病院の中庭のベンチに腰を下ろし、優人は図書館で借りた専門書を開いた。

医学専門書のそれは、脳挫傷に関わる専門知識や合併症、その他症例を詳細に説明していたが、意識不明の重体患者に働きかける画期的な手法などは載っていなかった。

むしろ縁起の悪い単語ばかりが並ぶそれに、優人はすぐ飽きて本を投げ出した。

                

               

                 

                

                  

                

第13話 : がんばれ がんばれ

                

                

                 

                

                

                

事故から3日目で、投薬の効用はようやく発揮され麻衣の脳の腫れは引いた。

けれど依然として麻衣の意識は戻らず、高熱の続く身体からは生気がどんどん流れ出ていくようだった。

 

――― そしてもう5日目だ。

 

先が見えない以上、このまま学校を休むわけにもいかず、優人も晴人も今日はそれぞれの学校に登校した。

そして学校が終わり次第、優人は真っ直ぐ病院へ向かい、晴人は一旦ラボで検査をしてから、ナルと一緒に病院に来ることになっていた。

学内にいる間は一刻も早く病院に向かって、麻衣の状態を確認したいと思っていたのだけれども、その途中で優人ははたと自分の心配している原因に思い当たり、真っ直ぐ病院へ向かおうと思っていた足を図書館に向けた。傾ぐ頭を占める不安。それは情報不足が引き寄せるものだと思いたかったのだ。

 

麻衣はこのまま死んでしまうのではないか。

このまま、二度と目覚めず、ベッドに横たわるだけの存在になってしまうのではないか。

 

強く回復を願う一方で、その予感が優人の心を重く沈ませ、病室へ向かう足取りを重くさせた。

5日間という時間は不安を固くするのには十分な期間だった。

息はしている。体温もある。ただ、意識がない。

それだけの違いだというのに、目の前の麻衣はまるで別人のような顔をして優人を迎えた。

肉体はそこにあるのに、歯がゆいほどにその人本人だという実感が持てない。

そして、それはもう今からずっと続くことで、以前のようにはもう二度と会えないのかもしえれない。

その可能性の高さ、その現実に、優人は背筋が凍る思いだった。

優人がいなくなるかもしれないと、その予感に怯えて、かわいそうなほど萎縮していた晴人の気持ちが今になってよくわかる。

麻衣がいなくなるかもしれない。

もう永遠にあの声を聞くことはないのかもしれない。

もしくは、既に失われているのかもしれない。

それは地面が割れて崩れ落ちるほどの恐怖だった。

脳への障害。

その事項に関する重要性は自分が想像するよりも、大人達の方がよほど理解しているのだろう。

大人達の狼狽ぶりを思い浮かべ、優人は苦しくなって瞼を閉じた。

まどかとルエラは気丈に振舞っているようでいて、ふとした瞬間によく泣くようになった。

日本に連絡したリンの話では、真砂子と綾子が半狂乱になって大騒ぎし、明日にでも安原と一緒に英国に来るとのことだった。スケジュールの都合がつかず、どうしても顔を見に来れない滝川やジョンからもひっきりなしに連絡が入った。そして、トランスを禁じられた晴人は、不安な大人達に囲まれて何を感じているのか、ぼんやりとしているか泣いているかのどちからで、麻衣にそっくりの天使のような笑みを浮かべることはなくなった。

 

――― こうなっても変わらないのは " あいつ " くらいだ。

 

優人は疲れた顔を隠そうともせず、苦々しく舌打ちした。

麻衣が事故に遭ってからずっと、ナルは誰よりも多くの時間を病院にて過ごすようになった。

そして治療方針も事故後の応対も全て一人で淡々とこなした。

しかしその傍らには常に仕事用のPCや専門書がおかれ、麻衣の状態が少しでも落ち着くとすぐ仕事を始め、バイタルが急変しようが、誰が泣こうが喚こうが、その整い過ぎた美貌が乱れることは一度としてなかった。

取り乱して使いものにならないのも困るが、あそこまで普段の態度を崩されないのも面白くない。

誰もが、ああ見えて一番動揺しているのはナルだと口を揃えたが、それもどこまで本当なのか、ただ、周囲がそう思いたいだけなように見えてくる程、嫌味たらしい美貌は鉄壁のポーカーフェイスで守られていた。

「あんな冷血漢のどこがいいいんだよ・・・」

優人は人生でおそらく一番多く口にしているであろう恨み言を呟いた。

                

                

                

