背を押されるようにして、晴人は宙に飛び出した。
飛び出した先は淡いクリーム色の世界、水とも空気とも違う柔らかい感触の何かに包まれた世界。
そこは、ごく稀に触れることが許される意識の奥の居場所。
第18話 : あなたを取り戻しに行きます
―――― 僕はここを知ってる。
晴人は自分の身体が膨張していく感触を感じ、慌てて指先を見つめて自分の形を意識した。
身体という仕切りのないここでは、すぐに自分の形が失われてしまう。
そうして流れ出た自分は、この水とも空気とも違う何かとすっかり同一化してしまう。
晴人が意識を集中させると、ぼやけ始めていた輪郭は瞬く間にはっきりとした元の自分の姿を顕にした。そのことに晴人は満足して、笑顔を浮かべた。
この感覚を他人に伝えるのはとても難しい。
説明しようがなくて、晴人はここを便宜的に魂や意識の居場所と呼んではいたけれど、実際にこの曖昧な世界に足を踏み入れると、それらの単語に酷い違和感を感じる。何を知っているのか、ナルも魂という単語は好まない。しかしだからと言って、この曖昧に浮かぶ自分が一体何者なのか説明することもできない。
分かるでしょう。と、言いながら、" 魂 " と言ったジーンの含みのある笑みを思い出し、晴人は薄く笑った。
―――― きっと、あの人も分かっている。
その上で、晴人に大丈夫と言ったのだ。
―――― だから本当に大丈夫なんだ。
ついさっきまで不安で狂いそうだった心は、その奇妙な信頼感によって驚くほど落ち着いていた。
晴人は現金な自分に苦笑しながらも、確信を持って空間を渡り、懐かしい光が瞬く空間に移動した。
目指す淡い光は、見間違えようもない穏やかな黄色。
しかし、辿り着いたそこで小さく光るそれは、今は砂金のように酷く細かく、儚いものだった。
―――― 前にも僕はちゃんとここまで来ていたのに、これが何か分からなかった。
晴人はその光の粒を手に取りながら、小さくため息を落とした。
怯えて、あらゆるものから目を逸らした結果がこれだ。
肝心なものを見落とした。
―――― でも、もう大丈夫。
晴人は悔やみそうになる自分の心を捨て置き、自分の胸の中にある麻衣のイメージを作り出した。
――――― 覚えてる。
「熱はないわねぇ」 そう言って、髪をかき上げた水仕事をする冷たくて細い指、狭い額。
「ふふ、何だか嬉しい」 そう言って、微笑んでくれたピンク色の口、自分と同じ鳶色の瞳。
「焦らなくても大丈夫よ」 そう言って、頬摺りした柔らかく湿った頬。
「晴人を一人になんてしないから」 そう言って、強く抱きしめてくれた腕、肩、胸。
――――― ちゃんと全部覚えている。
温かい体温、よく響く高い声、やわらかい笑顔、ふわりと自分を包み込む、優しい空気。
涙がでるほど幸福なイメージに包まれて、晴人が視線を転じると、そこには今まさにイメージした麻衣の姿がぽっかりと浮いていた。
「 ママの形 」
晴人がそう宣言すると、その姿に引き寄せられるように周囲の光の粒が集まり、それらは磁石に引き寄せられる砂鉄のように、空虚なその形に取り付いていった。そうして晴人が思い描いた形は次第に厚みを増し、ようやく" 麻衣 " の形になったそれに、晴人は満面の笑みを浮かべて声をかけた。
「 ママ 」
晴人の声に、目の前の " 麻衣 " の形をしたものは不思議そうに首を傾げた。そうすることによって、せっかく身体に張り付いた光の粒がサラサラと地に落ちたが、晴人は気にせずただ一心にその姿を見つめた。
「だぁれ?」
聞きたくてたまらなかったソプラノの声。
晴人はそのまま飛びつきたくなる衝動に堪え、穏やかに自己紹介した。
「晴人だよ、ママ」
「ハ・・・・エト?」
「ママの二番目の息子の晴人だよ」
波打つように、ゆらりと空気が震えた。その感覚に確信を持ち、晴人は麻衣の左手を取った。
「ママの名前は麻衣。マイ・デイヴィス」
「・・・・マ、い」
「谷山麻衣」
意識の最後に残るのは自分の名前、母親の声だという。
その通説を裏付けるように、自分の名前を呼ばれると無機質だった瞳に僅かに色が灯った。
薄いけれど、それは確かに自分と同じ鳶色をしていて、晴人はゆったりと微笑んだ。
「思い出して、ママ。みんな待ってる」
「まい」
「うん、あなたの名前は麻衣」
「麻衣」
「そう、麻衣」
次第に色濃くなっていく麻衣に晴人は繰り返し名前を呼び続けた。
そうして十分に人の色になり始めた麻衣はふと、周囲を見渡し、不思議そうにその名前を呼んだ。
「ナ・・・ル」
そう言った瞬間、幸せそうに頬をほころばせた麻衣に、晴人は驚いて目を丸くした。
そうして次にたまらなく幸せになって、微笑みかけた。
「ママは素直だね。一番最初に思い出したのは、僕や優人じゃなくて、あのパパなの? 優人が聞いたら焼きもちやいて怒り狂っちゃうよ」
「?」
不思議そうな麻衣の顔を覗き込み、晴人はくすくすと笑いながら首を傾げた。
「そうだね、ナル。ママはそう呼んでる。パパもママのこと待ってるよ」
「パパ?」
「麻衣が大好きな人、オリヴァー・デイヴィス。通称がナル。僕と優人のパパ」
「ゆーと」
