晴人の意識がその場から離れ、しばし後、ふと鏡の中の影が揺らめいた。

その気配に優人が顔を上げると、鏡の中の優人、ジーンがゆったりと微笑み返した。

             

             

             

 

『 晴人が麻衣を見つけた 』

              

             

             

             

             

第19話 : これ以上の何を望む

             

             

              

             

             

思わず優人が身を乗り出すと、ジーンは確かめるように頷いた。

『 今バラバラになってしまった麻衣を集めている。いい子だね。とても上手だ 』

その温和な調子にテンポを崩されながらも、優人は脅迫するようにジーンに詰め寄った。

「そうしたら晴人は母さんを連れ来れるんだよな?」

『 麻衣が自分を思い出したらね 』

「意識が戻る」

『 戻ると思うよ。麻衣は幽体離脱に慣れているしね 』

ジーンは温和な笑みを絶やさず、優人の問いかけに順に答えていった。

「・・・・身体も・・・・・元に・・・・戻るよな?」

しかし次のぎこちない問いかけには、ジーンも僅かに沈黙を落とし、困ったように事実を告げた。

『 残念だけどそれは分からない。心が戻っても、その力で身体まで完璧に治せるわけじゃないから 』

ジーンの説明が終わる前に、ナルが横から声を掛けた。

「その先は医療の仕事だ」

ナルはそう言うと、見上げた優人の顔を見下ろした。

「麻衣は麻衣であることに変わりはない。こちらに戻ってこれればそれだけでいい」

どんなことが起きても、まるで動じる様子のないナルに、優人は顔を顰め、ジーンは苦笑するように空気を振るわせた。その気配にナルは視線を鏡の中に転じ、愛想のない礼を言った。

「手間をかけたな」

『 僕は何もしていないよ。功労賞は晴人と僕が現れる手助けをしている優人だよ 』

まるで聖者のように思慮深く微笑むジーンに、ナルは舌打ちしそうになる衝動をなんとか堪え、苦々しい口調でジーンに話しかけた。

「それもそうだな。お前が役に立ないのは昔から変わらない」

『 あ、酷い 』

極端なナルの態度に、ジーンは子どものように頬を膨らませ不満を顕わにしたが、ナルは構わず冷ややかな視線をジーンに向けた。

「そもそもお前はいつまで迷っているつもりだ?」

『 ・・・・ 』

「いい加減さっさと向こうへ行け」

心底邪魔臭そうに言い放つナルに、ジーンは苦い顔をして悪態をついた。

『 もぅ!解決したからって掌返さないでよ。せっかく手伝ってやったのに 』

「さっきと言っていることが違う」

『 ・・・・・・もぉぉぉぉぉ!そう言うことじゃないでしょう?相変わらず性格悪いんだから!ナルのバカ!! 』

あまりに気安いその口調に驚いて優人が鏡を凝視すると、ジーンは悪戯っ子のように微笑み返した。

『 優人もこんな研究バカが父親だと苦労するでしょう? 』

「ジーン!」

イライラと気を荒立てるナルに、ジーンは苦笑した。

『 わかってるよ。いつまでも迷ってるのはいいことじゃない。僕だって早くあちらに行こうとは思ってる 』

「聞き飽きた」

『 そんなこと言っても僕にだって解決方法が分からないんだ。しょうがないでしょう? 』

ジーンの文句に、ナルは胡散臭そうに顔を顰め、ちらりと優人を伺うと、面倒そうにため息をつきつつ、鏡の中に視線を移した。

             

            

            

「遺体は見つけてやっただろう」

             

             

             

驚く優人を他所に、ジーンは微笑んだまま、ごく自然に頷いた。

『 うん、ありがとう 』

「麻衣とのことも解決している」

『 うん 』

「優人も生まれた」

『 そうみたいだね。こんなに大きくなった 』

「もうお前と同い年だ」

『 すごいね 』

「これ以上、何の心残りがある?」

脅迫するような、むやみに威圧的な問いかけだった。

落ちた沈黙も重く、そこに逃げ道はないように思われた。

だがそれに答える前に、ジーンはパッと満面の笑みを浮かべ、空中に視線を転じた。

それは麻衣に酷似した大輪の花が咲くような鮮やかな笑顔で、優人は思わずその顔を掴もうと手を伸ばし、鏡の中の自分に手をついた。ぺたり、と重なった掌の先で、ジーンはさらに微笑み、優人とナルに声をかけた。

『 麻衣が自分のことを思い出したよ。もう帰ってこれる! 』

その輝くような笑みにつられて、優人もほっと息をついた。

すると、同時に誰のものとも知れない圧倒的な安堵した気配が一陣の風のように通り抜け、優人はそのあまりに切ない感情に泣きそうになった。

今までは自分が一番苦しい思いをしていると思っていた。が、それはまだ浅い苦しみだったのではないかと疑いたくなるくらい、その安堵は深い切実さに迫られていて、それまで張り詰めていた緊張を顕にした。

 

―――― これは、何だ?

