病室には、麻衣の心拍を照明する規則正しい電子音と、室内を暖める古びたヒーターのモーター音だけが響いていた。
照明は落とされたものの、麻衣の生命を維持する医療器械のために、部屋は完全な暗闇ではなかった。が、隅の方は夜を溶かし込んだ闇に沈んでいる。その闇の中から滲み出るようにナルは現れ、晴人の前に置かれた淡く光るライトの前に歩み寄ると、落ち着いた声で詳細を確認した。
「いいな、くれぐれも無理はするな。危険だと感じたら直ぐに帰ってくるんだ」「うん」
「できたら話がしたいが、できなくても、現状を教えるように言うんだ。多分あちらから話してくるだろう」
「うん」
「少しでも様子がおかしいと思ったら、自分でなんとかしようとせずに帰って来い」
「え?」
「杞憂だと思うが、万が一リンが言うように悪霊化していた場合、それは晴人の手に負えるものじゃない」
「・・・・」
「その時は僕に任せろ」
「・・・・・わかった」
ナルの指示に晴人は緊張気味に頷き、優人と手をつないだまま、毛布を敷いた床に座り込んで瞼を閉じた。
第17話 : 優秀なミーディアム
次第に力が抜けていき、その場に崩れこむようにして倒れ込んだ晴人を、優人は庇うように抱き止め、壁を背にして晴人を抱えたまま床に腰を下ろした。
霊感などまったくない優人にはそこで晴人が何をしようとしているのか、どんな状態なのかはわからない。
そんな優人ができることは、ただ晴人を信じてやることだけだった。
「 優人がいれば大丈夫 」 そう断言した晴人を思い出し、優人はその端正な顔を僅かに緩めた。
そうしていながら、優人はふと、かつて絶え間なく自分に向けられ、自分を損ない続けた、他人からの意地の悪い視線を思い出していた。
ナルと麻衣に初めて授かった子どもだった自分は、よく泣く赤ん坊だったという。
優人と名づけられ、そのまま大きな怪我や病気もすることなく、すくすくと健康に成長した。
それだけで祖父母や母は喜び、人より早く言葉を覚えると、こぞって父親似だと誉めそやした。
しかし優人はそれからすぐに、自分に注がれる含みを持った視線に気が付いた。
母親似の健康な身体、父親似の容姿と頭脳。それは恵まれた子どもを指す長所であったはずだった。けれど、ナルと同じ研究畑の人間はそれだけでは満足せず、両親からなんの特殊能力も引き継がなかった優人を、無遠慮に見下ろした。
「 せっかく " あの両親 " の子どもとして生まれたのに 」
侮蔑と落胆が混じった視線は雄弁にそれを語った。
優人はそれを子どもにしては随分冷静に受け止め、そんなものだけで自分を評価する他人を蔑んできた。
―――― でも、がっかりされるのも仕方がなかったのか。
優人は病室に掛けられた細い姿見を見つけ、それに写りこんだ自分の容姿をまじまじと観察した。
珍しいと一線引かれる程度には整った顔立ち、周囲の失望を加速させた父親そっくりの容姿。
それはそのまま 『 優秀なミーディアム 』 のものでもあったのだ。
優人は姿見から視線を外し、直ぐ側の椅子に腰をおろして長い足を組むナルをちらりと盗み見た。
突然、この父親に双子の兄がいて、その人が自分とそっくりの外見で、自分と同じ年には死んでしまったと聞かされても、無論実感などわかなかった。また、そんな人物が実際にいようとも、そもそもそんな故人と自分には深い関係もないことだと優人は思った。けれどその話を知り、一つ納得できたこともあった。
―――― そもそもこの顔は2人分の期待を持たせていたんだ。
優人は一人納得しながらも、ナルを睨む眼光は、一段、鋭くなった。
冷酷な父親の顔など、見たくはないと思っていた。そして実際にそうしていた。だからこそ、さっきは、随分久し振りに父親の顔を見たと思った。しかし、思い返せば常に自分の視点は自分が中心で、父親の視点など意識したこがなかった。
