安原と並んで台所で朝食の準備をする麻衣を見つけ、滝川は首を傾げた。
目に入れもて痛くない、かわいい愛娘は、日頃の闊達さをなくして、少し青白い顔色をしていた。
「麻〜衣?どした?顔色悪いぞ?」
カウンター越しに顔を覗き込まれて、麻衣は一瞬ぽかんと口をあけた。
「麻衣?」
「あ、ごめん。ぼーさん、ぼんやりしてた」
「どしたんだ?具合悪いか?」
「うううん、ちょっと寝苦しくて、ちょっと睡眠不足気味なんだ」
隣で卵を割っていた安原も心配そうに声をかけた。
「大丈夫ですか?夏バテになってません?」
「食欲はあるから平気だよ」
「まぁ昨日は確かに寝苦しかったよな。途中で畑中ちゃんに起こされたし・・・」
滝川が頷くと、安原は小さく笑った。
「でも、凶悪な心霊現象が起きている時にくらべたら、今回は楽ですよね」
「あ〜、まぁなぁ・・・どざえもんに追いかけられたりするよりはいいわな」
「追いかけられたいわけじゃありませんが、本当に今回の調査は反応ないですもんね」
「まぁねぇ、確かにここまで無反応っつうか、手ごたえがないと違う意味で正直お手上げだ」
ふむっと口を結ぶ滝川に、安原は苦笑した。
「本当にこのまま調査終了しちゃうのかな・・・」
その横で麻衣がぽつりと呟くと、滝川と安原は複雑そうに顔を見合わせそれぞれに声をかけた。
「まだ目撃者がいるっていうのはひっかかるけどな」
「ここまで調査してみて、何も感知できないなら、仕方がないんじゃないでしょうか・・・」
「うん・・・それは、そうなんだけど」
俯く麻衣の頭を、滝川はわしわしとかきまぜた。
「なんだぁ、嬢ちゃんはそれがイヤで落ち込んでいたのか?」
「だって、やっぱり不自然じゃない。まだ困っている人が残っているのに・・・関係ないからって投げ出すみたい」
「まぁな、はい解決スッキリってわけじゃないわな」
「本当に関係ないかもしれないけどさ、おかしいのは確かじゃない」
「ああ、おかしいのは確かだ。でもな霊能力が万病に効く、それこそ魔法じゃないのもわかるだろう?」
「う・・・・ん」
「俺達が何かできるかどうか、判断するのはナルだ」
「うん」
「それは納得できるだろ?」
「うん・・・」
滝川にさとされて、麻衣は力なく頷き、作りかけのサラダを手際よく皿に並べた。
その間に滝川はリンに呼ばれ、リビング向かいの席に移動した。それを見送り、安原は麻衣に声をかけた。
「谷山さん」
「はい?」
「本当に体調大丈夫ですか?顔色がすぐれないようですが・・・」
安原の心配気な表情に、麻衣はあわてて笑顔を浮かべた。
「あ〜、それはマジで寝不足なんだと思うから気にしないで下さい」
「今日は僕もこっちいますから、あんまりしんどいようだったら時間みて仮眠とって下さいね」
「えへ。ありがとうございます。まぁ、大親分が許可したらそうします。つか、許可されなくても居眠りしそうな勢いです
けどね」
からからと笑う麻衣に、安原は苦笑した。
「まぁ、寝不足は事実ですよね。本当に昨日は蒸し暑くって、眠苦しかったですもんね。谷山さんも、夜中に随分シャ
ワー浴びられてましたもんね」
「え?」
安原の指摘に麻衣の笑顔が固まると、安原は失言ですね、と舌を出した。
「すみません・・・昨日のモニター監視、所長とチェンジしてたんです。その時音が聞こえたから」
「・・・」
「セクハラ発言ですね」
あさっての方向をみたまま口元を歪める安原に、麻衣は肩をすくめて小さく笑った。
「・・・・そうですよ。なぁに、安原さん。私のファンですか?ストーカー?」
「滅相もない」
「即答されるのもイヤなんですけど」
麻衣が顔をしかめると、安原は苦笑した。
「僕だって命は惜しいので、大親分の前でそんなことはできませんよ」
「本当は和服美人が怖いんじゃありませんか?」
まぜっかえす麻衣に、安原はいつもの越後屋スマイルで笑い返した。
「二重ロックの安原少年。僕ってば、谷山さんにしては完全な『 安パイ 』だったんですね」
眠るたびに夢を見て、夢を見るたび飛び起きて、事実、麻衣は睡眠不足だった。
麻衣が繰り返しみた夢は、前日と同じ、リンに暴行を受けるものだった。
それが夢だと自覚はあったけれど、そのあまりにリアルな感触に、夢から醒めても体から男の臭いがするようで、
麻衣はその晩こっそりとシャワーを浴び直し、肌が赤くなるまで全身を洗った。
安原はそれに気がついていたのだ。
麻衣はその事実に眉をひそめた。
一般家庭と同じ作りの3LDKだ。水音がすれば、モニター番が気がつくのは当然だ。安原が悪いわけではない。
