王国の住人15   トリップ・トラップ

    

耳が焼けるように熱い。  

押し寄せる圧力に、喉が詰まる。

逃れ切れなかった痛みに、視界が白く、濁る。  

何度オーバーラップしようとも、その嫌悪感に慣れることはない。

 

 

 

  

その日、何度目かの夢に、麻衣が声にならない悲鳴とともに目を覚ますと、目の前には表情のない白皙の美貌の

御仁が麻衣を見下ろしていた。

この悪夢から醒めた直後では、世界で二番目に見たくない顔。

その整い過ぎた顔が視界に飛び込んできた瞬間、麻衣は驚愕のあまりひくりと喉を鳴らし、慌てて体にかけていた

タオルケットをひっぱり上げ、視界を塞ごうとした。

が、その動きは細く長い指に遮られ、冷たい声がそれに追い討ちをかけた。

「麻衣、夢を見たな」

詰問するような鋭い声に、麻衣の全身からは一気に汗が噴出した。

「麻衣?」 

「・・・・やぁ」

「麻衣!」

 

 

  

「やだぁぁ!!!!」

 

 

 

泣き叫ぶような麻衣の悲鳴に、駆けつけた滝川らが目にしたものは、今まさに麻衣を押し倒そうとしているナルの

背中だった。

「ナル――――!!貴様、何やってんじゃい!!!!」

滝川の怒声を浴びせられたナルだったが、ナルはそれを上回る鋭い怒声を張り上げた。

「うるさい!入ってくるな!」

ぴしゃりと跳ね除けられた怒声と同時に四畳半のドアが勢いよく閉まり、滝川は駆け込もうとした勢いで額をドアに

しこたま打ち付け、その場にかがみ込んだ。

その間にも部屋の中からは麻衣の悲鳴とナルの怒声が響き、滝川は涙目になりながらもドアにすがった。

「ナルゥゥ!開けやがれこらぁぁ!!!」

しかし、後を追ってきた安原は暴れる滝川を強くいさめた。

「滝川さん!やめて下さい!」

「止めるな少年!つうか、離せボケ!」

「落ち着いて下さい。所長のことです。何か考えがあるはずですから!」

「どうみてもあれは麻衣を襲ってるだけだろうがっっ」

「とにかくっっ、少し様子をみてみましょう!」

狭い廊下でもみ合う二人を眺めながら、リンはいぶかしげに閉じたドアを見やった。

 

 

「いやだぁぁ、やぁぁぁ!」

 

 

半狂乱になって泣き喚き暴れる麻衣の腕をナルは無遠慮に握り締め、それでも逃れようとする麻衣を組み伏せる

ように抱きしめた。

「麻衣!」

「やぁぁぁぁ!」

しかし手足の自由が奪われて、麻衣は更に取り乱し、声を裏返させ悲鳴を上げ続けた。

このままでは舌を噛むと、ナルはその口を強制的に自分の口で塞ぎ、もがき続ける麻衣が大人しくなるまで舌を

絡めとった。

「んん・・・ん!」

執拗に繰り返される愛撫に麻衣は苦しげにうめき、それでもじたばたと暴れたが、ほどなくして酸欠状態になり、

麻衣の四肢からすとんと力が抜けた。

抵抗が弱まると、ナルは押さえ込んでいた力を弱め、びくびくと痙攣し続ける麻衣を後はただ優しいだけの力で

撫で、自身の胸に抱き寄せた。

「落ち着け」

先ほどの乱闘騒ぎで乱れたシーツの中に倒れ込み、ナルは震え続ける麻衣が落ち着くまで抱きしめた。

その温かさに麻衣は目を回し、溺れるものが掴む藁のように、ナルの胸を掴んだ。

歯の根があわないほど大仰に震えていた麻衣の体は、時間とともに静まり、後には力の入らない、熱を持った体

が残った。

いくらか落ち着きを取り戻した麻衣は、強く抱えられた頭を振って、おずおずとナルの顔を見上げた。

見上げた先には、何時までたっても見慣れな綺麗な顔が、面倒そうに眉をしかめて自分を見下ろしていた。

その表情に、麻衣は息をのみ、言葉をつまらせた。

「・・・・ごめん・・・なさい。びっくりしちゃって・・・」

汗と涙でしっとりと湿った顔を赤くして、ごもごもと言いよどむ麻衣に、ナルはため息をつき、その頭に顎をのせた。

「夢をみたな」

「・・・」

「麻衣、お前は前にも見ていただろう」

「・・・」

「今は確実に覚えているな。どんな内容だった?」

「・・・」

「どんな内容だったと聞いている」

次第に冷たくなっていく声に、麻衣はそれでも頑なに口を閉ざし、目に涙を浮かべて横を向いた。

何がそんなに麻衣を強情にするのか・・・と、ナルはいぶかしみながらも、鳶色の瞳が不安げに瞬く様を見つめ、

ナルはゆっくりと噛んで含めるように声を出した。

 