『 でも、忘れないで。私はナルのことも愛しているのよ? 』

                

                

               

そう言って幸福そうに微笑んだ麻衣。

けれど、その愛しい夫が名を呼んでも、彼女は目覚めようとはしなかった。

傍目には喧嘩ばかりで仲睦まじいとはお世辞には言えない。だからとても不本意だけれども、魂のあり方としてとても親密な関係を結んでいるように見える両親の愛情の奇跡を、優人は心のどこかで信じていた。

先天的センシティブの麻衣ならばきっと、誰のものでもなく、あの父親の声なら聞き取ることができるのではないかと、理性では否定しながらも期待していた。

しかしそれもやはり甘い考えで、現実の麻衣はまるで反応を示さなかった。

目の前の現実はほんの僅かなズルも認めてはくれない。

ただ、じりじりと確実に追い詰め、息の根を止めようとしている。

信じたくはないけれど、それが真実だと思わせられる。

完璧な絶望がそこまできていた。

                

                

                

                

                

                

                

                

                

                

優人が鬱々とした思考に囚われていると、涼やかで、落ち着いた声に突然名を呼ばれた。

 

「ユート・デイヴィス?」

 

その声に思考を中断され、いつの間にか自分が涙ぐんでいたことに気が付き、優人は慌てて目元を拭いながら声のした方を振り仰いだ。

そうして向けた視線の先には真っ黒な長い髪を背中までたらした、背の高い少女が立っていた。

「やっぱり、ユート・デイヴィス。一体、こんな所で何やっているの?」

その少女に突然声をかけられたことに、優人は不快感を感じながらぶっきらぼうに答えた。

 

「あんたこそ何やってるんだよ、エル」

 

エル、と呼ばれた少女は攻撃的な優人の口調にも怯えることなく、長い指で優人の隣を指差した。

「隣、座ってもいい?疲れているの」

そう言われて、優人はベンチの上に投げ出していた専門書に思い至り、慌ててそれをバッグにしまった。

それを了解と取ったエルは、流行外れの長いスカートを年上の女性がそうするように優雅に抱えながらベンチに腰を下ろした。

ふわりと、少し化粧臭い花のいい香りが優人の鼻をくすぐった。

そのことに優人は戸惑い、少しでも離れようと長い足を乱暴に組んだ。

                

                

                

エルは少し風変わりな同級生だった。

                

                

                 

香港とフランスとポルトガルとギリシャの血が混じる混血児で、その容姿はどの人種にも属さない独特の美しさを持っていた。運動は苦手だけれど、勉強もよくできる。

それだけなら良かったのだが、何かに属することに極端に関心がなく、誰に対しても愛想がないエルは、その独特な性格のために、女子からは「お高くとまっている」と嫌われ、男子からも遠巻きに見られる存在となっていた。そうしてエルは学内で孤立しているのだが、当の本人は特にそれを気にかけている様子はなく、その超然とした態度がますます彼女を孤立させていった。

おおよその人間がそうあるように、優人もそんなエルと親しく声を掛け合ったことなどなかった。

それなのに突然友達のように声をかけられ、優人は明らかに気分を悪くした。

さっさとその場を立ち去ろうと、優人が腰を浮かしかけると、エルは唐突に先の質問に答えた。

 

「5日前に祖父が事故にあって、ここに入院しているの。私はそのお見舞い」

 

