午後一時。
初めに崎谷が連れてきたのは、5階住人の親子だった。
40代半ばの母親に、中学生2年生の女の子。
家族は他に父親と小学5年生の弟がいるとのことだったが、ベースには騒動に巻き込まれた二人が顔を出した。
親子は先にリビングに並べられた機材に驚き、ついで脇に佇む美貌の男に息をのみ、最後にテーブルを挟んで、
メモを取る麻衣を眺め、緊張した面持ちで挨拶をした。
「佐藤と申します。今日は娘のヤイコのことで伺いました」
「せっかくの日曜日にすみません」
緊張を和らげようと麻衣が微笑むと、親子は顔を見合わせ、おずおずと頭を下げた。
「どういったことがあったのでしょうか?どこからでも結構です。ちょっとでもおかしいな。って思われたことがあれば
教えてください」
麻衣の質問に中学生、佐藤ヤイコは縋るように母親を見上げたが、母親が背を押し、ぽそぽそと話始めた。
「あの・・・私は、女の人の幽霊が見えるんです」
「女の人?」
「はい。たしか・・・2月くらいからだったと思います。バレンタインがあったから、そのくらいから、家に帰ろうとすると、
どこからか見られているような気がして、それから夜寝てると女の人が出てくるようになったんです。髪は短くて、
細くて、何か気持ち悪い人」
「若い人かな?」
「・・・そんなにでもない。ううん、よく分かんない」
佐藤ヤイコはそれだけ言うと、首を傾げ、しばし躊躇ってから口を開いた。
「しばらくはそれだけだったんですけど・・・終業式が近くなった頃、あの、同じ階の司くんが自殺未遂してから、何と
なく近所の同じ中学の子と話すことが多くなってて、それで、私、皆に最近女の人見るって相談したんですね。そし
たら7階の秋保ちゃんとか、9階の江川君も見るって言ってて、ちょっとおかしいなって思ってたんです」
「みんなって言うのは?」
「同世代が多いんです。このマンション。それで、同じ中学に通っている子どもが6人だっけ?いるのよね」
母親の説明に、娘は頷き、指折り数えた。
「私と、飛び降り自殺した司君、7階の秋保ちゃん、9階の江川君、16階の南ちゃん、あとは17階の人見君」
「皆その女の人見てたの?」
「ううん、司君はわかんないけど、秋保ちゃんと江川君と私だけ」
「同じ女の人かなぁ?皆夜寝ている時見てたのかな?」
「同じかもしれないし、ちょっと違うかも・・・・みんなぼんやりしててよく分かんないって言ってたから、私もはっきりと
はわかんないし。ただ、女の人が出る時は皆寝てる時だったよ。でも幽霊ってそうでしょう?夜出るもんじゃないで
すか。だから・・・私、昼間見て、びっくりしたんです」
「昼間に見たの?」
「うん。春休み入って、塾から帰ってきたら、5階の非常階段の所にいたの」
佐藤ヤイコは顔を青ざめ、横の母親の袖をぎゅっと掴んだ。
「階段の影にいて、私、あの人だってすぐわかって、逃げたの。でも後ろから追いかけてきて、あっという間に端っ
こについちゃって、逃げ場がなくなっちゃって」
そこで彼女は思い余り、塀を乗り越えて飛び降りたのだ。
「自分でも、あんな高い塀飛び越えて、何も下に飛び降りなくてもいいとは後から思ったんだけど、あの時はもう
怖くて怖くて、逃げられるならどこでもいいって思っちゃったの」
幸いにも、すぐ下は駐輪場になっていて、彼女はうまい具合にバウンドし、地面へ直接落ちることなく、全身打撲
で全治一ヶ月の重傷は負ったが、命に別状はなかった。彼女は僅かに残った腕の打撲跡を麻衣に見せ、すごか
った。と、僅かに微笑んだ。
「もう、生きた心地がしなかったわ。しかも聞いたら幽霊に追いかけられたなんて言うし・・」
「だって本当だったんだもん!」
母親のため息に娘は明らかにむっとしながら文句をつけた。
「怖いねぇ。実際に昼間追いかけられたって、飛んできたの?歩いてきたの?」
「え?」
「その幽霊?」
「ああ・・・そう言えば、どうだろう?怖くて振り返れなかったから・・・・でも、ほら、気配ってあるでしょう?あれが迫って