そして今、思い知る。
亡くなった優秀な双子の兄にそっくりな、何もできない息子など、父親本人が一番見たくなかったことだろう。
優人は静かに自嘲し、脱力して、なまこのようになっている晴人の身体を抱えなおした。
晴人や麻衣だけが感じられる波長とやらも、自分とその人物は似ているらしい。
けれど、それも自分にとってはどうでもいい他所事だ。
麻衣が戻り、晴人が傷つけられなければそれでいい。
そのためだけの努力をするだけだ。
あの父が兄を殺そうが、そのために倒れようが構わない。
今までだってずっと、他人も家族も蔑ろにして、自分のことを最優先に生きていた父親だ。好きにすればいい。
―――― おあつらえ向きにここは病院だしな。
運ぶ苦労も少なくて済む。
まるで氷のように冷えていく心臓を体感しながら、優人は口を真一文字に結んだ。
それからややあって、晴人はぴくりと身体を震わせたかと思うと、ゆっくりと薄い瞼を開けた。
淡い光の中に、蝋を溶かし込んだような無機質な瞳が浮かび上がり、情感を忘れたような茫洋とした表情がそれを包んでいた。
晴人はその胡乱な眼差しで部屋を見渡すと、優人が映っている鏡の前でその視線をぴたりと止めた。
そして一心にその姿を眺めたまま、右手を吊り上げ、そこに映る優人の虚像を指差した。
「 あそこにいる 」
晴人の指摘に、ベッド脇に控えていたナルが乗り出し、優人は慌てて視線の先の鏡を覗き込んだ。
しかしそこに写るのはぼんやりした晴人と、普段となんら変わりのない自分の姿だけだった。不思議に思い、優人が首を傾げていると、ナルが横から鏡に自分が映らない角度で近づき、そして、ため息ともつかない小さな息を吐いた。
「 ジーン 」
低い、小さな声だった。
けれどしっかりと響いたその名に、鏡に映る優人は、その中の空気ごと歪めるようにして僅かに微笑んだ。
鏡に映る優人の表情は動いていない。しかし、それははっきりと笑ったように見えた。
ザワリ、と、優人の背を悪寒が走った。
吸い寄せられるように近付こうとする晴人を抱き止めながら、優人はその人を凝視した。
鏡の中の自分は、あくまで見慣れた自分の顔なのだが、それでいて全くの別人の顔でもあった。
ザワザワと皮膚が粟立ち、優人は思わず肩を強張らせた。
霊感のない優人には、今までそれらしいものを見たこともないけれど、それだけは直感で理解できた。
―――― 死人の顔だ。
正面に見える、鏡の中の人物は紛れもなく " ジーン " だった。
見入られたような晴人と硬直する優人を横に、ナルは慣れた様子でため息をつくと、その先の人物に対して声とラインの両方を使って話しかけた。
「まだいたのか」
―――― 一体いつまでいるつもりだ。
その声に対して、鏡の中の虚像は声にならない声で返事を返した。
『 なぜかまだ…ね。でも、随分眠っていたみたいだ。僕の知らない子どもがいる 』
びくり、と肩を揺らした優人をナルは一瞥し、首を傾げた。
「優人にも聞こえるのか?」
―――― 大きい方が優人。小さい方が晴人。
二重音声のように響くナルの声に、優人は混乱しながらも頷き、鏡の中の優人、ジーンは細く笑った。
『 ナルの声が遠い。悪いけどちゃんと声を出してくれる? 今はユート? ナルそっくりだね。彼の方が近しい感じがするよ。だからここに出てくるのにも、彼の姿を借りた 』
「お前は鏡が好きだな」
嫌味交じりのナルの指摘に、ジーンはごくあっさりと頷いた。
『 影があった方が形を保ちやすいんだ 』
ジーンはそう言うと顔を動かさずに、気配だけで視線を転じた。
