姿見の中に入っていくかのように倒れこんだ優人を捕まえようと、ナルは反射的に手を伸ばした。

が、咄嗟に伸ばした片手だけでは勢いよく倒れこんだ身体を止めることはできず、ナルは優人もろとも体勢を崩し、強く壁に背を打った。衝撃に顔を顰め、それでもすぐにナルは優人を揺さぶった。

すると優人はふらつきながらも自力で立ち上がり、ゆっくりと顔を上げると、幾度か眩しそうに瞬きを繰り返した後に、聞きなれた声でナルを呼んだ。

             

             

             

「 ナル 」

             

             

              

漆黒の髪、白皙の肌、黒曜石のような深い闇色を湛えた瞳。

その外見は優人のものなのに、今目の前にいるそれはまぎれもなく、世界に唯一人の双子の片割れだった。

             

             

               

             

              

第20話 : 何でも知ってるのに、何も知らない

              

             

              

             

             

「お前はっっ」

怒りのあまりナルが怒鳴ろうと口を開くと、それが音になる前にジーンは勢いよくナルに飛びついた。

「ナル!」

突然飛び掛られてナルが強張った隙に、ジーンはナルの首に腕を回し、細い身体を抱きしめた。

「ナル!ナル!ナル!ナル!ナル!」

ナルの動揺を余所に名前を連呼し続けるジーンに、ナルはようやく我に返ると首元に寄せられた頭を力いっぱい押しのけ、大声で怒鳴った。 

「いい加減にしろ! ジーン!!」

乱暴に引き離され、ジーンは不満そうな表情を浮かべたが、それでも感慨深そうにナルを見つめ、それから困ったように首を傾げた。

「ナル、老けたねぇ」

「・・・・・」

「あの時の子どもが僕と同じ年なんだからしょうがないんだろうけど、ちょっとショック」

あまりに暢気なジーンの言葉に、ナルの中の決して丈夫ではない何かが音を立てて切れた。

「・・・・人の息子の身体を乗っ取って言いたいことはそれだけか?」

「!!!? 待ってよナル! 左手が熱いような気がするんですけど?!」

「気が済んだなら、優人の身体からさっさと出て行け」

「待って、待って、待って!」

ジーンは慌ててピシピシと静電気を発するナルの左手を掴み、高く持ち上げながら声を立てて笑った。

「どうしよう、ナル」

「何がだ」

「これは確かに君の息子の身体なんだけど、まるで生き返ったみたいにぴったりだ」

不穏な単語にナルが顔を顰めると、ジーンはそれをいなすように微笑み、もう片方の手でナルの胸を押した。

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。よりにもよって君と麻衣の子どもの身体を乗っ取ったりはしないよ。そんなことしたら麻衣に一生怨まれそうだもん。それにこれだけしっくりしてても、さすがナルの子だね。この僕を追い出すなんて大きな口を叩いていただけはある。自分の意識を失くしてない」

「・・・・」

「どうしよう、ナル」

「だからなんなんだ?」

苛立ちを隠そうともしない片割れを見据え、ジーンは麻衣によく似た笑みを浮かべた。

             

             

「それでも、嬉しい」

             

             

ジーンはそう言うと、胸を押す掌の上に額を擦りつけた。はらりと黒髪が落ちて、俯いたジーンの表情を隠した。そのあまりにリアルな感触と光景にナルは息をつめ、それから不承不承という顔をしながらも身体から力を抜いた。その変化にジーンはうっそりと微笑み、笑みを浮かべたまま尋ねた。

「ねぇ・・・・僕が死んじゃってから何年経ったの?」

軽い口調が腹立たしかったが、ナルはそれ以上文句を言うのも面倒になり、ため息をつきながら答えた。

「・・・・・・・・ざっと四半世紀だ」

「そんなに? 信じられないな。まだつい最近のことみたいによく覚えているのに」

「お前の時間はそこで止まっているからな」

淡々と答えるナルに、ジーンは唇を尖らせ、素っ気無く反論した。

「ナルは忘れていた?」

「忘れてはいないが、特に拘っていた覚えはない」

「そう・・・」

「薄情だとでも言いたいのか?」

嘲笑うかのようなナルの口調にジーンは愁傷に首を振った。

「ううん・・・・時の流れと共に忘れていくのは自然の摂理。特に悪いとは思わないよ」

達観したような口ぶりにナルは眉間に皺を寄せた。

「忘れたとは言ってない」

「・・・・・そうだけどさ」

「混合するな。気に病むと、忘れるとは違う」

「どういうこと?」

不思議そうな顔をして見上げるジーンの漆黒の瞳に写る自分の姿を見つめながら、ナルは胸に迫る感情に冷笑した。心臓がこの感情の状態を示すことができるなら、取り出して見せてやりたい。ナルはそう思いながら、優人と同じく幼い子どものままのジーンを見下ろし、低く哂った。

