曇天の下、一路姫乃島を目指す高速フェリーの船の甲板の上。  

  

「気持ち、悪い」

  

真っ青な顔で項垂れる綾子に、麻衣は持参した熱い紅茶をカップに注いで手渡した。

    

   

   

    


#002 姫乃島

    
     

 

  

  

 

手渡された紅茶を奪い取るようにして飲み下し、空になったカップを冷たくなった両手で囲いながら綾子は恨めしそうに呻いた。
「今回の調査現場がこんなに酷い場所にあるとは思わなかったわ!」
生気のない顔色をしながらも憎まれ口は健在と、威勢良くがなり立てる綾子に、麻衣は遠慮なく耳を塞いだ。
「だからぁ、離島だってことは最初から言ってたじゃん」
「こんなに船が揺れるなんて思わなかったのよ!」
「せめて人の言うこと聞いてちゃんと薬飲んでおけば良かったんだよ」
「・・・・それになんでこんな時ばっかり真砂子は来てないのよ?!ズルいじゃない!」
「真砂子の大学はまだ後期試験中なんだからしょうがないの!」
「それならあんたと少年だって同じじゃない」
「私のとこの試験は一月で終わったの。安原さんの方は一月で授業終わって、試験は2月後半なんだって・・・・って、綾子!本当に人の話聞いてなかったね?」
「煩いわねぇ・・・耳元でキャンキャン喚かないでよ」
「・・・・・っっ、誰がこんな風に言わせてるのさ!!!」
寒い北風が叩きつけるように吹き付ける中、大声で怒鳴り合う女性らに、案内役の
村主朋樹は苦笑しながら近付き、気遣いの窺える柔らかな声をかけた。
「すみません・・・・本当に辺鄙な場所で。これでも中型の高速フェリー使っているから小さい船より随分揺れないんですけどね」
内郷から紹介されたその男は40代前半の、いかにも頼りがいのありそうながっしりとした上背のある男だった。島育ちだと言っていたけれど、その顔立ちに鄙びたところはなく、肩書きにあるとおり一部上場企業にスマートなスーツ姿で出勤するのがよく似合いそうな端整な顔立ちをしていた。
「いいえ!こちらこそ煩くてすみません。ちょっと酔ってしまって・・・」
つまるところ、綾子の好みど真ん中。
既に二児の父親であることは判明し、関係が発展する可能性は失われているもののその事はあまり関係ないらしく、突然しなを作って感じよく微笑む綾子に麻衣は歯をむいたが、
朋樹はそれには気がつかず、にっこりとこれもまた感じよく愛想笑いを浮かべた。
「もう直ぐ着きますから、しばらくの辛抱ですよ」
明らかにほっとした表情を浮かべた綾子に、
朋樹は手元の時計と海面しか見えない風景を見比べ頷いた。
「港を出てかれこれ5時間になりますからね。今日は特に波が高いってともないので、予定通りに到着できると思いますよ。海が荒れている時は、ここまで近付いていながら着岸できなくて引き返すってこともあるんで」
それを想像してしまったのだろう、綾子はげんなりと瞼を落とし、麻衣の肩に頭を預けた。その様子に朋樹は気の毒そうに苦笑し、綾子を慰めた。
「弟が迎えに来るようにしてありますから、まずはお泊り頂く姫のお屋敷に直行します。着いたらすぐ休んでください。屋敷の中には温泉が引き込んであるんですよ。少し元気になったら入るといい。さっぱりしますから」
「あら?温泉が湧いてますの?」
青白い顔にさっと喜色が浮かぶのを見つけ、朋樹はそれに大きく頷いた。
「火山帯ですからね、良泉ですよ。こればかりは枯れなかった」
いささか皮肉交じりに笑う
朋樹に、麻衣はふと気がついたことを尋ねた。
「" 姫のお屋敷 "って、ベースとしてお借りする家ですか?」

