思えば、一人で来るのは初めてかもしれない。
優人はそんなことを思い返しながら、トリニティ・カレッジに足を踏み入れた。
最終話 : パパに用がある
長く重い冬を越し、イギリスは最も美しい薔薇の季節を迎える。
その薔薇が咲く頃、麻衣はようやく自立歩行ができるようになり、続く短い夏の間には緩慢な動きではあるけれど、日常生活に支障がないくらいには健康を取り戻しつつあった。
その間、ナルは自宅で研究ができるように手はずを整え、そのおおよそを麻衣と共に自宅で過ごした。
かと言って家事はしないし、研究を中断することもしない。そうして大学が新学期を迎える9月には当然のように職場復帰を果たしたのだが、それだけでも周囲の人間から見れば極めて意外なことで、ナルは事故を機に劇的に人間らしくなったと褒め称えられた。
―――― 元が極悪な人間は、何してもいい人に見えるから得だよな。
優人は内心でそう毒づきながら、ナルが復帰したばかりのラボに向かって歩みを進めた。
ケンブリッジという学都の一角、トリニティ・カレッジ。
そこはナルの仕事場であり、弟、晴人の訓練の場であった。そのため、優人もかつては晴人の付き添いで自分の庭のように駆け巡った。けれど今ではすっかり足が遠のき、記憶も朧になっている。古い記憶を辿りながら優人が研究室に向かうと、その途中の廊下で、優人はナルが自分とさほど年の違わない若い女性と話し込んでいるところに出くわした。しなを作る女性を前にしても、その人、オリヴァー・デイヴィスは平素と変わらぬ無愛想さではあったものの、珍しいことにきちんと会話をなしているようだった。しかしさほど中身に興味がなかったのか、優人が声をかける前に、ナルは優人の気配に気が付き、正面の女性が熱く語るのを余所に、容赦なくその会話をやめた。
「博士?」
突然中断された会話に、話相手だった女性は不本意そうに顔を上げ、そうしてナルの視線が注がれてる方向に視線を転じ、その先にいた優人を見て驚いた表情で口に手を当てた。それから壊れた玩具のように首を左右に振る女性を挟んで、優人はしごく優雅に歩み寄り、にっこりと笑顔を作って見せた。
「お邪魔してすみません」
その笑顔に女性は頬を染め、ぽぅっと優人の顔に見惚れた。その視線を十分に意識してから、優人はやおらナルを見返し含みのある笑顔を浮かべた。
「少しパパに用事があって、立ち寄ったんです」
「パ・・・・パパ?」
「ええ」
「博士の息子さん?!」
女性は大声を上げると顔を真っ赤にしてナルを見返した。
「博士!こんな大きな息子さんがいらっしゃるんですか?!」
煩そうに眉間に皺を寄せつつも頷くナルに、女性は興奮したような奇声を発し、ごもごもと何事か口の中で呟くと、逃げるようにしてその場を立ち去った。その後ろ姿を見送りながら、優人はわざとらしく顎を上向かせた。
「何、あの頭悪そうな人」
「今年受け持つことになった研究生だ」
「ふぅん。女性は自分に見惚れて研究にならないから、チームに入れないんじゃなかったっけ?」
皮肉る優人に対して、対面する男はさらりと傲慢な返事を返した。
「男でも女でも惑うのは同比率と悟ったんだ。それで今年からは純粋に学習能力順に選択することにした」
ぬけぬけとのたまうナルに、優人は心の底からため息をついたが、ナルは一向に気にすることもなく、手にしていたファイルでポンポンと優人の肩を叩いた。
「こんな所に来るなんて珍しいな。麻衣に何かあったか?」
―――― こいつの頭の中は研究と母さん以外はないのかよ。
突如息子が現れてもまるで動じる様子のないナルに、優人は胡乱な眼差しを傾けつつ返事をした。
「母さんは晴人が付き添ってリハビリセンターに行ってる」
優人は事務的にそう告げてから、くっと小さく笑った。
「僕が " パパ " に用があるんだ」
ナルはその気味の悪い呼称に含みのある笑みを浮かべる不穏な息子の態度に、面倒そうにため息をつくと、一言も声をかけることなく目線だけで先を促し、自分の研究室に向かった。
「用があるなら手短に話せ」
薄暗い研究室の中は、その主人が入室したことによって自然空気の重みを増したようだった。
きちんと整頓された愛想のないその部屋を物珍しげに見渡しながら、優人はデスクに向かうナルを見据えた。
不遜な態度がよく似合う、一流の自信、それを裏付ける絶対的な実力、そして、愛する人から愛されること。
父親はそれらを全部手中に収めた、手直にあった理想だった。
できたらその人を踏みしめて、踏み越えて、優越感を満たして、そしてなお一方的に愛されたいと思っていた。
勿論、そんな傲慢な願いは叶わない。
世の中はそんなに都合よくできていないし、第一彼はそんなヤワな男ではない。