「人は誰でも死ぬんだ」

「そうだね」

「それでも、お前の死はそれなりにショックだった」

「・・・」

「そのショックで精神を病んだとしても、それは一時的なことだ。時間も流れたし・・・・・・・・うるさいのが増えて正直それどころではなかった」

「ナルったら」

「お前がこうして迷っているのがイレギュラーなケースなだけだ」

「そうだね」

僅かに寂しそうに微笑むジーンに、ナルは浮かべていた笑みを更に深くした。

「やっぱりお前は子どものままなんだな」

「え?」

「それとも先に死んだからなのか・・・・・」

ナルはそこでもったいつけるように一拍置き、掴まれたままだった左手を振り払い、子ども扱いするようにその手でジーンの頭を撫でた。

「特殊な例だったし、何より当時は僕も幼かったから、よもや自分がこう感じるとは予想もしていなかったが」

「ナル?」

「生身の身体はインパクトが大きい」

そしてナルはジーンの髪を乱暴にかき混ぜた。

「忘れようにも忘れることはできない。あまりにも女々しくて、自己嫌悪で眩暈がするが、こうしていると当時のことが甦る」

「君でも?」

心底意外そうな顔をしたジーンに、ナルはこれもまた心底嫌そうな顔をしたが、視線を外すことすらできず、ただ真っ直ぐにジーンの顔を見つめた。

「ここまで鮮明に覚えているものかと、自分の記憶力の良さに辟易する」

苦笑をもらしたジーンを見つめ、ナルは浮かべていた笑みを消した。

「今なら分かる。あの当時僕は辛かった」

「そう」

「お前が死ぬのは嫌だった」

「・・・・うん」

「お前がこうして迷っているのも迷惑だ」

「迷惑って・・・・」

「なぜ、お前は未だにここに留まり続ける?」

何とか笑い続けようとジーンは苦心したが、顔色一つ変えない双子の片割れの態度に目を細め、諦めたように肩をすくめた。

「僕だってわからないよ。霊媒なのにね。本気でそう思って、出口を探しているんだけど見つからない」

ジーンは呟き、そのまま自分の両手を見つめた。

「覚えてる?生きて最後に会ったのはヒースロー空港だった」

魅入られたように優人の身体を見つめるジーンを眺めながら、ナルは簡潔に答えた。

「ああ」

ジーンはナルの返事に安堵し、胸に押し付けていた額を僅かに持ち上げると、ほっと小さく息を吐いた。

「ちゃんと帰るつもりだったんだ。年が明けたらすぐ、またナルとリンやまどか達と一緒に調査に行くつもりだった。次の調査はウィンストンの墓地だったよね。集団で死神が現れてはお墓が暴かれるっての・・・・・・実際にしっかりと物象が動いていたから、いいサンプルになるって言ってたね」

「あの調査は流れた」

「楽しみにしてたのに・・・・ごめんね」

「別に・・・・大した案件でもなかった」

「絶対に帰れるって思っていたから・・・・・・残っちゃっているのかな?」

「そんな下らないことが理由だったら、突然死した人間は全て浮遊していることになる」

「それもそっか」

ジーンはあっさりと納得し、見つめていた手を握った。

あまりにも相変わらずな双子の片割れに、本来なら遠い過去に流れたはずの記憶がまざまざと甦る。

あふれ出る記憶の洪水に、耐え切れず、ジーンとナルは揃って唇を噛んだ。

「君を残して死ぬなんて、考えられなかった」

「知ってる」

「死にたくなんかなかったよ」

「知ってる」

淡々と同じ返事を繰り返すナルに、ジーンは僅かに笑い、ゆっくりと顔を上げた。

「ナルは何でも知ってるね」

「当然だ。お前が死ぬまでしっかり視た」

「サイコメトリしちゃったんだもんね」

「そうでなければ、お前の身体は永遠に湖の中だったろ?」

「うん・・・・それはちょっと嫌かも」

寒いしねぇ、と、軽口を叩きながら、ジーンはナルの顔を凝視し、その中に潜む自分と同じパーツを無意識のうちに探した。無表情にしていれば、誰にも見分けがつけられなかったほど自分達は酷似していた。それが今では25年の歳月によって、その差異がはっきりと露呈している。その " 現実 " に、ジーンは目を細めた。

             

             

             

             

             

             

「最後に考えたのは、ナルのことだったよ」

「お前の断末魔は、僕の名前だったな」

              

             

             

             

              

             

             

ジーンは笑みを浮かべようと口角を吊り上げ、そして、失敗した。

             

             

             

             

             

             

             

