気が付けば、見慣れない部屋の中だった。
麻衣は不自然な動悸を抱えたまま、覚えのない布団の感触に鳥肌を立てた。
カラカラに乾いた口を開けたまま、恐る恐る周囲を伺う。
すると、横にはまっすぐ伸びた黒髪の少女が眠る姿、手前には見慣れた自分の旅行鞄が見え、麻衣はほどなくし
てそこが調査現場の4畳半の仮眠室であることを思い出した。
汗ばんだ掌で自分の体に触ると、ひんやりと冷えた腕、その先に寝る前に着込んだパジャマが乱れもなくあること
が確認でき、麻衣はようやく震えるように息をついた。
―――夢・・・だよ。
そう思うことで、ほっと温かいものが胸の中に落ちた。
けれどその内容に、気分は瞬く間に真っ黒に塗りつぶされ、麻衣は溜まらず両手で顔を覆った。
―――霊障?・・・・それとも、誰かの記憶?
麻衣は冷静さを取り戻そうと必死に脳みそを動かしたが、その一方で冷静な頭がこれは本当にただの夢だと告げて
いた。それほどに夢の内容はあまりにもプライベート過ぎた。そう思う端から麻衣は羞恥で顔を真っ赤に染めて、布
団の中で身悶えた。
―――あああああ、もう、私ったら、なんつー夢みてんの?しかもリンさんだなんて、失礼にもほどがあるよ!!!
笑い飛ばしたくて、麻衣は苦労して口の端を上げた。けれどそれは脆く崩れた。
―――夢だ。夢だから。ただの夢だから。
そう思っても、その記憶は未だ鮮明で、まだ、体にその時の感触が残っている。
その不快な恐怖体験はざわざわと体を覆い、麻衣はこみ上げてくる悲鳴を何とかやり過ごすので、精一杯になった。
麻衣は必至に過去に体験した怖かった夢、残虐だった夢を思い出し、見たばかりの夢を大したことなかったことにし
ようと思い込もうとした。しかしせり上がってくる嫌悪感と異物感に、麻衣の涙腺はみるみるうちに緩んだ。
認めてしまえば簡単だった。
とにかく、本当に怖かったのだ。
首を切られる。鉈で切られて殺される。
身を切られるほどリアルな怖い夢はくさるほどみたけれど、それとはまた別の意味で今日の夢は怖かったのだ。
「麻衣?」
その時、麻衣の異変に気がついた真砂子が暗闇の中で声をかけた。
「どうされましたの?」
静かな衣擦れの音とともに、隣の布団から真砂子が起き上がる気配がした。そして、やわらかな掌が薄いタオル
ケット越しに当てられ、麻衣はたまらず起き上がった。
「麻衣?」
布団に上半身を起こして心配そうに自分を見る親友に、麻衣は夢の内容を語ってしまいたい欲求にかられた。
けれどその内容は口にするにはあまりにあんまりな内容で、麻衣は説明することをためらった。
――― ただの夢だもん。恥ずかし過ぎて言えないよぉ。
麻衣はぎこちなくテレ笑いを浮かべ、首を振った。
「大丈夫。ごめんね、普通に変な夢見ちゃってびっくりしただけ」
「・・・・夢?」
暗闇でも息を潜める気配がわかり、麻衣はあわてて手を振った。
「本当に普通の下らない夢。いつもの調査中の夢とかとは違うよ。ジーン出てこなかったし」
「そうですの?」
「うん。ごめんね、真砂子。明日早いのに起こしちゃったね」
「そんなことはいいですわ。本当に大丈夫ですの?」
真砂子の問いに、麻衣は辛うじて笑い声をたてた。
「うん。ほんと、大丈夫」
真砂子はそれ以上追求することもないかと思案しながら、何気なくそこで白く小さな手を麻衣の掌に乗せた。
そして、眉根を寄せた。
麻衣の手は、誤魔化しようのないほど震えていた。
翌朝。
真砂子は麻衣に夢みたことをナルに話すように再三説得したが、麻衣は覚えていないと言い張り、本当にまた夢を
みたら絶対話すから!と真砂子に無理やり指きりをし、早くしないと仕事に遅れるでしょう?と、まるで追い出すかの
ように真砂子を仮眠室から出した。
確かに、時刻はそろそろリミットに近付いていた。
「それじゃぁ、原さん送ってきますね」
そして、マネージャー宜しく満面の笑みの安原に押されるようにして、真砂子はベースを出た。
