麻衣の悲鳴が消え、ほどなくしてリビングに現れたナルは、白い肌をさらに蒼白にして、待ち構えていた滝川を
完全に無視して、リビング中央のダイニングテーブルの椅子に腰をおろし、一言だけ指示を飛ばした。
「松崎さんを呼んでくれ」
「へ?綾子?」
何故と、言いかけて、滝川は安原にその先を止められた。
見れば、指示を出した所長からは今、熊をも倒せそうな殺気が立ち昇っていた。
ゆっくりと、生暖かいような空気がナルを中心にして揺らめく。
それに伴い激しい静電気がその場にいる全員の肌を撫で、周囲からはパリパリパリと、耳障りなラップ音が鳴り
始めていた。
「ナル!」
リンが険しい声をあげたが、それも殺気を孕んだナルの抑制にはならず、かえってその気配は悪化した。
ナルは強張り切った顔をギチギチと動かし、時間をかけて声を発した。
「 やかましい 」
底冷えする、人間のものとは思えない声に、リンは思わず返答を飲み込み頷いた。
リンの背後では、突如発生した電磁波に精密機器が悲鳴を上げ、弱いものから順にブラックアウトしていった。
窓ガラスは硬直したように張り詰め、キリキリと奇怪な音を発し、部屋の空気密度はおかしな風に捩れ、密度を
増している。
とにかく中央の御仁が自分でも制御できないほど怒り狂っていることだけは分かる。と、その場にいたものは息を
飲んだ。同じ部屋にいるだけで、ビリビリと肌が焼け付くように痛いのだ。
その時、リビング中央から思いもよらない重い音がした。
その音はリビングの中央のダイニングテーブルから発せられた。
頑丈なだけが取り得のようなダイニングテーブルが、ナルが手をついた場所からへこみ、歪んでいく。
ゆっくりとプレスされていくテーブル。
その不自然なゆがみに、テーブルは堪えきれないという風にズルズルのその天板を歪ませ、足を斜めに曲げ、ほ
どなくして大きな破裂音とともに床に砕け落ちた。
不可解過ぎる現象に、周囲の者は顔色をなくしたが、それを行った本人の顔は能面のように真っ白で、そのどこに
も激した感情は見えず、力を込めた形跡も残されてはいなかった。
粉々に砕けたテーブルを見下ろし、ナルはそこでようやく自分が手を下したことに気が付き、億劫そうに顔をしかめ、
物の言わず隣室の6畳間へ消えた。
後に残されたのは、テーブルの残骸と、静電気を孕んだ淀んだままの空気。
リン、滝川、安原の3人はそれぞれ、何も言えずその場に立ち竦み、顔を見合わせた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
とるものも取り合えずといった形で、綾子がマンションに駆けつけたのは、それから1時間半後のことだった。
麻衣がまだ眠っていることを確認した後に、ナルは残ったメンバーを和室に集め、淡々と説明を始めた。
「今回の一連の異変の原因は 『 暗示 』 だ」
「「 暗示? 」」
「そう考えると全てに説明がつく」
ナルはそう言うと、まるでそこが痛むかのようにこめかみを押さえ、それからややあってようやく口を開いた。
「このマンションでは女の幽霊に追いかけられ、飛び降り事故の多発などが頻発した。正確には2月前半からだ。
幽霊が出る。火の玉が出る。足音がする。食器が飛ぶ。現象は様々で対象は主にティーンエイジャー、そして
場所がマンション内と固定されているにも関わらず、体験者が限定されていることが今回の特徴だった。
実際に食器が飛ぶ現象についはPK保持者が無意識に行ったポルターガイストだったが、それ以外は説明がつか
なかった。原さんは幽霊がいないと言い、実際に目撃者が現象を見ている最中に機材には何んの異変も現れな
かった。しかし幻覚にしては不自然で、解決が見られない。呪詛にしては根本的に矛盾がある。しかしこれを悪意を
もった催眠による暗示効果と考えれば全てに説明がつく」
一息に説明したナルに対して、横で大人しく聞いていた滝川が抗議の声を上げた。
「でもよ、催眠っちゅうのはそもそもかけられた本人の意識がある状態でかけられるもんだろ?」
「そうなの?」
「そうだよ。少なくとも催眠中はそういう状態なんだ。あとからその覚えがないっていうのは、『忘れる』って暗示も
その時かけられているからなんだよ。だから催眠による暗示ちゅうもんは、本人が嫌がることは基本的にできない
んだ。例えば死ねとか、怪我をしろとかな。結局は催眠状態にして、暗示をかける施行者より本人が強いんだよ」
滝川の指摘に、ナルは冷ややかな視線を落とし、それ以上の発言を制した。
「確かにな。暗示というのは強制力がない。しかし今回の一連の騒ぎのほとんどを『
夢 』と置き換えればこれは、
実現するんだ」
これにいち早く反応したのは安原だった。
「・・・・なるほど」
「あ?何がなるほどなんだ?」
「事象をよく整理してみて下さい。最初は『女の幽霊が出る』でしたよね?」
「ああ?そうだな。それで飛び降りて怪我をすれば助かるって変な解決方法があるやつだろ?」
「それは後付け」
ナルは極めて低い声で訂正した。
「最初はこれだけでいい 『
女の幽霊が出る夢を見る 』 だ」
