暴力的な疲労と睡魔に負けて、優人と晴人はそのまま墜落するように眠りに落ちた。
そうして次に2人が目覚めた時、あたりは既に明るくなっていて、病室には医師と看護士が忙しく麻衣の処置を行っていた。そうしてその脇で常となんら変わらない無表情でその様子を眺めていたナルは、優人と晴人が目を覚ましたことに気が付くと、足音すら立てずに2人に近付き、極めてそっけなく麻衣の状態を説明した。
「 麻衣の意識が戻ったぞ 」
そしてそれだけ告げると自分の仕事は終わったとばかりに、ナルは振り向くこともなく病室を出て行った。
そのあまりに普段通りの反応に、優人と晴人は反射的に昨晩起きたことは夢だったのではないかと疑ったが、告げられた内容に飛び起き、ベッドに駆け寄ると、そこには懐かしい鳶色の瞳を開いた麻衣がいた。
「麻衣!」
「ママ!!」
診察中の医師を押しのけて、飛び掛らんばかりの勢いでベッドの端につめよった2人の息子に、麻衣は抱き寄せられない不自由な身体に困惑しながらも、最上級の笑みを浮かべた。
第22話 : 秘密の香り
ルエラが焼くマドレーヌは表面がカリカリしていて、中がふわりとやわらかくてとても美味しい。
熱いミルクティーを飲みながら、晴人はそのマドレーヌを口に運びつつ、興奮した調子で声を張り上げた。
「じゃぁ、優人は憑依されている最中も2人の会話は聞こえていたってことだよね?すごいねぇ、初めての憑依なのにそこまで自我が保っていられるなんて、さっすが我が強い人間は違うね!」
「あっそう・・・」
褒めているのかいないのか、真意の分からない晴人の言動に、優人はマドレーヌをかじりながら力なく頷いたのだが、晴人はそんな優人の機嫌の悪さにも気が付かない様子で、話を続けた。
「僕さぁ、トランス直後に一回目を覚ましたんだけど、その時ちょっとだけパパの顔を見れた気がしてたんだ。でもすぐ眠っちゃったし、その時のパパが泣いているみたいだったから、あれって絶対夢だったと思ったんだけど、優人の話聞いたらあれも現実だったのかなぁって気になってきた!優人は見なかった?」「・・・・見たような気もするが・・・・よく覚えていない」
「そうなんだぁ、なんだか残念。でも、実際にパパがお兄さんと話しているのは見たんでしょう?」
「他人事みたいな感じだったけどな」
優人はそう言いながらも、その時のことを思い出し、僅かに身震いした。
「ヤツに真正面から睨まれて、何かヤツらしくもないことばっかり言われて気味が悪かった」
本気で嫌そうな優人に、晴人は興味深々で詰め寄っていた勢いを削がれ、かくんと肩を落とした。
「・・・・・・・奇跡的な感動の再会に立ち会って、その感想が気味悪いじゃ、いくらパパでも可哀想じゃない?」
「普段の行いが悪過ぎるんだよ」
「まぁ・・・・・僕だってあの場にいなかったら、感情的なパパっていまいち信じられないけどね」
「だろぅ?」
力なく頷く晴人に優人は意地悪く口角を吊り上げた。
「あんな冷血漢でも、死んだ実の兄には人間らしいところがあるんだと驚きはしたけどな」
晴人は納得しそうになった考えに慌てて首を振り、優人に言い募った。
「でも!でもさ、家族に対するパパの愛情深さがわかったじゃない!」
「・・・・晴人、それ本気でそう思ってるのか?」
「うん!」
元気よく即答する晴人に優人はうんざりとため息を漏らした。
「あいつの兄は例外だと僕は思うけどね」
「えー、そうかなぁ。優人ってばひねくれ過ぎだよ」
「そんなこともないだろう。あいつの兄に身体を貸してやるくらいには僕は優しい」
「・・・・」
「反論でも?」
「ううん、優人は十分優しいと思うけどさぁ・・・・でもさぁ、やっぱり感動的な出来事だったんじゃない?それも全否定するの?」
つぶらな瞳が今にも泣きそうに潤む様を見て、優人は肩をすくめた。
「まぁ・・・・・そこまでは言ってない。けど、同情しようにも事情がよく分からないしな」
「そう、それだよね!」
晴人は優人の言葉に納得半分、好奇心半分といった体で、飛びつくように身を乗り出した。
「突然聞かされたってのもあるけどさ、その辺の事情がよく分からないよねぇ。だからちょっと消化不良なんだよ!パパもどうしてそのへんの大切なこと、僕達に教えてくれなかったんだろう?」
「必要なかったからだろう」
「でもさ、ここまで知ったらちゃんと知りたいと思わない?すっごいミステリアスだよ!」
我慢できないと顔に書いてある晴人を見据え、優人は素っ気無く首を横に振った。
「別に」
「どうして?!」