『 小さい方のハルト。こっちは麻衣似だね。さっき会ったんだ 』
「間違えて・・・・ごめんなさい」
自我が薄くなるほどぼんやりしているにも関わらず、律儀に謝る晴人に、ジーンは苦笑しながら、気安い口調で話しかけた。
『 無理もないよ。君のお兄ちゃんと僕はそっくりだしね。君はミーディアム? 』
「はい」
『 ちょうど良かった。麻衣を助けるのに、生きている霊媒が必要だったんだ 』
「麻衣の居場所が分かるのか?」
ナルの呼びかけに、ジーンは気配だけで頷き、晴人の瞳を覗き込んだ。
『 麻衣は事故に遭ったんだね。そのショックで魂が砕けて、小さく散りじりになっている。あんまり小さくなったから、自分が誰なのかも分からなくなって、身体に戻れなくなっている 』
「そこまで分かっているなら、さっさと呼び戻せ」
すぐさま命令するナルに、ジーンは情けないような声色で言い返した。
『 簡単に言わないでよ。麻衣は小さく分散した状態だって言ったばかりだろう?力がすごっく弱くなっていて、他の影響を受けやすくなっているんだ。僕が近付くと死者の気に当てられて、逆に弱ってしまう 』
「そんなことがあるの?」
『 たまにね 』
驚いて口を挟んだ晴人に笑いかけながら、ジーンは語りかけた。
『 だから生きていて、ちゃんと麻衣を呼び戻せる霊媒が必要だったんだ 』
「それが僕?」
『 そういうこと。だからちょうどいいって言ったんだ 』
ジーンはそう言うと、愉快そうに笑った。
『 リンが随分心配していたみたいだけどね。僕はナルとの約束があるからね。麻衣を連れて行ったりしない 』
「当然だ」
これにもすぐさま返答するナルに、ジーンは満足そうに揺らめき、うっとりと答えた。
『 そう。信じてくれて嬉しいよ 』
そしてさざめくような笑みを消すと、ジーンはゆっくりと晴人を見据えた。
『 場所と方法を教えよう 』
ジーンの視線に誘われるままに、晴人は優人に支えられながら鏡の前に立ち、ゆっくりと瞼を閉じた。
それを見計らって、ジーンは穏やかな声で晴人に語りかけた。
『 大丈夫。君は麻衣を見つけられる 』
不安そうに顔を曇らせた晴人に、ジーンは宥めるように微笑んだ。
『 前に見つけられなかったんだね 』
「・・・・」
『 気にすることないよ。形が変わったら、見えないような気がして混乱しただけだよ。大丈夫、君は麻衣のことがわかる 』
「本当に?」
『 麻衣はただ細かく割れてしまっただけなんだ。でもそんなことは小さな変化だよ。形が変わったぐらいで生きものの本質は変わらない。そういうこと、君はもう知っているだろ? 』
こくり、と頷いた晴人を見て、ジーンは続けた。
『 麻衣の形を整えてあげて 』
「形・・・」
『 麻衣の形。ちゃんと覚えているだろう? 栗色の髪に鳶色の瞳、うん、君に似ているよね 』
「・・・・うん」
『 忘れずに耳と口もつけるんだよ。それがないと君の声が聞こえないし、返事ができない 』
少しおどけた口調でジーンが言うと、晴人はほっとしたように小さく微笑み、力強く頷いた。
『 あとは名前を呼んで、自分がどんな人間で、誰なのかを教えてあげるだけでいい 』
「うん」
『 そして身体のことを思い出させるんだ。そうしたら麻衣は自分で帰ってこれる 』
「うん」
『 場所はこの先の光。麻衣の色がある。見えるだろ? 』
「・・・・・・うん」
『 もう自分を疑わなくていいよ。君は全部知っている 』
「う・・・・・ん」
『 もう君には全部分かっていることだ 』
「・・・・ん」
トランスをさらに重ねるように、晴人の返事は次第に弱くなり、それに比例するように身体が左右に揺れた。
『 いってらっしゃい 』
そして、ぷつりと糸が切れたように、晴人の身体から力が抜けた。