「幽霊は夜出るものという固定観念がある。それをうまく逆手に取った暗示だな。夢現では、それが現実か夢かの
判断などできないだろう。実際の霊現象とされるものも、半分は寝ぼけだ。それで暗示に成功した者に対して、後
から何かのきっかけで 『
昼間に幽霊を見る 』 と暗示をかけてやればいい。
一度暗示にかかっている者なら、前提がある。
昼間の幽霊という違和感は残っても、経験がそれを塗り替える。
そして最初の被害者の佐藤ヤイコが誤って飛び降り事故を起こした。
催眠状態が解けてからの暗示を『
後暗示
』と言う。これは本人に自覚がないものだが、効果はせいぜい一週間弱
といった所だ。ここで、佐藤ヤイコは1ヶ月の入院生活を強いられる。もちろん暗示効果はなくなり、以降佐藤ヤイコ
が 『女の幽霊を見る』 ことはなくなる。それが二件続いて、『飛び降りれば見なくなる』というジンクスが生まれた」
「暗示って一週間くらいで解けるもんなんですか?」
安原の指摘に、ナルは種類によると補足した。
「自身の生活に必要不可欠なものほど、暗示は長期的な効用を示すが、今回のようないわば関連性の薄い暗示は
せいぜいもって一週間。暗示にかからないケースの方が多いくらいだ。通常心療治療で用いられる暗示は複数回
実施してようやくその効果が得られるものだからな」
「そうすると、ターゲットが次々と変わっていったのは、何もみんなが飛び降りたせいってわけじゃないんですね」
「同じ人物に暗示を繰り返しかけるほうが施行者としては楽だが、今回のケースではさすがに回数を重ねると怪し
まれるとでも考えたんじゃないか?そうすると、被験者は次々と変えたほうがいい。飛び降り回避策は言わばそれ
の格好のカモフラージュだったんだ」
そこで安原はぽんと掌を打った。
「予知夢だ!」
「予知夢?」
突然出てきた単語に綾子が眉間に皺を寄せると、安原は早口で説明した。
「現象の一つに皿が飛ぶって言うのがあって、それを引き起こしていたのはPK保持者の女子高校生だったんです
けど、彼女、谷山さんにその前に必ず 『
予知夢 』 を繰り返し見るって言ってたんですよ」
安原の指摘に滝川が顔をしかめた。
「ああ、するってぇと何か?あの子の騒ぎも暗示の結果ってわけ?」
「PK保持者ってのは偶然にしても、そうは考えられませんか?」
「ちょい待てや、確かに 『女の幽霊』 とかよ 『足音を聞く』 はそれで説明がつくかもしれねぇけどさ、あれはどう
するんだよ。小学生のガキ共が見た 『
火の玉 』 !」
謎解きに興奮する安原を滝川が制してつっこみを入れると、それに対してもナルは淡々と説明を続けた。
「暗示のバリエーションを代えればいいんだ。条件をつけて、3人一緒に同じものを見せればいい。ここでポイントに
なるのが『
3人一緒 』言い換えれば『 3人の時だけ
』を条件付ければいいんだ。すると、カメラに記録されない。
他人が来ると消えるというのも説明がつく」
「そんなことができるのか?」
「なしではない」
間髪入れず即答するナルに、安原がうなった。
「心理療法の知識がないと出てこない回答ですね」
納得する滝川、安原、リンに対して、突然呼び出された綾子はパニック状態で大声を上げた。
「ええ?!私イマイチ状態が飲み込めなんだけど?!どうなってるわけ?」
その緊張感の欠片もない綾子の声に、滝川は苦笑した。
「まぁ・・・綾子は今日突然だしな。ナルちゃんや、だから何で綾子を呼んだんだ?」
滝川が質問を口にしたその時、パチン、と、軽やかな音がして、リンの目の前のPCがブラックアウトした。
それに倣うように、周囲からはパチパチと静電気がはぜる音が再び始まった。
突然反応し始めた静電気に、一時間前のテーブル破壊を目撃したメンバーは言葉をなくした。
しかし、状況が掴めない綾子はすぐにその沈黙を破った。
「ちょっとぉ、本当に何なのよ?!そして麻衣は?麻衣はどこなのよ?!何であの子寝てて起きないの?」
綾子の声に対応するように、ふわりと、生温かい風がリビングに生まれた。
視線が、おそらく現象の原因であるナルに集中する。
その中で、注目の的となったナルは無表情に事実を告げた。
「 麻衣が暗示にかかっていた 」
その声に応じるように、さわさわと、先ほどと同じ静電気がリビングに集まるメンバーの肌を撫ぜ、部屋の上空で
パシリと小さな音を立てて爆ぜた。
「偶然、麻衣が携帯していたレコーダーに催眠の導入部の会話が残っていた。だから僕もこの事態に気がついた」
「麻衣・・・が?」
目を丸くする滝川に、ナルは嘲るように目を細めた。
「犯人はよくよく最適なターゲットを見つけたということだ。確かに麻衣であれば複雑な暗示もかけやすいだろう。
最も、そのお陰でこのカラクリが露見することになったがな」
不穏極まりないナルの表情に、それまで沈黙を守っていたリンが口を開いた。
「谷山さんは、一体どんな暗示にかかっていたんですか?」
バシン!
一際大きな音を立てて窓ガラスが割れた。
幸い強化ガラスで破片が散ることはなかったが、その威力に、一同は目を奪われた。
その瞬間に、ナルは冷ややかに言い放った。
「
『 リンにレイプされる夢を見る 』 だ」