きてたのよ」
「その女の幽霊は今もいる?」
話しているうちにテンションの上がってきたヤイコは、麻衣の気安い質問に軽く首をふった。
「ううん、あれからもう見ない」
「え?」
「入院している最中も、退院してからももう見ないんだ」
「そうなの」
「私は怪我したから、ターゲットから外れたんじゃないかな」
そして彼女は気になる言葉を呟いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ついでやってきたのは、飛び降り3人目の被害者、最初の中学生とは同級生の9階に住む「江川君」で、彼は父
親と三つ年上の姉と一緒にベースを訪れた。
「俺がその幽霊を見始めたのは・・・2月とか3月だったと思う。まだ雪降ったりしてたから。寝てると女が出てきて、
胸の辺りを押すんだ。息苦しくて起きようとするんだけど、金縛りになってて動けない。大体そんな感じ」
「それは毎晩?」
「毎晩の時もあるし、しばらく見ない時もある。で、5階のヤイコに同じ様な夢を見てるって言われて、仲間内ではさ、
ここに女の霊がいるんじゃないのってなったんだよね。ホラ、地縛霊ってやつ。」
まるで学校の怪談を話すように、江川は得意になってべらべらと喋った。
「そしたらヤイコのヤツが昼間なのに幽霊に追いかけられて、飛び降りて逃げたって聞いて、もしかしたら自殺未遂
って言ってた司先輩も同じ目にあってたんじゃねぇの?って話をしてたんだ。司先輩がどうかは、聞いたことないから
結局よくわかんないけどさ。でも、俺達も怖いじゃん。事実幽霊見てるわけだし。だからお寺とか行ってお守りとか買
ってきたんだけど、全然効果なし。幽霊は出るし、同じように幽霊見てた、7階の秋保さんまでとうとう昼間幽霊見て、
逃げる弾みで飛び降りたんだ。確か、あれは5月の・・・・12日くらいじゃなかったかな?」
麻衣はそこで一旦会話を区切り、横目でちらちらとナルを覗っていた姉の方に話をふった。
「ご家族の方は、同じように霊を見たり、その気配を感じたことはありますか?」
突然話し掛けられた姉と父親は互いに顔を見合わせ、それから互いに首を横にふった。
「見ませんね。だいたいうちの家系って霊感とかないんです。弟だって、この騒ぎの前までは幽霊なんて一度もみた
ことなかったはずですもん。だから、最初こいつが幽霊がいるって言いだした時は何の冗談なんだろうって思ってま
した。何か映画とかの影響受けてんじゃないかって」
「本当だったろうが!」
「まぁ・・・ねぇ」
「そうですか。では、江川君。君はいつも夜に霊を見るんだよね。どこで、何時くらいかとか、大体わかるかな?」
麻衣の質問に、江川は初めて困ったように眉根を寄せた。
「いつもは寝てる時だから・・・時間とかはちょっとわかんない。場所は自分の部屋のベッド。その・・・俺も逃げて飛び
降りたあの時以外は・・・・」
「江川君も昼間にその霊を見たんだね」
「あ、はい」
「それはどこで?」
「家からエレベーターに乗ろうと思って、廊下歩いている時、エレベーター奥にいたんだ」
「それはその時が初めて?それとも何回も見たの?」
「初めてだよ!だから、俺、あ、『 とうとう俺にも来た 』って思ったんだ」
「『 とうとう来た? 』」
鸚鵡返しに繰り返す麻衣に、江川君は僅かに緊張した顔をして頷き返した。
「だってそうだろ?ヤイコに来て、秋保さんに来て、あと、同じ幽霊見てたの俺だもん」
「それで、江川君も逃げて・・・・・・飛び降りたの?家の前だったら9階だよね?!」
「いや、俺も最初は逃げようと思って、非常階段に行ったんだ。俺、サッカーやってるし、足には自信あったしね。そし
てどんどん降りていったんだけど、幽霊もどんどんついてきて、追いつかれそうになったんだ。いや、別に見たわけじゃ
ないけど、そんな気迫がしてさ。そのうち、そうだ、飛び降りれば逃げられるんだって思い出して、最終的には4階だっ