その答えに優人は浮かしかけていた腰を下ろし、まじまじとエルの顔を見つめた。

長い黒髪がよく映える白い顔には表情がなく、その様はまるで精巧な人形のようだった。

「5日前の事故って、****通りであった、トラックが暴走して歩行者が巻き込まれた・・・・・事故?」

優人が恐る恐る尋ねると、エルは意外そうに瞳を細めた。

「あら、よく知っているのね」

偶然の一致に優人は顔を顰め、すっかり忘れていた医師の言葉を思い出した。

「そういえば、もう一人はじいさんって言っていたな。同じ病院に運ばれたんだな」

「もう一人?」

エルの疑問に、優人は口を滑らせたと後悔したが、隠し立てするのも面倒で、投げやりに麻衣のことを話した。

「事故に巻き込まれて残った生存者は2名。そのうちの1人は僕の母親なんだ」

優人の言葉に、今度はエルが僅かに目を見開いたが、すぐに元の無表情に戻り、静かに頷いた。

「そう・・・・ユートのお母さんだったの」

「そしてもう一人がエルのおじいさん?」

エルは頷きながら、ため息をついた。

「変な偶然だけど、お互い大変ね」

愛想のない感想ではあったが、下手に同情されるのも面倒だった優人はエルの感想に無表情で頷いた。

その優人の態度に安心したのか、エルは自分の祖父について語り始めた。

「祖父は意識不明の重体でここに運ばれたの。その日のうちに意識は戻ったんだけど、怪我が酷くてね。年も年だし、どこまで耐えられるのかって分からないみたい」

「いくつ?」

「今年でちょうど60歳」

「そりゃ厳しいな・・・」

「そうなの。しかも私の家ね、両親が離婚していて、私の養育権は祖父母にあるの。もちろん同居しているのも祖父と祖母だけなんだけど、事故のショックでおばあちゃまも寝込んじゃって、おじいちゃまの看病は私一人なのよ」

エルはそう言うと、心底疲れたようなため息をついた。

「おじいちゃまは小学校の先生でね。生徒がいっぱいお見舞いに来てくれる。親御さん達や近所のボランティアの人も色々してくれて、寝込んじゃったおばあちゃまの世話までしてくれる。でもずっと見守り続けられるのは私一人。同じ病室にいて、いつ息が止まってしまうんだろうって一人でびくびくしているのよ」

その様子を想像して、優人は息を飲んだ。

いつ、死ぬかもしれない。実際にそういう恐怖と対面するのは心臓に悪い。

 

「タフなつもりだったけど、正直疲れてきちゃったわ」

 

慰めも、同情も必要としていない淡々とした口調に、優人は言うべき言葉を見失ってただ感情の見えないエルの横顔を見つめた。エルはそんな優人の視線も気にすることなく、しばらく無言で空を眺めていたが、そこからふと気がついたように優人に話し掛けた。

「ユートのママの具合は?」

―――― まだ意識が戻らない」

「そうなの?」

淡々とした口調に、優人もまた持て余していた感情を脇に捨て、ともすれば冷淡に聞こえる口調で説明した。

「意識不明の重体で運ばれたのは一緒だけど、症状は逆だったんだろうな。怪我は大したことがないけど、脳みその方が酷くて、意識が戻らない。その弊害で熱も下がらない。もう一生このままかもしれないし、例え気がついても後遺症が残るだろうな」

エルは優人の独白を相槌を打つことなく耳を傾け、優人がすっかり話終えてからようやく重い腰を上げ、優人の顔を覗き込んだ。

 

「私もユートもまだ16歳なのに、酷い運命に巻き込まれちゃったわね」

「・・・」

「どっちがマシかなんて分からないけど、どっちもたった一瞬の事故で人生狂わせられた」

 

コメントの難しいエルの言葉に優人は沈黙したが、エルはそれにも構わず続けた。

「でも、そんな不幸な子どもは私だけじゃないんだってわかって、酷い話でしょうけど、ちょっとほっとした」

「・・・」

「比べられる話じゃないけど、ユートもユートの家族も大変なんでしょう?」

人に言える話ではないけれど、と自嘲するエルの痛々しさに耐えかねて、優人が首を縦に振ると、エルは奇妙な微笑みを奥にひっこめて、力のなかった瞳に生気を灯した。

「ごめんね。変だけど、ちょっとだけ勇気が出た」

何とはなしに目を奪われるそれに優人が黙していると、エルは大きく深呼吸して言った。

「でも、私はおじいちゃまを愛しているから、ちゃんと病室に行く。そして回復するように祈りながら看病する。疲れて、倒れたりなんかしてやらないわ」

まるで自分に言い聞かせるような話ではあったが、その凛とした顔に優人は思わず苦笑した。

 

―――― こういうのは、男よりも女の方が強いのかもしれないな。

 

優人は賢明に動き回るまどかとルエラ、実行力のある綾子と真砂子、そして麻衣の姿を思い出した。

あの人なら、ぐちぐちと考える前に懸命にあがいて、なんとか前を向こうと躍起になるだろう。

太陽のようなあの人は愚かなまでに生命に対して真摯で、そのことに疑問すら持とうとしない。

 

「僕も愛している。だからちゃんと向き合い続ける。絶対助けてやるよ」

 

ルエラの言うことは正しい。

家族が先にダウンするわけにはいかない。

優人もまたそう言うと、勢いをつけてベンチから立ち上がった。

お互いに無理やり力づけた瞳を覗き込み、優人とエルはそれぞれに感情の乏しい顔を僅かにゆがめた。

 

「がんばりましょう」

「お互いに」

 

そしてそれぞれの家族が伏せる病室に向かった。