「夢の内容を言え」

 

重ねられる叱責に、麻衣は耐えられないとばかりに両手で耳を塞ぎ首を振った。

「麻衣!」

「夢の内容なんて覚えてない!」

その言い草に、ナルの機嫌は音を立てて落ちた。

「これが覚えてない者の反応か?ふざけるのもいい加減にしろ」

「知らない、知らない!知らない!!」

「麻衣」

耳を塞ぐ両手をナルは乱暴に掴み、無理やり耳からはがして両手を吊った。

「今、みていた夢だけでいい。ザルの頭でも今ならまだ覚えているだろう」

火を灯したような怒りを滲ませた瞳に睨まれ、麻衣は屈服しそうになる体と心に、最後の気力を振り絞って抵抗した。

「・・・・単なる夢かもしんないじゃん。そんなことまで言わなきゃないわけ?!」

「単なる夢かどうかは僕が決める。麻衣じゃない」 

辛らつな追求に、麻衣は思わず息を飲んだ。

その様子に、ナルは心底あきれたように顔をしかめた。

「お前はそんなことも忘れたのか?」

苛立ちと、失望感の滲む声に、麻衣はびくりと肩を揺らした。

年月を重ねて、僅かずつでも確かに勝ち得てきたナルの信頼を損なうことは、想像もできないほど辛く、怖い。

ひやりと頬を撫でた喪失感は、胃の底が焼けるような痛みを伴った。

たまらず、麻衣は唇を噛んだ。

単なる夢だ。

それがどんな意味をなすのか、単なる妄想なのかは、ナルが決める。

妄想なんて、誰でもみることだ。

夢見たことは別に罪でもなんでもない。

麻衣は理論武装して、こぼれそうになる涙を堪え、カラカラに乾いた喉に空気を入れた。

恥じらいはあった。

けれど、信頼を失ってしまう恐怖がそれに、僅かに競り勝った。

 

「だって、リンさんだったんだもん・・・」

 

かすれた麻衣の呟きに、ナルは僅かに眉根を上げた。

「リン?」

「リンさんが、ナルのマンションの前にいる夢だったの。だから調査とは関係ないと思って・・・」

麻衣の説明にナルは不愉快そうにため息をつき、ねじ上げていた麻衣の両手を離した。

「お前はサイコメトリストじゃない。例え霊視でも、場所データの組替えがあることくらいわかっているだろう」

ナルの追求に、麻衣は息をつまらせた。

そんなことはわかっていた。

そんなことが言えない理由でないこともわかっていた。

そして、言えなかった理由を想像もできないでいる相手に、麻衣はさらに羞恥を感じた。

麻衣は自由になった両手で自分の腕を抱え、逃げ出そうともがく体を必死につなぎとめた。

「夢の中で、私、リンさんと一緒にマンションの部屋に入って・・・・」

けれど、それをどの言葉で説明すればいいのか躊躇い、麻衣は俯き、耐えるように奥歯を噛んだ。

所詮は夢だ。軽く言えばいい。麻衣は決心して言葉を選んだ。

 

 

「私が、リンさんに襲われちゃう夢だったの」

 

 

一度声に出すと、それはすとんと地に落ちた。

麻衣は軽くなった、やや軽くなり過ぎた胸の空洞に、苦笑した。

 

「突拍子もないでしょう?笑っちゃうよね。何で、よりによってリンさんが、私なんかを襲う必要があるのかって話だ

よ。リンさんをそういう風に疑ってみたことなんてないし、リンさんがそんなことするわけないのにさ、夢の中だと、

リンさんが私を無理やり襲うんだよ。もうさぁ、普通のレイプ。抵抗しても全然敵わなくてさ、かなり怖かったんだよ。

夢でもさぁ、怖いもんは怖いんだ。バカみたいに怖くて、動揺しちゃって、眠りも浅くなっちゃって、そしたらますます

夢みるしさ、同じ夢でさ、さすがにおかしいと思ったんだけど、あまりにも調査に関係ない内容なんだもん。あまりに

もみたくない夢だったんだもん。そんなの夢でも認めたくなかったんだもん!」

 

一息にそこまで言うと、もう十分だろうと、麻衣は顔を起した。

怒られる覚悟はできた。と、腹をくくったつもりだった。

しかし、見上げた視界の先に映ったものに、麻衣は認識の甘さを痛感した。

視線を向けた漆黒の恋人は整い過ぎた美貌に、一目でわかる怒気を掃いた顔で麻衣を睨んでいた。

その形相は、先ほどの苛立ちなどまだかわいらしいものに見えるほど激しく、闇色の目には冷徹な色が沈んでいた。

 

そのあまりの迫力に、麻衣は絶句した。

 

――― 怖い。

 

麻衣は今までとはまた別の、次元の違う恐怖にさらされ、声を失った。

ついさっきまでは夢の中のリンが一番怖かった。しかし、今現在は目の前の恋人が間違いなく一番怖い。

 

―― それって女子としてどうよ?

