嫌悪感で吐き気がした。

胸は真っ黒に塗りつぶされ、そのまま腐れ落ちるのではないかと思えた。

              
  
             

              

             

               

               

第25話 : お願いがあったんです

              

              

              

              

              

              

どこをどう歩いたのか記憶にない。

ふと気が付けば、優人は麻衣が入院している病院まで来ていた。

ラボから歩いたとすれば結構な距離だったので、優人は純粋にそのことに驚き、次いで後が残るほどきつく握っていた両手に気が付いて固くしびれた拳を慎重に開いた。

              

―――― 手袋・・・・ラボに忘れてきた。

              

優人は冷たくなった指先を擦り合わせながら、痛むほどに冷えた空気に身震いした。

寒いことも、手が冷たいことも、混乱した頭も全部が全部忌々しく、怒りに急き立てられた感情の持って行き場がない。優人は舌打ちしながら病院内に足を踏み入れ、無意識のうちに麻衣の病室へ向った。そしてその途中で顔見知りの看護師とすれ違った。

「あら、お母さんのお見舞い?」

看護士はにこやかに笑いかけながら優人に声をかけた。そうして優人が愛想なく無言で頷くのを見て取ると、僅かに頬を染めてため息をついた。

「今ちょうどお父様もみえてるのよ。本当に親子そっくりでどっちもカッコいいわね」

その一言で、優人はぴたりと足を止めた。
今、最も会いたくない人物に会うつもりはない。
看護師が立ち去るのを見送ると、優人はくるりと方向転換をして廊下を反対方向に向かって歩いた。そうして人目を避け、どんどん先に進み、優人はこれまで気が付かなかった小さなホールに行きついた。

そこは随分年季の入った古ぼけた長椅子が2客並び、その奥には掃除用具が乱雑に立てかけてある、窓のない酷く狭い場所だった。便宜的な従業員の休憩場所といった所なのか、暖房も満足に届かず、照明も心なし薄暗いような場所だったが、優人はちょうどいいとその場に足を踏み入れ、長椅子に腰を下ろした。

長椅子はその本来の仕事を忘れていたようで、優人が体重をかけるとギシリと不満そうに軋んだ。

優人はそれを押しつぶす勢いで椅子にもたれかかり、乾いた瞼をしっかりと閉じた。

不思議な話だけれど、気分が悪いだけで本当に心臓がキリキリと痛んだ。その痛みは冷静な判断力を奪い、思考は考えた端から支離滅裂で、検討の余地もない。優人はもう何も考えたくなくなって、ただ静かに身を硬くし、不快な感情が治まるのを待った。

どのくらいそうしていたのか。

すぐ横で、人が入っている気配がして、優人はゆっくりと瞼を開けた。するとそこには実に迷惑そうに顔を顰めたエルが立っていた。

「何であなたがここにいるのよ」

エルはため息をつきながらそう言い放ち、次に優人の向かいにある長椅子に腰を下ろした。

「エルこそこんな場所に何のようだよ?」

剣呑な口調で優人が尋ねると、エルは小さくため息を落とした。

「私はしばらく前からここの常連。せっかく見つけた一人になれる場所だったの。邪魔をしているのはあなたよ」

エルは遠慮なくそう言うと、手にしていたバッグを横に置き、膝を抱えて丸くなった。

「もう動きたくないの。私がいるのが邪魔なら、ユートが席を外してね」

エルはそう冷たく言い放つと丸めた膝に頭を乗せてうつむいた。そのあんまりな態度に、優人はどうしようかと少し考えたが、痛む頭では碌な答えも思いつかず、結局そのまま優人も黙り込んでベンチに沈んだ。

              

               

遠く、誰かが忙しなく歩いていく足音がした。

              

              

それ以外はどんな音もしない場所で、優人とエルは黙りこくってそれぞれに沈黙のまま、互いを無視して過ごしてた。が、優人はふと、正面に座っていたエルが何時の間にか自分を見つめていることに気が付き、億劫に思いながら渋々顔を上げた。

「何だよ」

咄嗟に飛び出した刺のある優人の声に、エルは以前と変わらない淡々とした口調で答えた。

「さっき、ユートととてもよく似た男の人を見かけたの。よそ見してぶつかってしまったんだけど、謝ってもこっちを見ようともしてなくて、とても感じが悪かったわ」

本当に気分を害したのかもよく分からない無表情で答えられ、優人は少し戸惑ったが、疑うまでもなくその人物には心当たりがあったので曖昧に頷いた。

「それ、多分僕の父だ」

「お父さん?」

「ああ・・・・さっき母さんの見舞いに来てるって看護師が言ってたから」

「そう・・・・言われて見ればそうかもね」

エルはそれだけ聞くと満足したように視線を外し、丸めた膝に顔を摺り寄せた。

男であれ、女であれ、稀な美貌を持ったそっくりな自分達親子を見ると決まって歓声をあげ、興味深そうに喰いついて来る。その反応に慣れた優人はエルの淡白過ぎる反応に面食らい、それからピリピリと張り詰めていた気を少し和らげた。          

