最近は何かについて距離を取りたがっていたはずなのだが、誕生日以来晴人はまるで昔に戻ったかのように優人にまとわりつくようになった。
学校が終わればすぐに優人を探しあて、自宅でも優人がいる部屋に入り浸っては常に側にいる。
そこにどんな心境の変化があったのか、優人にその本意は全く分からなかったが、無碍にされるよりは懐かれる方が気分がいいと、優人は突然態度を変えた晴人をさして疑問にも思わず受け入れていた。
第10話 : 予感がしていた
足取りも軽く優人が2階に駆け上がると、その先のギャラリールームにはジャンの話通りに晴人がベンチに腰をかけていた。
「優人!」
顔を見るたび、まるで長旅から帰って来たかのように心から安堵したように微笑む晴人に優人は思わず頬を緩めた。無条件に向けられる好意と信頼はそれだけで嬉しい。
しかし、それからすぐ優人は晴人の顔色が蒼白なまでに青ざめていることを見咎め、剣呑な眼差しを向けた。
「顔色が悪いな」
そう言って優人が手を伸ばすと、晴人はその手をすり抜けるようにして体を倒し、ベンチに腰をかけたまま傍らに立つ優人の腰にしがみついた。
「晴人?」
何かを確認するかのように、腰に回された腕の力は晴人のものとは思えないほど強かったが、その指先は痙攣したように震えていた。優人は怪訝に思いながらも苦心してその拘束を解かせ、真っ白になった晴人の顔にまだシャワーの熱を持った掌を重ねた。
「熱はないようだけど・・・逆に体温が低いな。晴人、体調悪いだろ?風邪でもひいたか?」
優人が最後まで尋ねる前に、晴人は優人の袖口を掴んだまま首を横に振った。
「風邪じゃないよ。ただ、朝からち何だかそわそわして落ち着かないんだ」
「何だそれ?」
「・・・・・・・・・嫌な予感がするんだ」
晴人はそう言うと傍目にも痛々しいほど怯えながらも、小さく笑って優人を見上げた。
「でも良かった。優人が無事で」
「無事かどうかまで心配されるほど珍しいことをした覚えはないんだけどな」
苦笑しながら頭を撫でる優人に、晴人は同じように笑い返しながらも、その笑顔を強張らせ、耐え切れないように再度優人にしがみついた。
「優人がいなくなっちゃうような気がして仕方がないんだ」
「晴人?」
「ずっとずっと、そんな気がして怖くて仕方がないんだ」
今にも消え入りそうな晴人の声に、優人は眉間に皺を寄せた。
「最近、やけに側にいたがるのはそのせいか?」
「・・・」
「晴人?」
「・・・」
頑なに返事をしようとしない晴人に、優人はげんなりとしながらその頭を小突いた。
「あのケチのせいで日本行きも中止になったし、当面どこにも生活が変わる兆しはない。単なる気の迷いだ」
若干周囲の視線が気にはなったが、優人はあえてそれを無視して、小刻みに震える晴人をなだめる様に抱きしめた。
「晴人、僕を見ろ」
怯えきった鳶色の瞳は、その色をさらに薄くしているようだった。
それでも懸命に優人を見ようと瞬く。
その事に優人は満足して微笑んだ。
「僕はここにいる」
「・・・・うん」
「大丈夫、どこにもいかない」
「・・・・う、ん」
「落ち着いてよく見てみろ。怯えることは何もないだろ?」
「・・・・・・・うん」
「分かったら離せ。歩けるなら帰るぞ」
我侭な子どもを諌めるような優人に、晴人は不服そうな顔をしつつも腕の力を緩め、まだ震える両足に力を込めて立ち上がった。優人はそれを手伝いながら、ふと窓辺に視線を移した。
「晴人、雪だ」
優人の指摘に晴人も慌てて顔を上げ、曇りガラスの奥に見える、薄暗い空から舞い散る白い粉雪に目元を緩ませた。
「本当だ・・・・・珍しいねぇ」
凍えるように寒い、冬の長いイギリスではあるが、意外なことにもその地に雪が降ることは少ない。
その珍しい光景に目を細めながら優人は晴人の頭を小突いた。