 

麻衣は頭の片隅で自分につっこみを入れてみたが、目前の不機嫌な魔王の威力が弱まることはない。

瞳の色は底が見えないほどに深まり、微動だにしない顔からは、無表情がなせる最大の敵意が滲み出ていた。

何も発さない口。

それが恐怖心をさらに高め、脳裏に直接痛みを訴えかけた。

息をつくのも躊躇われる、密度の濃い沈黙を、麻衣はただひたすら沈黙でもって耐えた。

耐えたなどとはまだぬるい。

何もできなかったというのが、正しいのかもしれない。

長く、重苦しい沈黙の末、ナルは怯えきっている麻衣の肩を唐突に抱きよせた。

そのあまりに突然のアクションに、麻衣が反応できずにいると、ナルは絞め殺さんばかりの力で麻衣を抱きしめ、

後頭部に掌を押し当てた。

そしてその体勢のまま、ぼそりと呟いた。

  

 

 

 

 

「麻衣、お前は夢をみるよう 『 暗示 』 をかけられていた」

 

 

 

  

 

淡々とした口調が告げた思いもよらない単語に、麻衣は弾かれたようにナルの顔を見た。

「暗示・・・?」

「夢の確認をされていた。あれは暗示効果の確認だろう。指示の途中で録音は切れたがな」

ナルはそう言うと、部屋の隅に視線を投げた。

その視線を追うと、そこには麻衣が中途半端に録音したはずのポータブルレコーダーが投げ出されていた。

おそらく、麻衣ともみあっているうちにナルが落としたのだろう。

しかし、麻衣はそのレコーダーを見ても意味がわからず、怪訝そうにナルを見上げた。

「聞くものが聞けばわかる。あれは催眠状態へ促す導入部の会話だ」

「う・・・そ。そんなわけないよ!そんな催眠状態に入った覚えないもん!」

大声で否定する麻衣に、ナルは不快そうに顔をしかめた。

「後暗示で記憶を消しておけば造作ない」

「・・・・」

「そもそも暗示をかけられたという自覚があれば、暗示なんてものは無効になるんだ。自覚がないのは当然だろう」

ナルはそれだけ言うと、静かに麻衣の体を離し、ゆっくりと麻衣に顔を近づけた。

濡れた鳶色の瞳を、闇より深い漆黒の瞳が見据える。

「もうお前の暗示は無効だ」

そこに写りこんだ自分を見つめ、麻衣はゆっくりとナルが囁いた言葉を反芻した。

「無効?」

「僕がバラしてしまったからな」

もう、夢は見ない。ナルはそう言うと、僅かに目を細めた。

長い睫が伏せられて、白い肌に影が落ちた。

綺麗だな。と、麻衣が関係のないことを考えた隙に、ナルは麻衣の額にキスをした。

「大丈夫。もう、悪夢はみない」

やわらかいテノールの囁きに、不意をつかれた麻衣の神経は弛緩した。

「もう麻衣は安全だ」

そこに注ぎ込まれる呪文のような言葉に、涙がこぼれるのと頭が真っ白になるのは同時だった。

「恥かしくて、言えなかったの」

「馬鹿馬鹿しい」

「乙女の恥じらいだよ」

笑おうとして動かした口元は、そのまま崩れた。

突然、堰を切ったように溢れてきた感情の波にのまれ、麻衣はボロボロと泣きながらナルの胸に顔を埋め叫んだ。

「怖かったの・・・・・・怖かったの!怖かったの!!!」

「ああ」

「夢だって、わかってるのに、気持ち悪くて、でも言えなくて、もう起きてても皆まで怖くなって、もうぐちゃぐちゃでっっ」

「ああ」

「怖かった」

「そうだな」

 

熱く沸騰したような涙を頬に感じながら、麻衣は溜め込んでいた恐怖を一気に吐き出すように泣き、泣き疲れて、

糸が切れたように意識を失った。  

腕の中で事切れた麻衣の、どこか疲れた寝顔を見下ろし、乱闘騒ぎで乱れたシーツの上にナルはそっとその身を

横たえ、薄いタオルケットをかぶせた。

ピシリっと、部屋の隅で静電気が爆ぜる音がした。

しかしナルはそれには構わず、ゆらりと、音もなく立ち上がった。