「うん、優人も待ってる。短気だからね、あんまりゆっくりしていると、また怒るだろうね」
「ゆー……と」
その次の瞬間、はっと回路が繋がったように、麻衣は顔を上げ、鮮やかな鳶色の瞳で晴人を見つめた。
「思い出した?」
微笑みかけると、ふわりと笑う、その懐かしい笑顔と、還ってきた柔らかい声に、晴人はたまらず涙をこぼした。
「私、どうしたのかしら?」
ぼんやりと宙を見渡しながら呟いた麻衣に、晴人は目元をこすりながら現状を説明した。
「ママは事故に遭ったんだよ」
「・・・・事故?」
「交通事故だよ。意識不明で病院に運ばれて、もう5日間も目を覚ましていないんだ」
「5日間?」
「そうだよ」
「いやだ!どうしよう!!!」
麻衣は突然大声を上げたかと思うと、顔を両手で覆ったまま叫んだ。
「晴人!晴人も優人も・・・・あああああ、それからナルよ!5日間も?!」
「ママ?」
「やだぁぁぁ、ちゃんとご飯食べてるの?!」
それまでぼんやりとした神話のような世界に浸っていたのに、突如現実に還ってきた麻衣に、晴人は呆然と麻衣を見上げた。そして、その、あまりに麻衣らしい反応に堪らず噴出した。
「ちょ・・・・笑い事じゃないわよ。晴人ったら!」
必死な形相の麻衣に晴人はケタケタと笑いながら答えた。
「大丈夫。ちゃんと食べなさいっておばあちゃんがうるさいんだ。パパもちゃんと食べてたよ」
必死に笑いを堪えながら晴人がそう言うと、麻衣は良かったぁと大仰にため息をついた。その様子に晴人はさらに笑い声を上げた。
「もぅ、ママ!人の心配しているどころの話じゃないんだよ?ママはまだ意識不明なんだからね!」
「あ!そうだ!そうよねぇ」
はたと我に返り、麻衣は力が抜けたようにその場にしゃがみこんだ。
そのくるくる忙しく変わる表情に、晴人は心の底から安堵し、しっかりと噛んで含めるように麻衣を諭した。
「事故のショックでママの心は粉々に砕けていたんだ。形が変わっちゃったから、僕も最初ママだって気がつけなかったんだよ。だから僕もずっとママを探し出せなくてここまで時間がかかっちゃったけど、もうこうなったら大丈夫だよね。自分の身体への戻り方、分かる?」
晴人の問いかけに、麻衣は頷き、それから申し訳なさそうに身をすぼめた。
「ごめんね、晴人が見つけてくれたのね。ありがとう」
丁寧に礼を言う麻衣に、晴人は苦笑しながらふるふると首を横に振った。
「ここに来たのは僕だけど、見つけたのは僕じゃないよ」
「え?」
「ジーンっていうパパの双子のお兄さん。彼がママを見つけて、僕をここに送ってくれたんだ」
驚き、はたりと動きを止めた麻衣に、晴人は得意そうに微笑んだ。
「まどかも彼が出てきてすっごく驚いていた。もう何年も前に亡くなったんでしょう?リンはママを迎えに来たんじゃないかって心配してたし、パパも意外そうだった。でも実際に彼が出てきたんだよ」
「・・・・まだ、いたの?」
「ずっと眠っていたみたい」
「まだ ・・・・・・・ 迷っていたの?」
そう言った途端、両眼に大粒の涙を溜めた麻衣に、晴人は驚き、慌てて弁解した。
「でもでも、とっても優しそうで、苦しいような気配はしなかったよ!悪霊にもなってなかったし!すっごい穏やかで、ちょっと影が薄いけど、生きている人みたいだったんだ。僕なんか初め優人と間違えたんだから!!」
麻衣は零れ落ちそうになっていた涙に気がつき、その涙を拭いながら微笑んだ。
「優人と間違えたの?」
「だって本当に優人にそっくりだったんだもん」
晴人はそう言ってから、バツが悪そうに俯いた。
「顔が似ているだけで、全然別の人なのにね」
麻衣はこらえ切れないように笑い出し、それから晴人を力いっぱい抱きしめた。
「気にすることないわ、晴人。そもそもジーンとナルはそっくりで、優人はナル似なんだから」
「それでもショック大きいよ。僕、絶対に優人は間違えない自信あったのに・・・・」
不服そうな晴人の頭を、麻衣は優しく撫でながら慰めた。
「ママも昔ナルとジーンを見間違えていたよ」
「ママが?」
信じられないと、目を丸くする晴人に、麻衣は切なそうに微笑み頷いた。
その顔を見上げながら、何故か、見てはいけない。と、晴人は直感し、慌てて麻衣から目を逸らした。
突然横を向いた晴人のやわらかい髪に麻衣は頬をすり寄せ、光に満ちた世界を見渡し、遠く、懐かしいその人を思いながら、か細い声で呟いた。
「そう・・・・ジーンが見つけてくれたの」
泣き出すのかと晴人は思った。
けれど麻衣はそれだけ言うとしばらく口を閉ざし、もう一度強く晴人を抱きしめると、両足に力を入れて勢いよく立ち上がった。
「帰ろうか、晴人」
「ママ?」
「早くしないとナルと優人に怒られそうだし」
そうして笑う麻衣は、既に晴人が見慣れた母親の顔だった。
晴人はその顔に酷く安堵しながらも、つながれた手の先の麻衣を見上げ、恐る恐る尋ねた。
「ママ・・・ジーンっていう人、知ってるんだよね」
「え?ああ………うん。知ってる。とっても優しくて、すっごくいい人だよ」
「身体に戻れたら、会いたい?」
晴人の質問に、麻衣は少し意外そうな顔をしたが、すぐにくしゃりと顔を歪め、よく分からないと呟いて、繋いだ手に力を込めた。