「朝から気持ち悪かったのって、これのせいじゃないのか?」
「そう・・・・・かな」
「骨折したり、大きな傷がある人でもこういう寒気は勘付くらしいからな。晴人は神経質になり過ぎなんだよ」
「そうだったのかもね」
そこで晴人がようやく朗らかに微笑んだのを確認し、優人はスポーツバックを肩に背負い直し階段に向かった。
「さ、凍りつく前に帰ろう」
そして優人が晴人に背を向けた瞬間だった。
晴人は掴んだ意識と奪われた視界の見せるそれに、大きく目を見開き、立ち竦んだ。
「晴人?」
晴人が背後からついて来ようとしないことに気がつき、先に行こうとしていた優人が振り返ると、見る間に蒼白になっていく晴人の顔が視界に入った。
「晴人?」
そして名を呼ばれたことで我に返った晴人は、突然目の前の優人を突き飛ばすようにして階段に向かって駆け出した。
「晴人!?」
優人が慌てて追いかけるのにも構わず、晴人は転がるように階段を駆け下り、そのままフロントを駆け抜けて外に飛び出した。
市街地にあるスクールの前はすぐに車通りの激しい公道に面していた。
そこに突っ込むように飛び出して行った晴人の背中を追いかけ、優人は大きく舌打ちした。
「あのっっバカ!!!」
優人は肩にかけていたスポーツバックを放り出し全速力で晴人の後を追うと、そのまま車道に飛び出そうとしていた晴人に飛び掛って冷たいレンガ敷きの歩道に晴人もろとも倒れこんだ。
体格差から晴人は潰れるようにして歩道にはいつくばったが、それでも晴人は優人の腕をはがそうと懸命にもがいた。歩道のレンガに皮膚が擦れて血が滲んだが、晴人は全く頓着せずに暴れた。
突然の格闘に道行く人から悲鳴が上がったがそんなことには構っていられない。
憑依だろうが乱心だろうが理由はどうでもいいが、この交通量の多い車道に飛び出すことは自殺行為だ。
そんなことはさせられるわけがない。
優人は渾身の力をこめて晴人を組み伏せ、歩道に晴人を押さえつけた。
元々基礎体力が違うのだ。何としても動けないことを悟ると、晴人は白い雪が落ちてくる鉛色の空に向かって、身を切るような悲鳴を上げた。
「 ママァ!!!!! 」
突然の悲痛な叫びに、優人は反射的に身を竦めた。
その隙をついて、晴人はあらん限りの声を張り上げ暴れた。
「ママ!ママ!!!ママ!!!!」
「晴人!落ち着け!!!晴人!!」
「やだぁぁぁ!離して!! ママァ!!!」
騒ぎを聞きつけたスイミングスクールのスタッフが駆けつけ、数人がかりで晴人はようやく取り押さえられたが、それでもどこか遠くを凝視したまま晴人は絶叫し続けた。
引き離され、路肩にしりもちをついた優人は全身に擦り傷を作りながらもなんとか自力で立ち上がると、スイミングスクールの玄関脇に引っ張られた晴人に歩みより、ためらいなく晴人の頬を叩いた。
「ユート!暴力はっ」
「うるさい!!」
側にいた職員が制止するのも一喝で黙らせ、優人は憤怒のこもった苛烈な視線で晴人を睨んだ。
その衝撃で意識が飛んでいた晴人はようやく我に返り、泣き叫び、涙でべとべとになった顔を力なく上向かせ、優人を見上げた。
焦燥と狂気で赤く腫れたように潤んではいたが、まだ正気を保っている瞳に、優人は舌打ちし、冷淡な口調で尋ねた。
「泣き止め、晴人。 何が起きた?」
怒りのあまり、まるで氷のように冷めたく凍った低い声に、晴人は暴れていたことも忘れ、本能的な恐怖から思わずごくりと息を飲んだ。
けれどそうして怯えながらも、晴人の意識は半分余所に飛んでしまって、中々泣き止むことができない。
晴人はそんな自分にじれて、何度もしゃっくりを繰り返し、えづきながらも何とか返事をした。
「 ママが・・・・・・・事故にあった 」
その声に優人の表情が一変した。
掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る優人に、晴人は半分の意識で熱に浮かされたように必死に訴えた。
「車がつっこんできたんだ。そのままママとぶつかって・・・」
「どこだ?!」
優人の怒声に晴人はその場を見渡すように視線をさまよわせたが、すぐに首を横に振った。
「わかんない!視界が霞んでよく見えないんだ!!! ママの意識が・・・・嫌だ、切れないで!!!!」
晴人はそれから焦ったように瞼を閉じ、優人と晴人の迫力に思わず拘束を緩めたスタッフの手から両手を振りほどくと、こめかみに指を当てた。
「どこ・・・・ここ、どこ?」
そしてぶつぶつと一人言を繰り返し、カタカタと震えながら晴人は一心に何かを探り始めた。
次第に遠のいていく視線に、優人は晴人がトランス状態に入りかけていることに気がついた。その晴人見守りながら、優人は動揺して腰が引けているスタッフと、自分達に集まる奇異の視線に気が付いた。
――― ここで一緒に取り乱してはダメだ。落ち着くんだ。
優人は知らず震えていた自分の拳を痛い程に握り締めると、苦労して大きく息を吐き、ゆっくりと掌を開いた。
晴人の能力を知らない人間に、現状を説明しても理解と協力が得られるはずはない。
けれど自分はそれが本当のことだと理解している。
そして何とかしなければいけない。
優人は早鐘のように鳴る心臓を必死に押さえ、硬直状態のスタッフに礼を言って晴人の身柄を受け取ると、その足で玄関に投げ出したスポーツバッグを回収し、トランス状態に陥りかけている晴人を抱き寄せ、逃げるようにその場を離れた。
――― 落ち着け。
ふらふらと歩道を歩きながら、優人は念じるようにその言葉を繰り返し、無意識にナルの姿を思い出した。
常に冷静沈着で、冷酷なまでに動じない人物。
そして、世の中で最も嫌いな人物。
あれの視線を意識すれば、取り乱すなんて失態は絶対にしない。
根底に刻まれた嫌悪感と、人一倍高いプライドが焦燥感と恐怖心に僅かに競り勝ち、少し落ち着きを取り戻したところで、優人はようやくその人自身を思い出した。
頼るのは本意ではないが、最も効率よく事態を解決するにはそこに連絡するのが間違いなく一番早い。
――― 今は母さんの無事を確認するのが先決だ。
優人は素早く決断すると、震え続ける晴人を脇に抱えたまま、一番近い電話ボックスに飛び込んだ。
――― 直通のこの番号を使うことは一生ないと思っていたんだけどな。
優人は自嘲しながら、滑稽なまでに震える指でゆっくりとダイヤルを押した。
「優人・・・・救急車が来た」
そして、掠れる声で経過を伝える晴人の声に頷きながら、優人は長いコール音を待ち、ようやく電話口に出た無愛想な声に向かって、開口一番、名乗りもせずに奇妙な報告を告げた。
「晴人が、母さんが交通事故にあったと言っている」
その声に電話の相手は無言になったが、優人は構わず続けた。
「今、救急車が来たと言っているから、通報はされていると思う。でも、晴人も直接見ているわけじゃないから場所とか詳しくはわからない。ただ危ないっていうのだけ分かるみたいで、取り乱して、憔悴が激しい。その為にこっちは身動きが取れない」
ふざけた悪戯電話のような話だったが、相手は一拍の無言の後に、極めて冷静に返答した。
『 分かった。後はこちらで調べよう。お前達は今どこにいる? 』
疑いのない、いつもと変わらない平坦な低い声だった。
その口調に怒鳴り返したいのか、安堵したいのか、優人は自分の感情を持て余しながら、必死に自制して声を絞り出した。
「スイミングスクール側の電話ボックス。****通り西側、4番目の交差点側」
『 すぐに迎えに行く、動くな 』
通話は必要最小限の会話をもって、相手から一方的に切れた。