「ずっと一緒にいるって思ってた!嫌だって思っても、僕らは結局一緒にいるしかできないって思ってた!!」

「ありえない」

「そんなの分かってるよ!!!」

「なら・・・」

「でも!! ナルだってそう信じていたじゃないか!」

「・・・・」

「信じてたはずだよ!?」

「・・・・」

「僕に隠し事は無駄だよ、ナル」

黙り込んだまま、本当に不本意そうに顔を顰めたナルに、ジーンは大粒の涙を溢した。

             

             

             

             

「 だから、どうしてもこんな形で君の信頼を裏切りたくなんかなかった!!! 」

             

             

             

             

同時に生れ落ちた場所は、お世辞にも恵まれた環境ではなかった。

過酷とも言える最下層の境遇をかいくぐって、たくさんの偶然に救われながらも、這いつくばるようにして、必死になってしがみ付き、そうしてようやく生き残った。そういう生い立ちだった。

それでもまだ、きっと、幸福だったのだろう。

明日をも知れない過酷な日々。

けれどそれでも、傍らには常に魂を分けた半身がいた。

自分と相手のラインが曖昧になるほど、酷く似通って、それでも他者として存在した唯一の味方。

成長とともにその距離の近さは煩わしく、疎ましくも思えたが、その存在がどれほど貴重で、自分がその存在にどれだけ依存していたのかは、自覚できているつもりだった。

生きていることを疎かにしていたつもりもない。

けれど、その幸運だけは一生涯ずっと続くものだと、何故か思い込み、どこかで軽視していた。

叫び疲れたようにジーンはぐったりとうな垂れ、それからぽつりと呟いた。

「思い出した」

ジーンはそう言うと、流れる涙を拭うことも忘れて呆然とナルを見上げた。

「死ぬことよりもむしろ、僕はナルを裏切るのが怖かった。それがただ怖くて、悲しくて、嫌だった」

人は死ぬ。

そんなことは知っている、分かっている、理解できる、当然だ、仕方がない、生物とはそういうものだ。

けれど、どうして信じられようか。何よりも近しかった存在がいなくなるなんて、どこをどう間違えたらそうなるのか。何をどうやったら信じられたと言うのだろう。

分かっていると思っても、心のどこかで信じていなかった。

             

             

――――― 自分が既に取り返しがつかない場所にいるなんて。 

              

            

ジーンはやるせなくため息を落とすと、今では見上げる形になってしまったナルの胸に腕を回した。

覚えていた感触よりも、少し厚みを増した胸。その僅かな差異にすら、胸裂かれながら、ジーンは呟いた。

「すぐ帰るって言ったんだ」

「・・・・・・・」

「ナルは最後までハグさせてくれなかったから、帰ってきたら盛大に抱きついてやろうって思っていたんだよ」

「やめてくれ」

「できなかったんだから文句言わないでよ」

ジーンは迷惑そうに文句をつけたナルに苦笑しながら、ぐすり、と鼻をすすり、背中に回した腕の力を強くした。

「こうやって、抱きしめるはずだったんだ」

抱きしめても、僅かにしか感じられないほどナルの体温は低い。

「ちゃんと、" ただいま " って言うはずだったんだ」

けれどその奥に聞こえる心臓の鼓動に、ジーンは安堵した。

帰りたかった。

ずっとずっとこうして体温を感じたかった。ぬくもりを伝えたかった。帰ってきた。約束は守られた。と、その場しのぎの詭弁であっても伝えたかった。

そうしてナルを安心させたかった。
             
             

             

             

             

             

            
泣き喚いた直後にも関わらず、滑らかに耳に注ぎ込まれる、低い、懐かしいテノール。

記憶と寸分違わぬ正確さを持って再現される " ジーン " に、ナルは知らず、その背に腕を回した。覚えている感触そのものの、まだ大人になりきっていない細い腰。その小さな類似点にすら、胸裂かれながら、ナルは熱く湿った吐息をもらした。

きつく抱いても消えない、温かい生身の身体。皮膚を通して感じるのは、確かに脈打つ鼓動、疑いようもなくかつての自分に最も近かった存在。

―――― すぐ帰ってくるからね。

そう言って笑った片割れの声は、どれだけ月日が経っても色あせず、煩いくらいにリピートする。

ナルは蘇りくる圧倒的な怒りの感情に眉を寄せた。

既に失なわれたなどどうしても信じたくなかった。

帰ってくると言った片割れが、その約束を破るなんて信じられなかった。

心の奥底に隠された切望をジーンと同じように思い出し、ナルは疲れたようにため息をついた。
ただ、何気なく後ろに続く昨日のように、当たり前の明日を迎えたかった。

そう、ただこう言いたかった。

              

             

「おかえり、ジーン」

             

             

そして聞きたかったのだ。

             

             

「ただいま、ナル」

             

             

そう言って微笑む笑顔を見たかったのだ。