――― こいつは煩くなくていいな。

優人はふんぞり返っていた姿勢を改め、前かがみになって対面するエルを見つめた。

よく見なくともエルはとても綺麗な外見をしている。それで慣れているのかもしれない。と、優人は不遜なことを考えながらエルに話かけた。

「うちの母親、この間意識を取り戻したんだ」

「あらそう、良かったわね」

あくまで表情を変えず、リアクションの少ないエルに優人は不思議なほど安堵し、口を軽くした。

「エルはスピリチュアルな話とか信じる?」

「スピリチュアル?いいえ、全く信じない」

即答するエルに優人は目を見開いた。

「へぇ、珍しいな。女の子はみんなこんな話が大好きなんだと思っていた」

優人の感想に、エルは少し首を傾げた。

「世界は広いからどこかで不思議なことが起きても私は構わない・・・・そうね、そういう意味では信じている。でも、私はそんな体験したことがないし、それで何かが起きると期待するようなことはないから、そういう意味では信じていない」

「他人事ってわけか」

「ありていに言えばね」

エルはそう言うと身体を屈め、優人を見据えた。

「何、ユートはスピリチュアルな体験でもしたの?」

「・・・・まぁね」

優人が答えると、エルはへぇとだけ声を上げ、それで話は終わったとばかりに立ち上がった。

「エル?」

「何?」

「そこまで聞いておいてそのまま?だったらどんな話だったと聞かないのか?」

「聞いて欲しいの?」

エルは心底不思議そうな顔をしながら優人を見下ろした。

正直、優人は自分から声をかけて、女の子にここまで興味のない扱いを受けたことはなかった。そのためにここまで徹底されたエルの態度は新鮮な驚きで、優人はたまらず噴出した。

「すごいな、エル」

優人の感想にエルは理解できないと言った風に肩をすくめ、それから優人の隣に腰を下ろした。

「聞いて欲しいなら付き合ってあげるけど?」

不遜とも違う、ある種心地いいまでのあっさりとしたエルに、優人は肩の力を抜いて、うっすらと微笑んだ。

「僕の家はちょっと変わっている」

そうして語りだしたことの顛末に、エルは相槌の一つも打つことなく無言でただ耳を傾けた。

その無愛想な態度が逆にありがたく、優人は先日起こった現象ばかりでなくそれに纏わる様々なことをエルに話して聞かせた。

傲慢で、自信過剰で、終始その態度を変えることのない父親。

優しく、誰よりも愛しい母親。

問題も多いけれど、第一に守ってやらなくてはいけない弟。

そして、自分とそっくりの容姿をして、16歳で夭逝した父親の双子の兄。

不思議な能力や現象を研究する父親と、その能力を持った自分を除く家族。

その住家は、ありふれたものではあるはずなのに、どこか特殊な価値観に包まれている。

誤解だけはされたくなくて、優人は自分でも驚くほどの熱心さでその現状を説明した。

そしてそうしている内に、自分が何に対して怒っているのか、何を不快に思っていたのか、その根源的なものが曖昧になっていき、優人はそのカオスの中で言うべき言葉をなくしていった。

言いようのない敗北感が胸に沸き、優人を責め立てる。

けれど、絶対にそんな負けは認められない。

熱弁していた口調はその葛藤の中で次第に小さくなり、そして終いにはとうとう潰えた。それでも優人はあがくように何度か口を開き言葉を続けようとしたが、音になればそれは、自分が望みもしなかった言葉になりそうで、それが声になることはなかった。

焦れて、優人が奥歯を噛むと、それまで無言で話を聞いていたエルが突然身じろぎし、傍らにおいていた大きなデイバッグからバスタオルを取り出した。

「おじいちゃまのだけど、ちゃんと洗濯した後のものだから」

エルはそう言うとバスタオルを大きく広げ、頭から優人に被せた。驚いてタオルを剥ごうとした優人を、エルは両手で阻止しながら、低い声で囁いた。

「匿ってあげるから、泣きたいなら泣いていいわよ、ユート・デイヴィス」

不意に呼ばれた名前に優人が硬直すると、タオルが邪魔して顔の見えないエルが小さく笑った。

「愛されているって分かって、良かったわね」

洗い立てのタオルの臭い越しに、ふわりと、エルの化粧臭い花の香りが香った。

               

               

              

               

              

「 大好きなお父さんに、ずっと認めて欲しかったんでしょう? 」

               

              

              

               

              

タオル越しに囁かれたエルの言葉は、何故か真っ直ぐ優人に届き、優人は唐突に理解した。

せっかくあの両親の元に生まれたのに、何の能力も持ち得なかった自分は、だからあの人に嫌われている。

だからあの人は冷たい。 

だから " 仕方がない "