心外だ、と、言わんばかりに目を見開く晴人に、優人はため息を一つ落として、年長者らしくこんこんと諭した。
「母さんの意識は無事戻った。あの人も浄化だっけ?あの世とやら行った。問題はオールクリアだ。この先彼が必要になる事態はないし、出てくることもない。この状態でこれ以上あいつやその兄弟について知る必要があるとは思えない」
優人はそれだけ言うとカップに残ったミルクティーを飲み干し、飲み慣れたそれより格段に味の落ちるその風味に、早く麻衣のいれた紅茶が飲みたいと眉を顰めた。
「何んなのよ、人が心配してクリスマス前のハイシーズンにファーストクラスで駆けつけてやったっていうのに、本っっ当に人騒がせなんだから!!!!せめてあと一日早く気が付きなさいよね!!」
「大体事故に巻き込まれる事自体迂闊なんですわ。現役のセンシティブの意味がわかりません!」
「本当にいくつになっても派手な騒動ばっかり起こして」
「どれだけ心配したと思ってますの?」
「「 麻衣の馬鹿! 」」
麻衣が意識を取り戻した翌日、病院に駆けつけた綾子と真砂子は意識を取り戻した麻衣を前にして、八つ当たりじみた文句をくどくどと言い放ち、まるで麻衣が諸悪の根源のように扱ったが、その目は真っ赤に腫れあがっていて説得力はなかった。また、同行した安原も相変わらずの人を喰った笑顔を浮かべながら、既にアポの取ってあるイギリスの脳挫傷後のリハビリを支援する団体、および関連機関、費用面での援助団体、関連法律の情報をナルに手渡した。
「これからが大変でしょう。けれど、麻衣さんのことですからね!遠方にはおりますが、出来る限りのことはさせて頂きますので、何なりとお申し付けください」
そうした安原の指摘通り、麻衣は意識は取り戻したもののそこから劇的な回復はしなかった。
長期間の意識不明。それはそのまま脳へのダメージの大きさを表していて、特に損傷の激しかった右脳が司る器官、身体の左側の動きに後遺症が残った。また文字や言葉などは理解できるが、音など感覚的なものに対する反応が著しく低下し、特に感覚で物事を捉える傾向の強かった麻衣を混乱させた。
それでも麻衣は人前では気丈に振舞っていた。が、ひとたびそこにナルが現れると、麻衣は壊れたように泣くようになった。
「ナルの前だと気が緩んでしまうんでしょうね」
「泣いて癒されることもありますわ」
「麻衣がナルにああして甘えていられる内は大丈夫よ」
「ナル!あなたはできる限り麻衣ちゃんの側にいるのよ!」
居並ぶ女性陣は矢継ぎ早にそう結論付けると、甲斐甲斐しく麻衣の世話を焼きながらも、最後はナルに預けるように身を引き、麻衣が本当に弱っている時は、ナル以外は例え優人や晴人であっても決して近づけないように画策していた。その対応が100%正しいとは思えないが、80%くらいは当たっているような気がして、優人は不承不承ながらも基本的にはその指示に従った。
――― 僕に、甘えて欲しい。
優人の本音は間違いなくそれだ。けれどそのためには自分はまだ何もかもが足りないのだ。
余裕などないはずなのに、麻衣は優人や晴人を守ろうとする。
その母親らしい言動が優人に嫌がおうにもその事実をつきつけていた。
優人が鬱々と物思いに沈んでいる間も、晴人は優人の顔を覗き込み、重ねて何度も同じ事を尋ねた。
「ねぇ優人、優人は本当に本気で、ジーンさんとパパのこと気にならないの?」
その質問がいい加減鬱陶しくなり、優人は皿に残ったマドレーヌを掴みつつ自室に戻ろうと席から立ち上がった。そしてそのまま踵を返して立ち去ろうとする優人に、晴人は慌てて言い放った。
「ジーンさんがママの昔の恋人だったとしても気にならない?」
優人はその不穏な単語に、浮かせた足をぴたりと止めた。
興味のない優人を引き止めるために半ば確信犯で落とした爆弾発言だったのだが、晴人は見る見る内に優人の背後から立ち昇るどす黒い黒煙を目にして、口にしたことをちょっと後悔した。
が、投下してしまった爆弾を今更回収することはできない。
「どういうことだ?」
底冷えする優人の問いかけに、晴人は気がつかれないようにごくりと息をのみつつ、自ら落とした爆弾の正体を明かした。
「ジーンさんって、優人に憑依した後あっちの世界に行ったでしょう?」
「・・・・多分な」
「その時、僕とママはちょうどその途中の道にいて、ジーンさんに会ったんだ。滅多にないことなんだけど、ジーンさんとすれ違ったんだよね。本当に一瞬だけだったけどさ」
「へぇ」
「うん」
「それで?」
