翌週はいなかったが、その次の週は土曜の朝からいた。
来る時はずっと通いつめ、来なくなるとぱたりと来なくなる。
じいさんは野生のうさぎの生態を説明するように、マイについてそう言った。
その口調は特に疑問にも思わず、警戒もしないもので、その日和見な態度は僕の神経をささくれ立たせた。
これだから年よりは暢気でいけない。
子どもだろうが女だろうが老人だろうが、危ない奴はごまんといる。
一緒に夕飯を食べながらそう諭すと、じいさんはむっつりと黙り込み、ろくすっぽ何も食べずに2階の自室に引っ込んでしまった。
なぜにマイに対してだけはこんなにも敷居が低いのか。
妙な勘ぐりをしそうになって、僕は慌てて首を振った。
どうかしている。
じいさんに限ってそんなことはない。
分かってはいるのだけれど、この状況が説明がつかない。それが気持ち悪くて仕方がない。それなのに肝心のマイはじいさんの見識のほうが正しいように、実にあっけらかんとじいさんが言うとおりの行動をしていた。
こちらが指示すれば無心になって手伝いをして、よくやったと褒めれば千切れんばかりにしっぽを振る犬のようによく笑う。
その日も昼時になるとマイははたと空腹に気が付いたように動きを止め、そのままぴゅっと姿を消した。
「そろそろ昼にしよう」
動物や空模様が時を告げたかのように、じいさんはマイが姿を消したコトに気が付くとのんびりとそう言った。
じいさんは元々小食だったが、3年前に病気をしてからますます食べなくなった。最初の頃は週末に来るたび食材を買い込んできたが、一週間でほとんど減らないので、いつしか週末2人で食べる分しか持ってこなくなった。それでも全く不都合はない。
自宅で取れる野菜、近所で焼いているパン、それからウィスキーがあればいいらしい。
その時もデリで買ってきたカルパッチョをほんの少し口に入れただけで、たった一杯のスープも飲み残してじいさんはさっさと席を立った。
年よりは食が細くなるというからそんなものかもしれない。と、毎度徒労に終わる食事の支度に言い訳をして、僕は食器を片づけると2階に上がった。
小さなじいさんの家の2階には部屋が2つしかない。
かつては父さんたち兄妹が使った子ども部屋だったその2室を、今はじいさんの個室、そして週末僕が泊まる部屋に当てている。
普段は夜寝る時しか上がらないが、その週は仕事が立て込んでいてろくすっぽ休んでいなかったのでとにかく眠かった。以前ならこの程度の仕事は大したことではなかった。もっとハードな仕事でもこなせたはずだが、いかんせん年なんだろう。
特にノルマがあるわけでなし、やっきになって庭に出ることもないと、僕は年代物の固いベッドに横になり、うとうととまどろんだかと思ううちにすぐに眠りについた。
どのぐらい眠ったのだろう。
気持ちのいい午睡を覚ましたのは、消して小さくない階下の物音だった。
何度も食器棚が開けては閉められ、立て付けの悪い棚の扉を無理に引っ張るような音がした。防音なんてろくすっぽない家屋では物音は筒抜けだ。
じいさんがキッチンで何かを探しているのだろう。
僕はため息と共に起きあがり、のろのろと階段を降りた。
そうしてそこで予想外の姿を目にした。
キッチンのありとあらゆる扉を開け閉めして、家捜ししていたのはマイだった。
それを目にした瞬間、かっと頭に血が上った。 「何をしてるんだ!?」 僕の怒声に小さな肩が大仰にびくりと震えた。 やはり怪しかったのだという思いは、自分でも驚くほどの猛烈な怒りになった。 駆けるように近付き、乱暴に肩を掴んだ。 マイの手元から勢いよく缶が床に落ち、僕の足が当たってゴロゴロと転がっていった。マイは咄嗟にそれを追いかけようとしたが僕の両手がそれを阻止した。 「生憎だけどな、ここには金目のものなんて何にもないよ。そりゃ庭だけは広くて立派だよ。けどそれだけだ!分かったんならさっさと出て行け!!もう二度と近付くな!!」 マイはブンブンと首を横に振った。 ここまでしてもまともに口をきこうとしないことに、怒りのボルテージが上がった。 本当にどこまでも甘く見られたものだ。 騒ぎを聞きつけたのか、ただの偶然か、その時戸口にじいさんが現れた。 僕は鬼の首を取ったような気分で、声高にじいさんに説明した。 「じいさん!やっぱりコイツはこそ泥だったよ!誰もいないと思って家捜ししてやがった!」 だから気を付けろと言ったんだ。 そのまま純粋な人間なんていない。
みんながみんなじいさんのように裏表がないわけじゃないんだ。
じいさんは僕の声が聞こえているのかいないのか、ゆっくりとキッチンに入ってきた。
そしてテーブル下に転がった缶を見下ろし、一言呟いた。
「随分いい茶葉だな」
「は?」
こんな時に何を、と、続ける隙を許さず、じいさんは続けた。
「こんないい茶葉がうちにあるわけない。マイ、お前が持ってきたのか?」
ぐるりと首を回すと、マイは必死にこくこくと頷き、ジェスチャーでお茶を飲む真似をして、それから僕を指さした。
そこで初めて顔を真正面から見た。
栗色の髪の下、どこかもどかしいように子どもっぽさが残る薄い顔。
大人なはずなのに子どものようなその中で、一番印象的な鳶色の瞳は涙でうるんでいた。
「お前さん随分疲れた顔色をしていたからな。こいつなりに心配したんだろう」
そんなじいさんの小言を聞きながら、ケトルとポットを出すと、マイは嬉しそうに湯を沸かして手慣れた手つきで紅茶を煎れた。
マイが煎れた紅茶は予想外にとても美味かった。
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