下らない思い込みだと理性で否定しても、幼い頃から刻まれたその思い全部を取り払うことはどうしてもできなかった。そして最も簡単に、そして確実にそのコンプレックスを拭えるの彼は、決して望むように分かりやすい言葉と態度で拭い取ってくれない。

              

―――― だから、最初にあいつを恨んだ。

              

欲しいものを何一つ与えてくれないから。

              

―――― 次に勝とうと思った。

              

当然のように大好きな母親の一番であり続ける、世界で一番強い男だと思っていたから、そいつに勝たなければ自分が生きていいとはどうしても信じきれなかったから。

きっと晴人が指摘した通りなのだろう。

それと自覚できないほど強く、誰よりも、何よりも一番意識していた。

自分がここにいてもいいと、信じられるように、世界の中心にいるあの人に自分を見て欲しかった。自分を認めて欲しかった。自分に価値を見出して欲しかった。

               

              

              

              

―――― " あの人 " になりたかった。

              

              

              

              

優人は胸に落ちた言葉に愕然とし、思わず呻いた。 

「何だ・・・・・・全部ファザコンの裏返しだったのかよ」

言葉にすればあまりに安易で、あっけない。

そのことを口に出来た時点で、膿んで、こぼれそうになっていた涙は瞬く間に乾いた。優人はゆっくりと顔に掛けられたバスタオルを剥ぎ取り、真正面に座るエルを見据え、胸につかえていた言葉を吐いた。

「すげぇ、世界がひっくり返ったみたいだ」

エルは、呆然とした体で呟く優人に笑うでもなく、怒るでもなく、ただ無表情で見つめていた。無視はされない、けれど下手に同情されない安心感から、優人は大きく息をつき、今掴んだばかりの感情を眺めた。

分かってしまえばとても簡単だった。

『 人の息子の身体を乗っ取って言いたいことはそれだけか? 』

あの時、愛しくないはずはない兄に向かって、確かにナルはそう言った。

『 気が済んだなら、優人の身体からさっさと出て行け 』

そうやって子どものように庇われて、名を呼ばれ、それだけでたまらなく嬉しくて、彼は彼なりに自分を愛しているのだと思えたはずだった。けれど理由がわからなくて、信じられなくて、納得できなかった。

              

―――― 違う。

              

優人はそれでもまだ誤魔化そうと足掻く自分を見つめ、半ば呆れながら自嘲した。

『 優人に能力がないことで、ナルは救われたんですもの 』 

それは自分が望んだ形で愛されているわけではないから、満足できなかった。

               

              

―――――― どうしても、 見返す形で " あの人 " に愛されたかった。 

               

              

純粋でもなく、大人にもなりきれなくて、ただ自覚なく、我儘をそれと気がつかずに声高に叫んでいた。それなのに、まだ足りない、分からないと、自分の飢餓感だけに囚われて、本当の姿を見ようともしなかった。

確かに愛されていたにも関わらず、もっともっととせがんで甘えていた。

優人はようやく気が付いた自分の真の姿に居たたまれないほど恥ずかしくなって、苦々しく口元を歪めた。

その様子を横目に、エルはふっと笑みを浮かべ、次いでつまらなそうにため息をついた。

「ようやく分かったのね。ユートって鈍いんじゃないの?」

憎まれ口を叩くエルをじろりと睨むと、エルは掴み所のない無表情のまま肩をすくめた。

「感動したら素直に泣けばいいのよ。泣き顔見られたくないだろうと思ってタオル被せてあげたのに、取っちゃったら意味がないじゃない。心配しなくても誰にも言いふらしたりしないわよ」

そうして再度タオルをかけようとしたエルに、優人は苦笑としながら、やめてくれ、と、その手を拒否した。

「自己嫌悪で死にそうなだけだ。泣きゃしない」

「そうなの?」

「そうだよ」

バカにするなと言い出しかけた優人に向かって、エルは首を傾げた。

「そこまで飢えていたのに、変なの。私だったら絶対泣くわ」

「エルが?」

意外に思ってエルの顔を覗き込むと、エルはしごく真面目に頷いた。

「親に愛されたいって思うのは、子どもの普遍的な願望だもの。それにルールや理屈はいらないはずよ。愛されているって感じられたら、私だったら絶対に泣くわ」

淡々とした温度のない口調は相変わらずなのに、やけにはっきりと断言するエルに優人は眉根を下げた。

―――― 本当に変なヤツ。

そう思いながら、優人は悪戯心を起こし、タオルを握り締めたエルの両手を掴むとそこに顔を埋め、低く囁いた。

「それじゃ、その時は僕を呼べよ。ちゃんと匿ってやるから」

そうして優人がエルの顔を見上げると、エルは恥じらう様子もなくきょとんとした顔で優人を見下ろし、それからやけに幸福そうな顔で微笑んだ。

――― 何だ、こんな顔もできるんじゃないか。

その笑顔に見惚れながら、優人は目じりに浮かんだ涙を秘密裏に拭った。