けれど、自分が女性であることに過敏反応を起こしている麻衣には、それすら何だか厭わしい気がした。
あまりに頻繁に繰り返される夢に、麻衣の神経は確実に磨り減っていた。
内容が内容だけに、その比重は本人が思うよりはるかに重かった。
もしかしたら、このマンションで同じような事件があって、その過去を見ているのかもしれないと考え、麻衣は朝食を
終えるとすぐ安原が集めてきたデータをくまなくチェックした。
しかし、予想に反して、そこに該当するような事件は記載されていなかった。
もっとも、被害者が正直に被害届を出したのか、出したとしてもそれが情報として収集できるものなのかは分から
ない。その可能性を考えれば、ここは素直にナルに夢の内容を報告して、状況を洗い直した方が懸命だと言える。
そこまでわかっていても、麻衣はまだ夢の内容を報告する決心がつかなかった。
せめてこれが事件だとはっきりした因果関係があれば、報告できたかもしれない。
けれど、どうとでも判断できない今の状況では、「おかしい」と思えても、恥じらいが先立って言えなかった。
報告すべき上司は、恋人なのだ。
ハウスメーカーの営業担当、崎谷との打ち合わせを終え、ナルとリンがベースに戻ると、モニターの前には安原が
一人座っていた。
「麻衣とぼーさんは?」
ナルの問いに安原は声をひそめて返答した。
「谷山さんは体調が優れないようなので、今のうちに仮眠してもらっています。滝川さんは17階の伊藤さんの家を
確認しに向かわれまして・・・」
「いよぉ、ただいまぁ」
安原が説明する前に、玄関からは滝川の声が響いた。
「何だか雨降りそうな天気だぜぇ」
「あ、そう言えば急に暗くなってきましたね」
「ぼーさん」
「おうよ、ナルちゃん。12階の少年の家行ってきたぜ。足音しなくなったって、本人随分喜んでいたって、お母様か
らほれ、シュークリーム貰ったぞ。3時のおやつにしようや。麻衣は?」
「今仮眠中です。お父さん、覗いちゃダメですよ」
「するかい」
滝川と安原が漫才を始める横で、ナルはため息をつきながらモニター席の横に椅子を引き、腰をおろした。
状況は相変わらずで、じゃれる滝川と安原を諌める気概ももはやない。
このままでは調査は心霊現象ではなかったという結論のまま終了になる。
時間を無駄にしたという感覚が、いやがおうにもナルの気力を奪っていた。
ふとナルが手元を見ると、そこには麻衣が録音してきたポータブル・レコーダーがそのまま放置されていた。
麻衣が会話内容を正確に覚えていたこともあった上に、途中でメモリがいっぱいになり、会話が全部録音できな
かったと言っていたので、改めて再生することもなかったのだが、ナルは何気なくそのレコーダーを再生した。
麻衣がポケットに入れたまま録音したそれは、酷い雑音が先にあって、人の会話はその後ろに小さく録音されて
いる状態だった。ナルはその状態の悪さに眉根を寄せたが、辛うじて聞き取れる日本語に耳をすませた。
冒頭、レコーダーの中にはPK保持者、三上ゆりとの会話が録音されていた。
ほぼ報告された内容そのままの会話内容に、ナルはそのまま早送りした。
レコーダーはそのままストップされることなく麻衣が廊下を移動し、エレベータで八城暁と会い、12階の畑中ふみえ
の自宅まで行く生活音が雑音とともに延々と録音されていた。
――― こんな風に無駄な音をとるからメモリが足りなくなるんだ。
ナルは麻衣の要領の悪さに眉間に皺をよせ、さらにレコーダーを早送りした。
畑中ふみえの自宅についてからも、しばし生活音と何気ない会話が続いた。それからようやくして、畑中ふみえが
現在部屋に出るという幽霊についての話が始まり、話が一段落したところで、会話はいったん途切れた。
そして二三の挨拶があって、移動音がし、それから再度世間話が始まり、会話は唐突にメモリオーバーで途切れた。
内容はどれもとるに足らないものであった。
しかし、ナルはその言い回しに瞠目した。
その言い回しは、あまりに作為的だった。
「ナル?」
モニター前の席を安原と交代したリンは、その脇で目を見開くナルに気がつき、声をかけると、ナルは舌打ちをしな
がら立ち上がった。そしてそのままナルは麻衣が仮眠を取っている四畳半に足早に向かった。
突然のナルの行動に、滝川が慌てて声を荒げた。
「ナル!今麻衣が寝てるんだぞ」
諌める声にナルは苛立ちながら怒声を上げた。
「誰も入ってくるな!」
そして、一人四畳半に足を踏み入れ、そのままドアを閉めた。