たけど、そこから飛び降りたんだ」
「飛び降りれば?どうしてそう思ったの?」
麻衣の疑問に、江川はぽかんと間をあけたが、すぐに苦笑した。
「だって、ヤイコも秋保さんも飛び降りて怪我してからは、その幽霊出なくなったって言ってたからさ。飛び降りて、怪
我すればその幽霊も見逃してくれるんだって思ったんだ。それに実際、飛び降りたら、まぁ怪我して動けなかったこと
もあるけど、幽霊はいなくなったし、それから見ることもなくなったからね。それでターゲットが外れたんだと思う」
おしゃべりな江川君の体験談は、姉から高校生や大人たちに、そして江川君本人から中学生以下の子どもたちに
瞬く間に広がり、以降、ヒアリングに来た飛び降り事故を起した子ども達の全員が、同じようなことを言った。
『 女の幽霊が夜出始めたら注意 』
『 昼間見たら追いかけられる 』
『 飛び降りたら逃げられる 』
『 怪我をしたらターゲットから外れる 』
そして、小学生以下の子ども達は当然のように、飛び降りても死なない程度に安全な場所を自分達で探し、運良く
その場に居合わせた6番目の被害者は、思惑通りその場に落ちて、大きな怪我なく、幽霊のターゲットから外れた
と麻衣に自慢した。
「だって、ちゃんと警戒してないと憑り殺されちゃうでしょう」
6番目の被害者、3階住民の小学4年生の男の子は、ひどく大人びた口調で説明した。
「始めは、中学生の人たちが言ってた女の人ってのが多かったけど、それだけが幽霊じゃない。でっかい犬みたい
なのに追っかけられたって言う人もいるし、男の人とかおじいちゃんとか、子どもを見たって人もいる。だからちゃん
と情報収集して、撃退方法覚えておかないと危ないじゃない」
とうとうと説明する息子を見て、同行してきた両親は複雑そうな表情を浮かべ、薄く笑った。
「でっかい犬とか、男の人、子どもの幽霊を見たのは、誰でどこで見たのかはわかる?」
麻衣がしんぼう強く尋ねると、小学4年生の男の子は、つまらなそうに顔をしかめた。
「そんなのまでわかんないけどさ」
◆◇◆◇◆◇◆◇
「食器が飛んできたというのは、具体的にどのような状態だったのでしょうか?」
麻衣の質問に、母親と共にベースを訪れた10階住人の女子高生、三上ゆりはびくりと顔を強張らせた。
そしてそのまま黙り込む少女に、隣に座った母親が忙しなく貧乏ゆすりをしながら矢継ぎ早に説明した。
「言葉通りです。突然、リビングのサイドボードから食器が飛び出してきたんですよ」
「それは・・・いつ頃のことですか?」
「ええっとね。多分4月の中ごろと、GW、GW明けの週末と、あと、6月に入ってから1回ありました」
「全部で4回あったんですね」
「ええ、そうです。4回ありました。4回ですよ?もう、家中の食器が割れて散々です」
「家中というと、一回の現象でたくさんの食器が出てきたってことでしょうか?」
「そうです。カップとかお皿とか、結構な枚数が出てきましたよ。だから今、リビングのサイドボードは空っぽです。
キッチンの棚においていたものも結構割れてましたからね」
「具体的にはどのくらいでしょう」
「さぁ・・・数は数えてませんが、1回でこのくらいの紙袋いっぱい分くらいはやられました」
母親はそういうと、スイカ一つ分くらいの大きな円を描き、眉間に皺を寄せた。
「お母さまはその現場にいらっしゃったんですか?」
「3回目には、自宅にいました。洗濯をしていて、ベランダに出ようとしたら突然、リビングのサイドボードの扉が開い
て食器が飛び出してきたんです。もう私恐ろしくて恐ろしくて・・・・主人もおりませんでしたし、あとはこの子しかいな
いんですもの。もうどうしていいか分からなくて、お隣の奥さんの所に逃げこんで、助けてもらったんです」
「具体的には、どのように食器が飛んだのでしょう?横ですか、それともただ落ちるように出てきたんでしょうか?」