麻衣の質問に
朋樹はああ、と軽く頷いた。
「島の者は " お屋敷 " と呼ぶので、癖でそう呼んでしまったかな。今、島でまともに暮らせる大きな家屋はそこくらいなんですよ。本来は巫女さん・・・・我々は姫神さんって呼んでますけど、その直系の家族とその従者役だけが住む場所とされていたんです。今は現在の姫神さんとその大叔母と旦那、それから私の弟が住んでいます。本当のことを言えば大叔母は姫神さんにはならなかったので、屋敷に同居するのは筋違いなんですけど、現在は大叔母夫婦が姫神さんの身辺の世話をしているので、従者役も担っているってことで黙認されているんです」
「従者役って?弟さんは問題ないんですか?・・・ってすみません、質問してばっかりして」
疑問ばかり投げる自分に麻衣が顔を赤くすると、
朋樹もまた困ったように苦笑した。
「そうですねぇ、島のことは順を追って説明しないと分かりづらいし・・・・私が言うことが正確かと言えば、そうでもないでしょうから、姫神さんと一緒の時にまとめてお答えしましょう」
そう言って
朋樹が感じよく会話を終了させた時、船内に繋がる小さなドアがぎこちなく開き、中から滝川と安原が顔を出した。
「綾子ぉ、大丈夫かぁ?」
「船長さんのお話ではもうすぐ着くそうですよ」
「うぉぉぉっ、すっげぇ風!」
そうして顔を出した瞬間、滝川は強風に煽られバランスを崩した。
すかさず伸ばされた
朋樹の太い腕を掴み、何とか転倒をまぬがれた滝川は、そこから勢いをつけて甲板に足を乗せ、へらりと笑いながら朋樹に頭を下げた。
「すんませんね」
「いえ、この辺りは風が強くて、体重の軽い子供なんかは平気で海に飛ばされるんですよ。気をつけてくださいね」
「おほほ〜、こえ〜〜、麻衣気をつけろよ!」
「うん」
「ちょっとぼーず!何で麻衣は気をつけろで、私は無視なのよ?」
「何よ、深い意味なんてねーよ。例え麻衣より綾子のが重いから大丈夫だろうと思ったとしても言わんから、イチイチ絡むな」
「なんですってぇぇ!?」
勢いで立ち上がったものの、綾子はその場で眩暈を起こして倒れかけ、麻衣と滝川が慌ててそれを支えに走った。その勢いに押されて言葉をなくす
朋樹に、安原は背後から温和な声をかけた。
「すみません、うるさくて」
「あ、いや、ちょっとらしくないなぁって驚いただけだから」
「らしくない?」
聞き返されるとは思わなかっただろう
朋樹は、ばつが悪そうに口ごもり言い訳した。
「いや・・・・だって、君たちはいわゆるアレなんだろう?拝み屋とか、霊能者とか言う・・・」
が、安原はにっこりと微笑んで頷いた。
「よく言われます。霊能者って聞いたら、もっと深刻そうな人達をイメージしますもんねぇ」
悪い気のしない安原の温和な態度に
朋樹は僅かに気を緩めた様子で甲板の手すりに凭れ、重ねて尋ねた。
「君も、その幽霊とか見るの?」
「僕ですか?いいえ、僕は全然です。仕事もアシスタントとしてその時のバックグラウンドを調査する方が主ですから。そんなわけで今回はお仕事多いんですよ。村主さんにもお話窺うことになると思いますので、よろしくお願いします」
「そうなのか・・・いや、こちらこそよろしく」
「至らぬ点もあると思いますが、できる限りのことはさせてもらいます」
にっこりと微笑み続ける安原に親近感を持ったのか、
朋樹は砕けた口調で感想を述べた。
「しかし、最近のそういう関係も近代化しているんだな。最初に内郷先生から紹介された時はそれじゃ話が違うんだって随分慌てたんだよ」
安原は少し困ったように苦笑しつつ首を傾げた。
「どうでしょう?古式ゆかしい拝み屋さんっていうのもまだたくさんいらっしゃいますし、そっちの方がやっぱり多いんだと思います。僕たちの団体は学術的研究がメインなので、その中では異質といえば異質なんですよ。まぁ異質なところを買われて内郷先生からこちらの調査依頼をご紹介頂いたわけですけどね」
控えめな安原の解説に、
朋樹はそういうものかと訝りながらも頷いた。
「確かに普通の幽霊相談とも違うしな」
朋樹はそう呟きながら大げさに肩をすくめた。
「大体、島の伝承を記録しておくだけなら自分でもできるし、私から見たら今回のことはそれだけで十分だと思うんだ。それなのに幽霊騒ぎなんて、島の恥みたいなことをわざわざ残しておきたいなんて・・・そんなおかしなことを考えるのはうちの姫様くらいのもんだろうし」
含みのある言い方には気がつかなかったふりをして、安原は穏やかに尋ねた。
「村主さんは幽霊を見たとか、音を聞いたこととかあったんですか?」
「そりゃもちろんあるよ。でなければ、いくら姫様のお願いでもこんな荒唐無稽な話を他所様に話すことなんかしないさ」
「そうですか・・・」
「島の中のことは姫神さん以外の神さんが何とかできるはずない。それができないと言うなら、今まで通り大人しくしていたらいいと私は思うんだけどね」
「・・・・・」
「解決するつもりはないって言うけど、意地の悪い見方をすれば、巫女の任期が終わる今になって慌てて第三者にお願いしているようにしか見えない。別にそれを責めるつもりはないけど、誰かに島の異変を解決してくれって頼むなら、もっと前にやるべきだったんだ。そうしたら島はこんなに荒れることはなかった」
ほんとうに、姫神さんの考えることはわからない。と、
朋樹は語尾を冗談めかしてぼやかし、じっと自身を見つめる安原に苦笑した。
「まぁ、島を離れた私には強く言う権利はない。村主の姓を名乗ってはいるけれど、それらしいことなんてしたことないんだから。島のことは姫神さんの思うとおりにするのがいいんだ。それに、君も行けば、普段は見ない幽霊が見れるかもしれないし」
自嘲めいた
朋樹の言葉に、安原は感情の窺えない笑みを湛えたまま、おどける様に口の端を歪ませた。
「どうでしょう?僕の鈍さには定評がありますからねぇ」
「こんな仕事をしているのに?」
「本職はしがない大学生ですからね」
「ははは、それもそうか。けど、人影とまではいかなくても、不思議な光くらいだったら本当にちょくちょく見かけるから」
それは所長が喜びそうだと思いつつ、気をつけてみますと、安原が返事を返すと
朋樹は複雑そうに視線を外した。
「私の妻は島の人間ではないのだけれど、それでも一緒に島に帰った時に幽霊を見て、怖がって他の人間と同じように島に近付くのを嫌がっているんだ。今回の件で私が島に行くことも最後まで反対していたし、息子が2人いるんだけど、何か悪いものに憑り付かれては困ると、生まれてから一度も姫乃島に連れて来たことはないんだ」
怒っているのか悲しんでいるのか、朋樹は何か苦いものでも口にしたような難しい顔をして甲板の手すりに身を乗り出し、暗く垂れ込めた雲を睨んだ。
「今はこうしてあれだけど、昔の姫乃島はとても美しい豊かな島で、私の愛すべき故郷だったんだ。津波は悲劇だったよ。でも、せめてこの幽霊騒ぎがなければ、島もこんな風に人から嫌われてここまで廃れることはなかったんじゃないかって思ってしまうんだ」
そうして
朋樹は視線の先、波間に浮かんだ陸地を指差し声を上げた。 

