足音が聞こえると訴える伊藤明仁を前にして、滝川は麻衣を伴い、伊藤明仁の自室を清め、護符を貼り付けた。
「麻衣。これでどうだ?」
部屋の四隅に護符を貼り付け、滝川が振り向くと、どこかぼんやりしていた麻衣はあわててその方向を向き、
頷いた。
「うん、大丈夫。曲がってないよ」
「違うって、何かいないかって聞いてんの!」
「ふへ?」
「ふへじゃなくてさぁ・・・第六感の女でしょう」
脱力した滝川に訂正され、麻衣は周囲を覗い、首を傾げた。
「ここには本当に何もいないように見えるんだけど・・・」
麻衣の感想に滝川は頷き、どこか無気力な伊藤明仁に向き直った。
「この間来た美人な嬢ちゃんのこと覚えてるか?」
「ああ・・・原真砂子だろ?知ってる。どっかで見たことあるなぁって思ってた」
「そう、あの原真砂子。あの子は珍しくちゃんと幽霊が見えるタレントなんだ。んで、その原真砂子も見えない種類
のものでも、直接害があるものはよく見えるのが、こっちのお姉さん。そのどちらもこの部屋と屋上には霊がいない
って言ってる」
「そう・・・」
「仮に夜また現れたにしても、ここは護符で守りを固めたから、音がしてももうそいつらはお前さんに手出しできない
はずだ。今の所お前さんの部屋する足音ってのはマイクが拾わない。だから今晩また音が聞こえたりしたら、あの
カメラに向かって何か合図してくれ。俺らの誰かが来て、その音を確認するから」
滝川が説明すると、伊藤明仁は胡散臭そうに滝川が貼り付けた護符を眺めて言った。
「効き目あんの?コレ」
ひくり、と、頬が上がる滝川に、麻衣が慌ててフォローを入れた。
「密教の強い護符だから大丈夫だよ。ぼーさんが書いたばっかりだしね」
「書いたばっかりだといいのかよ」
「うん。やっぱり御札でも時間の経過と共にその効力は失われていくから」
「へぇ」
「少なくとも、今まで私達はこの護符で強くて害意のある霊にも守られていたから、大丈夫だと思うよ」
どうかねぇと唸る伊藤明仁に、麻衣は安原を真似た笑顔を向けた。
「大丈夫。本当に辛い時は守られているって感じられるくらい、ぼーさんの護符は強いから。私廃屋に閉じ込められ
たことあるんだけど、その時は暗闇の中で光って見えてとっても心強かったよ。少し信じてみて?それだけで随分
安心できるから」
麻衣の説明に伊藤明仁は納得したのかしないのか、微妙な表情を浮かべたままそれでも一応頷き、滝川に頭を
下げた。
伊藤明仁の家を出ると、滝川はがばりと麻衣を抱きしめた。
「ムスメ!お父さん嬉しい!!そんなに父さんのこと信頼してくれてたのね!!!」
しかして、愛しの愛娘は滝川の両手を振り払って悲鳴を上げた。
「ぎゃぁぁぁぁぁあ、ぼーさん離してよ!何すんの!?」
「照れるなよぉぉ。父さん嬉しかったの!」
「照れてない!暑い!ヤダ!離して!!!!」
「さすが俺の娘だね。言うことが違う。もう、大好き!」
抵抗する麻衣に滝川が満面の笑顔で頬擦りした瞬間だった。
「イヤァ!!!!」
突然上げられた鋭い悲鳴に、それまで笑顔だった滝川があっけに取られて手を離した。
その隙に麻衣は滝川の両手を思い切り払って、その場から逃げ出した。
「お、おい。麻衣!」
反射的に麻衣は滝川から逃げるように距離をおいたが、後ろからかけられたあまりに情けない声に呼び止められ、
麻衣はやや躊躇いつつもその歩みを止めた。
振り返れば弱りきった滝川が口をへの字に曲げていた。
それを見て、麻衣は何だか無性に悲しくなり、滝川に軽口をたたいた。
「ほら・・・・・・・・・・・・ぼーさん。こんなトコでセクハラでしょう?」
麻衣の答えに、滝川はばつが悪そうに小さく頷いた。
「あ、ああ。悪りぃ」
「駄目だよ。私だってお年頃なんだから」
へらり、と笑う麻衣に、滝川はぽりぽりと後ろ頭を掻きながら謝った。
「悪かったよ。ごめんなさい。父さん考えなしでした」
しょぼくれる滝川に、麻衣は笑みをもらし、それから胸を張った。
「わかればよろしい」
「はいはい、ごめんなさいよ。ほれ、行くべ」
仲直りっと、笑う滝川に麻衣は笑顔を返したものの、思い出したようにポケットからポータブル・レコーダーを取り出
した。
「あ、私、これからこのまま、ちょっと聞き込みしてくるよ」
「そうか?だったら俺も・・・」
「ぼーさんはナルに報告しなくちゃ駄目でしょう。遅れたらまたどやされるよ」
「だったら麻衣も一度ベースに戻って・・・麻衣!」
そうして、麻衣は滝川の制止を振り切って、非常階段に向かって走り去った。
麻衣はそのまま非常階段を駆け下りた。