外に出ると一段暗く見えるベースの廊下からは、麻衣と滝川がひらひらと手を振っていた。
自分がいなくても大丈夫なような気がする調査だ。
どれだけ目を凝らしても害意ある霊など見えなかった。
けれど・・・真砂子は言い知れぬ胸騒ぎに、どうしても後ろ髪引かれる思いを断ち切れないでいた。
「どうされましたか?」
俯く真砂子の顔を覗き込み、安原が声をかけた時、ちょうど階下よりエレベーターが上昇し、9階で停止した中からは
黒衣の美人、ナルが出てきた。
「あ、所長」
「ナル!」
真砂子はナルの姿を認めると、たまらず声を上げた。
縋るような真砂子の声に、ナルは無表情で答えたが、それでも構わなかった。
「麻衣の様子がおかしいですわ」
彼の注意を引くには、これだけで十分だ。
案の定、無表情だった彼の柳眉がぴくりと僅かに動いた。
真砂子はそれを確認すると、狭いエレベータ前の廊下で手短に用件を伝えた。
「本人は忘れたと言っておりますが、昨日何かの夢をみたようですの。起きた直後は覚えていたようですから、しきり
に内容を聞いたんですが、調査とは関係ないって言い張って、わたくしにも内容を教えてはくれませんでしたわ」
早口で説明する真砂子を一瞥し、ナルは息を吐いた。
伸ばせない手の代わりに、真砂子は両眼に力を込めてナルを見上げた。
「昨夜、起きた直後はすっかり怯えているようでしたの。かわいそうなくらい震えていて…麻衣はあの時だけ夢を見た
と、言いましたけれど、朝方もうなされているようでしたの。今無理強いしても何も言えないのかもしれませんけれど」
真砂子はちらりともと来た廊下を見遣り、眉根を寄せた。
「ナル、麻衣から目を離さないで下さい」
何だか、とてもひっかかりますの。
唐突な真砂子の訴えに、ナルは最後まで表情を浮かべることなく、頷いた。
「おとといまで、こんなことはありませんでしたのよ」
安原が運転する車の助手席で、真砂子はぼんやりとしながら口を開いた。
「昨日突然ですか?」
「ええ」
「いつもの第六感の夢ですかね」
「そうかもしれませんし、麻衣が言うように本当に違うのかもしれません」
「まぁ・・・それがわかるのは谷山さん本人だけですけどね」
でも、と真砂子は言葉を切り、運転席の安原を見つめた。
「判断するのはナルですわ」
視線を感じて、安原が真砂子を見遣ると、真砂子は人形のような顔に困惑の表情をのせていた。
「本当に夢の内容を忘れていたなら、麻衣はもう少しあっけらかんとしているの」
敬語を取り払った二人だけの口調に、安原は真砂子の本心を見つけ頷いた。
「何故、あんなにも頑なに言いたがらないのか・・・それがひっかかりますの」
特に関連のなさそうな夢でも、見たものは全部話すようにと、麻衣は何度も言われている。
そして、最近の調査では少しはその意識を持って、例え関係のない夢でも麻衣は細かに報告するようになっていた。
それなのに、今日はまるで隠すように夢のことを口にしない。それが不自然でならない。
「安原さん」
「はい、心得ております」
不安げな真砂子に、安原はにっこりと出来る限り最大限の笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ。谷山さんの側には所長がいます。それに及ばずながら、安原もフォローさせていただきますから」
「・・・・・はい」
「だから、真砂子さんこそ、他のことに気を取られて、ご自分のことを疎かにしないで下さいね」
安原の答えに、真砂子は困ったように眉を寄せた。
意味が通じなかったかと、安原は苦笑し、信号で止まったのをいいことに、真砂子の耳元に口を寄せて忠告した。
「大切な人を心配するのは、何も真砂子さんだけじゃありませんからね。わかりますか?お姫様」
側にいないことは不安ですよねぇ。
安原の突然の行動に真砂子は頬を赤らめたが、すぐにゆっくりと微笑んだ。
「心得ましたわ」
「それは良かった」
安原はにっこりと微笑み返し、アクセルを踏んだ。