  

「ほら、島影が見えた。あれが姫乃島だよ」

 

正面から吹き付ける冷たい北風に邪魔されながらも、安原は懸命に瞼をこじ開け、朋樹が指差す方向に顔を向けた。最初に暗い空と暗い海の間に挟まれて、今にも曇天の中に吸い込まれていきそうな、漏斗を逆さにしたような形の山がちらりと視界を掠めた。
それは見る間にすそ野を左右に広げていき、縦に長い島の全景を象っていった。
暗い波間に見えるその影はぎょっとするほど鋭く、どことなく陰鬱な印象を受けたけれど、それは吹き込まれた先入観と今の季節が悪いのかもしれないと、安原は首を振り、最初に感じた印象とは全く別のことを口にした。
「航空写真では、ひらがなの " く " の字のように見えたんですけど・・・」
「ああ、そうだね。上から見ればひらがなの " く " かもしれない。正確には北側の方が少し長いから、左手の親指と人差し指を伸ばした形に似ているかな?それで、指の付け根、折れ曲がった所が中央の深山(みやま)で、今だと " く " の字の背の方から近付いて行っているようになる。船着場はこのちょうど裏側にあるから回り込んで近付く。この先は潮の流れが早くて揺れるから中にいた方がいい」
そう言うと
朋樹は慣れた足取りで踵を返し、綾子を中心にして甲板の隅に座り込んでいた3人を呼びに向かった。  

   

     

   

   

    
複雑な潮の流れを回避して、幾度か旋回した後船がようやく船着場に着くと、そこには朋樹によく似た、少し年若い男が待ち構えていた。
年若いと言っても年の頃は間違いなく30代を超えているだろうその男は、朋樹と同じようにがっしりとした体つきをしていたのだが、朋樹とは違い、実際に酷使されているのだろうことがよく分かる現実的な肉のつき方をしていた。よく似た端整な顔立ちも、その皮膚は潮風に焼け浅黒く染まり、髪はガサガサで全体的に朋樹よりも粗雑な印象を与え、何より愛想のなさが、彼と朋樹を大きく分けていた。