足がもつれるのも構わず一気に10階まで駆け下り、そこで力尽きて立ち止まった。
息が上がって、心臓がトカトカと早鐘のように打つ。
ざらつくコンクリートの壁に右手をついて、麻衣はそのままずるずると座り込み、声を上げた。
「あ〜あ、ぼーさん変に思っちゃったよねぇ」
冗談にしようと、声にだして言ってみたが、その効果は全くなくて、座り込んでしまった足はガクガクと震えが止まら
なかった。
一晩で同じ夢を3回みた。
麻衣はその体験にぎゅっと目を瞑った。
夢の中で、麻衣は繰り返し住み慣れ始めたマンションの隣室でリンに暴行を受けた。
調査中に3度も同じ夢をみたら、通常ならば真砂子に説得されるまでもなく麻衣はナルにその夢を報告する。
調査員である限り、その義務がある。
けれど、今回の夢ばかりは中々簡単には口に出せる内容ではなかった。
せめてこれがはっきりとした過去視ならば、言い出しずらいことではあってもそれが誰であるとか、何を言われ
たとか、そんなことは伏せて報告すればいい。
けれど、夢の会話内容、状況は今までにないほどあまりにプライベートな内容に触れていた。
過去視であれば、例え登場人物が入れ替わっていても、それ相応の会話なり、シチュエーションなはずだ。
その経験則が麻衣を更に戸惑わせ、口を閉ざさせた。
ただの夢だとしたら、この夢は更に言い出しずらい。
単なる自分の夢だったら、無意識とは言えリンに対して失礼過ぎる。
それに、そんなことを夢にみたなんて、いやらし過ぎて、恥ずかし過ぎる。
朝はそう思って、麻衣は夢を一度だけ見たことにして、内容も忘れたことにし、最後まで心配する真砂子を笑顔
で見送った。
しかし、ベースに戻ると、夢に出てきたその人を前に平静でいられる自信がなくて、お祓いに行くという滝川につ
いてベースを出た。それで大丈夫だと思った。
なのに、いつものスキンシップで滝川が抱きついて来た時、それがいつもの優しい滝川だということは十分わかっ
ていたのに、体は恐怖で拒絶反応を起こした。
「もぅぅぅぅ、私頭おかしいのかなぁぁぁ」
ふみぃぃぃと、麻衣は情けない声を上げて空を仰いだ。俯けば涙が零れ落ちそうだった。
――― 単なる夢なのにさぁ、被害者意識も甚だしいよね。本当に嫌になる。何か私勘違いしてる。甘えてんだな。
麻衣はパシリと頬を叩き、気合を入れて立ち上がった。
それでもまっすぐベースに戻る気にはなれなくて、麻衣はそのまま10階の廊下に足を向けた。
そして、そこで10階の住人、潜在的PK保持者三上ゆりと顔をあわせた。
三上ゆりは、突然廊下に現れた麻衣に対して警戒するような険しい表情をしたが、すぐに麻衣の表情に気が付き、
怪訝そうにその顔を覗き込んだ。
「三上・・・ゆりさんですよね」
「あなた・・・9階の」
「はい。渋谷サイキックリサーチの谷山です」
明るく微笑む麻衣に、三上ゆりはしばし躊躇ったが、ガチャリと部屋の鍵を開け、今誰もいないから、と、麻衣を室
内に招いた。麻衣が躊躇うと、三上ゆりはため息をついて言った。
「だって、日射病じゃないの?酷い顔色してるわよ」
何故か挑むように強い口調で言い切る三上ゆりに、麻衣は初対面との印象の違いに戸惑いながらも促されるまま
三上ゆりの自宅に足を踏み入れた。
ベースと全く同じ間取りのその部屋は、足の踏み場もないほど物で溢れかえっていた。
三上ゆりは慣れた様子で床に落ちている衣服や雑多なものを足で払い除け、ようやく人一人が歩けるスペースを
確保するとそのままリビングに向かい、途中気が付いて振り返り、自嘲気味に忠告した。
「あ、スリッパ。その辺にあると思うから適当に履いて。ほら、床に欠けた食器が落ちてて危ないから」
モノだらけの廊下を過ぎて、リビングに行くと、そこは廊下に負けず劣らず生活雑貨のカオスになっていた。
シンクには雑然と食器がつっこまれ、部屋の中央にあるソファには雑誌や衣服が積み上げられ、床には、口をしば
ったコンビニ袋がいくつも転がっていた。
三上ゆりはソファに積み上げられていた雑多なものを無造作に払いのけ、人一人がようやく座れるスペースを確保
すると、麻衣に座るよう促し、自分は物であふれるキッチンを器用に横断して、荷物で全開に開かない冷蔵庫の扉
をこじ開け、中からペットボトルを2本取り出してリビングに戻り、使用前なのか後なのか判別もつかない衣服が積み
上げられた一角に腰をおろした。
「この間、撮影したいって言われて、母が突然キレたでしょう?あれね、単にこの部屋見られたくないからなのよ」