 

優人は戸惑い、答えを求めるように鏡を見つめた。しかし答えを見るけるより先に、優人は鏡の向こうのジーンの影が先ほどよりも少し遠くなっていることに気がついた。

「あ・・・・」

薄くなりかけたその姿に、優人は慌てて鏡に両手をついた。

その変化に気がついていないわけはないだろうに、ジーンはそれでも微笑み続け、鏡に映っていないナルに向かって声をかけた。

『 良かったね、ナル 』

「・・・・」

そして、能天気な声で不平を口にした。

『 ああ、ナルが遠いなぁ 』

「・・・・」

『 時間が経ちすぎたせいかな? 前よりもっとナルが遠い 』

「・・・・」

『 今までのパターンだと、もうそろそろタイムリミットだよね 』

「・・・・そうだな」

『 死んだ直後にラインが繋がらなくなったのもショックだったけど、これも中々辛いねぇ 』

ジーンはそう言うと、乾いた笑みを浮かべた。
『 あんなに近かったはずの声がよく聞こえない。実は姿も見えていないんだよね 』

「・・・・」

『 どうしてだろう、僕達はあんなに近くにいたのにね 』

穏やかな口調でこそあったが、そこから零れ落ちる感情はあまりに切なくて、優人は息をつめ、呆然と鏡の中の顔を見詰めた。自分と同じ端正な顔は微笑んでいるようにしか見えないのに、何故か直視できないほど痛々しくも見えた。しかし背後から発せられた冷淡な声は、そんな彼の差し迫る感傷をもあっさりと切り裂いた。

「お前が、勝手に死ぬからだ」

同じ形を映すはずの鏡が僅かにブレ、優人は重なった指が悔しそうに引き攣るのを目にした。

僅かに折れ曲がった長い指先。

それが今の彼のできる精一杯の動作なのだろう。

 

――― 優人の方が近いんだ。近過ぎるのも危ないんだけど、優人は我が強いから大丈夫だと思うし。

  

唐突に、優人は自分をここに呼んだ晴人の言葉を思い出した。

 

――― 危険なんだけど・・・

 

それが何を意味するか、霊感のない優人にも察しはついていた。

ただ、そんな経験もなく、自分には理解できない未知の分野のそれに純粋な恐怖心もあって、やってやろうという気持ちは一切なかった。指摘されるまでもなく精神面は強いという自負があったから、強制的にそうなることもないとタカを括ってもいた。だから晴人が危惧するようなことは絶対にないと思っていた。

けれど、麻衣そっくりに微笑む人の哀惜を前にして、実の兄弟であるにも関わらず、その哀しみを躊躇なく切り裂く父親ほど優人は割り切れてもいなかった。

 

―――― こういうの、甘いって言うんだろうな。

 

優人は自分の感情にうんざりしながら、背後に立つナルを一瞥し、何があっても崩れることのない無表情を憎々しげに睨み上げた。

「別にあんたのためにするわけじゃないからな」

そして突然そう宣言すると、優人は鏡に向き直り、闇色の瞳を細めた。

「 " おじさん " は、僕と波長が近い優秀な霊媒なんでしょう?そうしたら晴人以上に色々できるんだよな?」

明らかに呼称が気に入らなかったのだろう、ジーンは優人の問いかけに笑顔を貼り付けたままではあったが、極めて素っ気無く返事をした。

『 何を? 』

優人は笑みを隠すように顎を持ち上げ、肩をすくめた。

「察し悪いな。もしかして頭の回転鈍い?」

『 鈍くはないと思うけど、何のことかな?心当たりがない 』

癖のある笑顔を浮かべたジーンに、優人は片方の眉を釣り上げ、言った。

             

             

            

「少しだけ、僕の身体を貸してやる」

             

             

             

優人の言葉に、それまで飄々としていた鏡の中の気配が姿が大仰に揺れた。

そのことに優人は口角を吊り上げ、鏡についた掌に力を込めた。

「できるんだろう?僕に憑依するんだ。そしたら直にこいつと会える」

「優人!」

背後から飛んできた険しい叱責の声を無視して、優人はシニカルに笑った。

「乗っ取られそうになったら遠慮なく追い出す。それでいいんなら入れ」

最後の足掻きのように、迷う空気がその場を揺らした。

けれど、奇跡のようなそのチャンスに、抗い切れる理性の持ち主など存在するわけがない。

そうして、優人は底意地の悪い笑みを浮かべたまま、ジーンの意識を自分の中に受け入れた。