながら優人の後について更衣室に向かった。

 

 

 

「ウィルもバカだなぁ。よりにもよってユートの前であんなこと言うなんて」

笑い続けるアーヴィーに優人は濡れたタオルを投げつけながら、声を荒げた。

「そもそも晴人は弟だ!」

「ま。そうなんだけどねぇ。それより何より、ハルトはユートのお気に入りだからね」

アーヴィーはそこで思いついたように笑うのをやめ、優人の顔を覗き込んだ。

「ユートは重度のブラコンだからな」

「は?」

「ハルトに好きな女の子とか、彼女ができても文句つけて邪魔しそう」

愉快そうに口角を上げるアーヴィーを見下ろし、優人はしかめっ面のままにやけたその顔を思い切りつねった。

「いってぇ!」

「何バカ言ってんだ。兄弟でそんなわけあるか!」

優人はアーヴィーを怒鳴りつけ、荷物を片付けると濡れた髪のまま出口に向かった。

「おい、ユート!悪かったって!そう怒るなよ」

慌てて追いかけてくるアーヴィーを、優人は心底邪魔臭く思いそのまま振り切ろうと思ったが、ふとあることを思いつき、唐突に足を止めて、底意地の悪い笑みを浮かべ首を振った。

「訂正しろよ、アーヴィー」

「うん、だからご免って」

「晴人に彼女ができるのを邪魔したいのは、アーヴィーなんだろう?」

「は??」

素っ頓狂な声をあげるアーヴィーを見下ろし、優人は優しげに微笑んで、その肩を叩いた。

「確かに晴人はかわいいからな、アーヴィーが好きになるのもよく分かる。だが諦めろ。あれは僕の弟で、ノーマルだ。お前に万に一つも望みはない」

ごく真面目に諭すような優人の口調に、アーヴィーは顔を真っ赤にして絶句した。

そしてそれを確認すると、優人は満足して晴人が待っているであろうギャラリールームに向かった。