三上ゆりはそう言うと、麻衣にペットボトルを一本手渡した。麻衣はペットボトルを受け取りながら、ポケットに入れた
ままだったポータブル・レコーダーのスイッチをこっそり入れた。
「いつもこんな感じなの?」
麻衣が尋ねると、三上ゆりは無言で頷き、それから肩をすくめた。
「うちの家族ね。みんな片付けられない人なんだ。私の姉がいたうちはまだマシだったんだけど、姉が家出してから
はより一層収集つかなくなっちゃってさ」
「家出?結婚してアメリカにいるんじゃなかったの?」
麻衣が首を傾げると、三上ゆりはあっさりとそれを否定した。
「あ、それ嘘」
「嘘?」
「うん、うちの母、虚言癖あるんだよね。いつもいつも場当たり的に適当なこと言って、自分のプライド守ろうとしてい
るの。本当に嫌な人。それで姉も見切りをつけて家出しちゃったんだ」
麻衣は突然の話にあっけにとられたが、それからすぐに三上ゆりを真っ直ぐに見据えた。
「三上さん」
「なぁに?」
「この間と随分態度が違うけど・・・」
「ああ。私、あの母の前では猫かぶってるから」
「お母さんなのに?」
麻衣の指摘に、三上ゆりは苦笑した。
「あんな人の前で好き勝手できないよ、何されるかわかんないもん。私はただ大人しく息を潜めてるの」
「息・・・つまんない?」
「つまるよ。苦しくて、辛くて、死にそう」
そのストレスが無意識にポルターガイストを起こしたのではないだろうか。と、麻衣は頭の片隅で思いながら、重々
しく頷いた。しかし三上ゆりはそれも、もう終わりと笑い返した。
「終わり?」
「そう・・・私ね、成績だけは優秀なんだ。だから交換留学生に選抜されて、今年の9月から海外留学することにな
ったの。だから後少しの辛抱。そう思えば何も辛くないよ。終わりが見えている分、前より全然いい」
「そうなの?」
「うん。去年度までの成績を評価されるんだけど、学年末テストも成績良かったから、この間ようやく確定したの」
「それは・・・すごいね。おめでとう!」
麻衣が素直に褒めると、三上ゆりは複雑そうに微笑んだ。
「家を出るには、これが一番早道だったから」
その返事に、麻衣は切なくて、僅かに項垂れた。
「私のここでの生活もあと少しだからって言うんじゃないけど、ここではもう食器とか飛ばないと思うんだよね」
しばしの沈黙の後、三上ゆりは唐突にそんなことを言った。
「え?」
「ほら、相談にいった食器が飛ぶってやつ」
「あ、ああ」
三上ゆり本人には、まだポルターガイストの原因を伝えていない。それなのにこの言い分は何だろう。自分が
やっていた。ストレスがなくなるからなくなると、自覚があったのだろうか、と、麻衣は心なし緊張して、三上ゆ
りを見返し、尋ねた。
「何でそう思うの?」
しかし返ってきた返事は麻衣の予想を裏切った。
「だって、夢見ないから」
「へ?」
「夢」
驚く麻衣に、三上ゆりは母がいたから言えなかったけど、と前置きして説明した。
「私さ、時々予知夢を見るんだ」
「予知夢って、未来に起こることを見る。あの予知夢?」
「うん、そう。特にこの食器が飛ぶ騒ぎのことについては繰り返し夢に見てたんだよね」
「繰り返し・・・・」
麻衣がその単語に硬直したが、三上ゆりはそれには気づかず言葉を続けた。
「初めは私が食器を投げつける夢をみてたんだけどね、何回かするうちにただ食器が飛ぶ夢をみるようになった」
「・・・」
「変だなって思ったんだよ。だって現実的にありえないじゃない」
「・・・そう、だね」
「でもあんまり繰り返し見るからさ、あ、これってもしかしていつもの予知夢なのかなぁって思ってはいたのよ。
だから、実際に食器が飛んできた時もあんまりびっくりはしなかった。ああ、やっぱりって思ったから」
「・・・」
「最近は全然その夢見なくなったの。今まではしつこいくらいに繰り返し見てたんだけど」
「・・・」
「だからさ、もうここで食器が飛ぶことはないと思うんだよね。あ、信じてない?」
眉根を下げる三上ゆりに麻衣は首を振った。
「信じる。また、予知夢見たら、今度は私たちには教えてね」
麻衣の言葉に、三上ゆりは考えておくとだけ返事をして、苦笑した。
「もう大丈夫?」
「うん?」
「日射病。大丈夫なら、私そろそろ塾行きたいんだけど」
「あ、そうだよね。ごめんねお邪魔して」
「いいよ。今は結構自由時間多いから」
「?」
「交換留学決まったから、英語の塾に通うって言えば、早退とか結構大目に見てもらえるの。うちの学校」
「へぇ、大らかな学校だねぇ」
麻衣が驚いて言うと、三上ゆりはその様子を鼻で笑った。
「成績がいいと、色々得よね」