「弟の村主 大樹(すぐり たいじゅ)です」

船から降り立った集団は、桁外れの漆黒の美形に仰ぎ見るほど背の高い男、不安なまでに軽そうな茶髪の男、金髪碧眼の外国人、派手な女に女子高生にしか見えない少女と、誰がどう見ても異質な集団であったのに、彼はそれに特に反応を示すことはなかった。
そうして朋樹の紹介にも、形ばかりに頭を下げるだけで自ら口を開こうともせず、言葉少なに一行が持参した膨大な機材を確認すると、近くの小屋に運べば後は自分が運ぶと船長らに指示をし、そこでようやく自らの意思で朋樹に声をかけた。
「もうすぐ雪がくるぞ」
「雪?」
「ああ。この様子だと後半時もないやろう」
「暗いなぁ思うてたが、そうやったんか。天気予報でもそない言ってなかったんやけどな」
気の置けない弟と対面した気安さから、朋樹はそれまでの模範的な標準語から癖のある方言混じりの言葉に代えて、親しげに大樹に微笑みかけた。
「海が荒れる前に船、出してやりたいから、ここは俺がやっとく」
「結構な数や」
「軽トラあるし」
「あれまだ動いてたんや」
気安く笑う朋樹に、大樹は表情を変えることなく頷き、淡々とした口調で告げた。
「道に雪も残っておっかないから、トモ兄は先にこの人達を月子のとこに連れてけや」
そうして告げられた大樹の言葉に、朋樹は突如ぎょっとしたような顔をして、反射的に大樹の頭を小突いた。
「姫神さんや!名前で呼ぶのは心臓に悪りぃからやめろ!」
棘のある叱責に、しかして大樹はそれにも満足に応えず、感情の窺えない無表情でくるりと背中を向けた。結果的に無視された形となり、朋樹はぎっと大樹を睨んだ。が、すぐにそこに他人の目があることに気がつき、それ以上の追求をやめ、頭を振りつつ一行を振り返った。
「荷物はこいつが運びますので、貴重品だけ持って付いて来て下さい。屋敷はここから歩いもらうことになります。ご案内しましょう」
そうして戸惑う一行に背を向け、足早に船着場を離れた。

   

   
辛うじて海に突き出た場所はコンクリートで固められてはいたが、まるで田舎のバス停留所なみに小さなほったて小屋があるばかりの船着場を後にすると、そこには深く岸壁を抉られた海岸が続き、海岸は直ぐに山道に繋がっていた。
案内されたその山道は道幅こそ広かったけれど傾斜が非常にきつく、そこここに雪が残っていた為に足を取られ、安易に登れる道ではなかった。
初めは左右に生い茂る樹木や珍しい島の風景にきょろきょろと物珍しそうに眺めていた麻衣や綾子も、そのあまりの困難さに次第に視線を足元に固定し、必死に歩くようになった。そうして黙々と坂道を登ること20分余り後、道は唐突に途切れ、姫のお屋敷と呼ばれる家屋の大きな門扉が一行の視界に入った。
その門は潮に吹かれ今にも崩れそうなほど老朽化が進んではいたけれど、幅5メートルをゆうに超える大掛かりなもので、鄙びた島の風景とは場違いな荘厳な装飾が施され、圧倒的な迫力をもってして一行を迎えた。

「すっげぇ立派な門!」

横に続く長い白壁を見渡しながら滝川が大声を上げると、それまで無言で先導していた朋樹もようやく表情を和らげ、正面の扉を苦心して開けながら説明した。
「姫乃島は古くは江戸時代から貴重な薬草が取れる土地だったんです。少し離れた所には専用の畑や家屋があります。独自の製法があって、それで加工した薬を手広く売って利益を得ていました。私が勤めている***製薬会社も、元はといえばこの島の薬草を販売するためのものだったんです。そのためにこんな離島ではあるんですけど比較的裕福な暮らしを送っていて、姫神さんの家屋敷はその象徴でしたから、中も古いですけど中々のものですよ」
「そのツテで製薬会社に?」
咄嗟に不躾な質問をした滝川に、朋樹は苦笑しながら首を横に振った。
「そこまで強いパイプは流石にもうないですよ。普通に薬科大に進学して、入社試験を受けて採用されました。でも、確かに親族が多いのは事実ですね。島から離れる時も、そういった親戚を頼った家族は多かったですし」
「へぇぇ」
錆び付いた閂をこじ開け、古く乾いた扉が開くと、朋樹が説明した通り、その中には古く、寂れてはいるが元は荘厳華麗だっただろうと窺わせる立派な日本家屋と粒の揃った玉砂利が敷き詰められる広い前庭が待ち受けていた。背後から上がる感嘆の声を聞くとはなく耳にしながら、朋樹は少し誇らしそうに眉尻を下げ、慣れた足取りで飛び石の上を進んだ。