けれど、最も重要な最後の願いだけは、そうと知らないうちに叶えられている。
ずっと嫌いで、おそらくこれからもずっと嫌いだろうが、それでも多分、彼は自分の大切な人。
そして自分もまた、彼の大切な人間なのだ。
―――― それだけ分かればいい。もう、こいつは怖くない。
優人は静かに自嘲し、怪訝な表情で自分を見つめるナルに告げた。
「3日早い誕生日プレゼントを届けに来たんだ」
すっかり忘れていたのだろう、僅かに目を見開いたナルに、優人は出来る限り優雅かつ蠱惑的に微笑んだ。
「 今日、僕は17歳になった 」
ナルはぴくりとも表情を動かさず、返事もしなかった。
そのことに優人は首を右に傾げ、浮かべた笑みを取り去った。
「16歳になっても、この顔をしたあんたの家族は死なない。あんたの下らない思い込みが作った、下らない心配事はなくなった。僕が17歳になることで、あんたは一つ自由になった。いい誕生日プレゼントだろう?」
嫌味ったらしい優人の物言いにナルは僅かに眉を顰めたが、それからややあって両肘をデスクに突き、両手を絡ませ、その上に顎を乗せた。
「・・・・・そう言えば、そうだったな」
「どうせ息子の誕生日なんて忘れていたんだろうけどさ」
悪態をつく優人にナルは硬質の眼差しを僅かに緩めた。
「特に、お前とあいつを重ねたつもりはないんだがな」
「それでも意識していたんだろう。晴人がそう言ってる」
「・・・・・・麻衣にも言われた」
「それじゃ、そういうことだったんだよ」
そう言い捨て、優人がデスクを挟んだソファに腰を下ろすと、ナルは嫌そうに顔を顰めつつも自身の椅子に凭れ掛かった。
リクライニングが傾ぎ、ギシリと、きしむ音がした。
そうして沈み込むように椅子に腰を落ち着けたまま、ナルはふっと声を発した。
「16歳でお前と僕にそっくりな双子の兄が死んだ」
「ああ」
「あれは中々ショッキングな出来事で、あの直後、僕は兄に裏切られたと思った」
蘇る、決して古くない記憶に優人は沈黙した。
その沈黙をもて遊ぶように、ナルはゆったりと天井を仰ぎ見、ため息をついた。
「そして、どうして自分だけが生き残っているのかと不思議に思った」
「は?」
品の良くない反応に、ナルは瞼を閉じ、肩を竦めた。
「どうせリンやまどかから聞き出しているんだろう?」
「・・・・」
「僕と兄は少し特殊な兄弟だった」
「・・・・・・みたいだな」
優人の含みある返答にナルは酷薄に微笑み、閉じた瞼の上を長い指で押さえつけた。
「性格こそ異なったが、お互いの意識はテレパシーで極めて密接に繋がっていて、精神のテリトリーの境界はとても曖昧だった。だから、どちらかが万が一死ぬようなことがあれば、その影響を受けてもう片方も死ぬんだと・・・・・そうだな、少なくとも僕達本人はどこかでそう信じ込んでいた。だから自分だけが生き残ったのが不思議で仕方がなかった」
不穏なナルの言い分に優人は眉間に皺を寄せた。
「まるで生き残りたくなかったみたいだな」
優人の険しい追求に、ナルは冷ややかな微笑みを絶やさず首を横に振った。
「意味が分からなかっただけだ。やりたいこともあったから、別に死にたかったわけじゃない」
「大方研究途中の論文とかだろ?」
「当然だ」
ナルはごくあっさりと頷き、肘掛に肘を乗せ、その先の指で傾げた頭を支えた。
「だが、生き残った理由がこういう未来のためだったとしたら、それも悪くないと思えるな」
「え?」
ナルはそう言うと、細く目を開け、端整な顔にこれもまた極めて魅惑的な笑みを浮かべると、真っ直ぐに優人を見据えて言った。
「 誕生日おめでとう、優人。 最上のギフトだ 」
あまりに意外な素直過ぎるナルの返答に、優人は自分で仕掛けたトラップであったにも関わらず、つい言葉に詰まって頬を赤くした。
まるでウブな子供のような優人の反応に、ナルは僅かに目を見開いたが、すぐに浮かべていた笑みを意地の悪い冷笑にすり替え、それと気づいた優人が激怒して部屋を出て行くまで静かに笑い続けた。
愛しく、大切なあなた
誕生日おめでとう
あなたが生まれて良かった
あなたに出会えて良かった
その幸運に
この偶然に
今日は心からの感謝を捧げよう
そうして祈ろう
限りある命がつきるまで
ともに幸せであるように
この空の下で、きっときっと幸せになろう
それがこの世に生まれ、生き残った意味と信じたいから
END
Thank you very much for a long time .
Since 2007/01/23 → Last up date 2007/03/20 written by ako (C)不機嫌な悪魔 あとがき