そもそも、自分一人で抱えるには、この爆弾は大き過ぎて、晴人はそれを誰かに喋ってしまいたかった。
けれど、実際に優人を前にするとその迫力に押し負け、晴人は思わず口篭もった。
「えっと・・・ジーンさんの方が早く僕たちに気が付いて、すれ違う瞬間にママの腕を掴んだんだ」
「で?」
「え?ああ、うん。あの、ね・・・・」
「何だよ?はっきり言え!」
いつまでも口を割らない晴人に焦れ、優人は眼光鋭く、晴人を睨んだ。その剣のある眼差しに晴人は詰め寄られるようにして口を開いた。
「 ママに ・・・・・・・ キスしていったんだよね 」
晴人がそれを告げた瞬間。
ぐちゃり…と、優人の手に握られていたマドレーヌは音を立てて握り潰された。
そのことに晴人は目を奪われたが、当の優人本人はそれに気が付くこともなく、睨み殺さんばかりの苛烈な視線で晴人を睨みつけた。その迫力に、晴人は恐怖のあまり身震いした。
―――― 優人でこのレベルなら、パパには今のこと言うの絶対やめようっと。
そうして内心でそう心に決めつつ、晴人は勇気を振り絞って口を開いた。
「ママに大好きだったよって言って、パパをよろしくって言ってから、ジーンさんは光の中に消えていったんだ」
「・・・・・・・・・・」
「まぁ、最後のお別れだからキスくらいするのかもしれないなぁとは思ったんだけど」
「・・・・・・・・・・」
[ ただの友達にマウス・トゥ・マウスはしないよね 」
トドメの一撃に怖いような沈黙が落ちる中、晴人は場を誤魔化すように明るい口調で続けた。
「だからママとジーンさんって昔は恋人同士だったんじゃないかなぁって思ったんだ。それでその後パパと付き合って、結婚したとかね。でもさ、ジーンさんとパパって優人の比じゃないくらいそっくりの双子だったわけじゃない?兄弟の元の彼女と付き合うってだけでちょっと微妙なのに、それが双子だったら尚更複雑だよね。プライドの高いパパがそんなことしてたって何か納得できないんだけど、あれを説明しようと思ったらそうなる・・・」
「・・・・」
「それでさ、もっと意地悪なこと考えちゃうと、ママが双子に二股かけてたとか考えちゃうんだけど」
「麻衣はそこまで器用なタイプじゃない」
断言する優人に晴人もまた大きく頷いた。
「まぁね、僕もママがそんなことするとは思えない。だから、なおさら気になっちゃったんだよ」
晴人の口からポンポンと飛び出す単語に優人は頭を抱えながら、想像したくもない出来事に顔を顰めた。
親の生々しい恋愛事情など知りたくはない。けれど、今の麻衣にキスしていったとなるとそれは別問題だ。
飄々と笑っていた癖のある人物の面影を思い出し、優人は苦々しく奥歯を噛んだ。
夫とは言え、ナルが麻衣に手を出すのも嫌なのに、それ以外の男がと考えただけで胸糞悪くて眩暈がする。
優人がじりじりと怒りのボルテージを上げていくのを横目に、晴人はにっこりと微笑みを浮かべた。
「ね?優人も気になるでしょう?実際のところどうなのか知りたいって思わない?」優人は媚びるような晴人の笑みを苦々しく睨みつけ、嫌そうにため息をついた。
「晴人は何がそんなに嬉しいんだ?ゴシップ好きのパパラッチみたいだぞ」
優人のあからさまな軽蔑の眼差しに、晴人は慌てて首を横に振った。
「変な想像して悩むのが嫌なだけだよ。僕はパパとママを信頼しているからね。どっちかっていうとパパとママの潔白の証明が欲しい。だから本当のことをちゃんと知りたいんだ」
「・・・・・ものは言いようだな」
優人が吐き捨てるようにそう言い放ちながらも、興味を持ったことを確認し、晴人は立ち上がると、コート掛けに掛けてあった優人と晴人の2人分のコートを手に取った。
「だからさ、優人も一緒に話を聞きにラボに行こうよ」
力強く言い放った晴人に優人は顔を顰めた。
「あいつに直接聞くつもりか?自分のことを話すわけないだろう」
「うん、僕もパパから聞き出せるとは思ってないよ。でも怪我しているママに事情を聞くわけにもいかないじゃない?だからラボ行って、リンに話を聞くの」
「リン?」
「パパとずっと一緒に仕事をしている、一番の情報源でしょう?話を聞くには最適だと思うんだ」
そうして、晴人は天真爛漫を絵に描いたような笑顔を浮かべた。
「だから優人が必要なの。リンの弱みくらい優人だったら握ってるでしょう?」
これが本物の天使だとしたら、天使は間違いなく悪魔より性質が悪い。
優人はそう思いつつも、胸に迫るむかつきに耐えかねて、渋々と差し出されたコートを受け取った。