「ぶんと、まるで投げているみたいにだったと思います。サイドボードは、ここでは、あの壁の場所にあるんですけど
食器は反対側の和室の壁にぶつかって割れましたからね。多分前の2回も同じよね?同じように食器が割れてま
したから。畳に破片が散らばって、本当に危なかったんですよ。丁寧に掃除しましたけどね。それなのにここ半年で
4回も続いて・・・もう、私は気味が悪いから引越ししたいと思ってますけど、ここは買ってしまってますからねぇ、まぁ
便利はいいし、気に入っていますけど、でもだからって、こんな騒ぎのある場所では安心して暮らせないじゃないで
すか?!ねぇ、おたくはそういうの解決してくれるんでしょう?さっさとお祓いでもしてなくして下さいよ。それでなく
ても心労で私3キロ痩せたんです。夜もよく眠れないし」
「努力させて頂きます」
「努力じゃだめよ。早く結果を出して」
せっつく母親に麻衣は柔らかく微笑み返し、さらに質問を重ねた。
「その食器が飛び出してきた時、お母様以外にご自宅にはどなたかいらっしゃいましたか?」
「え?ええ・・・ゆり、あんたはいつもいたわよね。4回目の時は主人がおりましたわ」
「ゆりさんは、4回とも自宅でそれを見たんですよね?どういった状態だったのか、教えていただけますか?」
麻衣はその脇で小さくなっている娘に声をかけた。しかし、隣の母親はそれすら早口で制した。
「ああ、この子はすごいぼんやりしているんですよ。聞いても無駄ですから、構わないでやって下さい。前に食器が
飛んできた時も、そのまま部屋でうずくまってたんですから。逃げるなり、何なりしないなんて、高校生にもなって本
当に赤ちゃんみたいなんだから。最初はこの子が割ったのかと思ったくらいですよ。こんな不気味なことが起きてい
るならちゃんと言えばいいのに、本当は食器が飛んできたなんて、後から言われても信じられないじゃないですか」
「というと・・・」
「2回も続くから、何があたって私が怒って初めて言ったんですよ。そしたらすぐ私もその状態を見て、納得できたん
ですけど、もうそれまでは、この子がいたずらして割ったんだと思ってましたから。本当にしゃべらないんです。この
子。本当に頼りないんだから。もっとしっかりしないと大人になって困るのは、あんた自身なのよ?わかってる?」
まるで責め立てるような母親に、娘は細い体をさらに細くし、息を詰めた。
見かねた麻衣はまた別な話題を母親にふった。
「ご家族は、ご両親とゆりさんの3人家族ですね」
「ええ、ゆりの上にもう一人娘がいますけど、あちらは結婚して今、アメリカにいますから」
今一人の子どもの話になると途端に満面の笑みを浮かべ、声のトーンを一段明るくするる母親に、麻衣は反射的に
反感を持ったが、顔には出さず頷いた。
「ありがとうございます。症状がご自宅の中ということでしたので、差し支えなければお部屋の方にカメラを置かせ
ていただきたいのですが、いかがでしょうか?」
「え?カメラ?」
「ええ、もしまたそのような現象が発生した場合ですね・・・」
しかし今度はカメラの設置に強い拒絶反応を起し、母親は大声で喚きたてた。
「いやよそんなの!プライバシーの侵害じゃない!冗談じゃないわ。そんなことできません!!!」
麻衣はちらりと、窓辺の席で黙々と資料を読むナルに視線を這わせたが、ナルは我関せずと視線を落としたまま
だった。このヒアリングを聞いていないわけはないので、それはカメラ設置を断念しても構わないことだろう麻衣は
解釈し、喚き散らす母親をなだめた。
「あ、あの、お嫌でしたら勿論無理にとは申しませんので」
「当たり前じゃない!」
「わかりました」
「まったく、そんな常識はずれなこと言い出すなんて、信じられないわ」
でも、廊下とかには結局カメラを設置するんだけどね。と、麻衣は内心で舌を出しながらにっこりと愛想良く笑った。
「では、またお話をお聞きするかもしれませんが、その時は宜しくお願いいたします」