草子は北西に面した台所として使用している囲炉裏間に向かい、そのまま土間に下りて大きな造り付けの棚から自動では湯沸しのできない旧型の重そうなポットを引っ張り出した。
数歩遅れて後を付いてきた麻衣はそれを見、草子に続いて土間に下りようとした。が、側には草子が履いているものの他に履物がなく、麻衣のそこで二の足を踏んだ。
土間とは床板が張られず、そのまま地面になっていることと知識では知っている。さっき入ってきた玄関口も土足だった。――― でも、この床ってツルツルしてて土っぽくないんだけど?そのまま降りてもいいのかなぁ?
麻衣は畳に膝をつき、そこから身を乗り出して難しい顔で地面を見つめ悩んだ。
その間に草子はポットを洗い、湯を注ごうと振り返り、そこでようやく畳に正座して固まっている麻衣に気がつき、怪訝に思って声をかけた。
「何しとるんや?」
その訝しげな声に麻衣はゆっくりと顔を上げ、草子の顔を見つめ尋ねた。「え・・・・・とぉ、この下って " 土 " ですよね?」
靴下で降りちゃダメですよね?と、しごく真面目な顔で尋ねる麻衣に、草子は呆れて言葉をなくした。
#004 姫神さん
「まったく、今の若い人は土間も知らないんやねぇ。しかも土ってなんや、土って。他に言いようなんていくらもあるやろう」
呆れ返ったといった体の草子に麻衣は面目ない、と顔を赤くした。
「すみません、土間って初めて見たもんで・・・」
その様子に草子は大袈裟にため息をつき、ついで愛想のない口調で尋ねた。
「お嬢ちゃんいくつなんや?」
「19歳です。谷山麻衣って言います」
「谷山さんやね。地元はどちらやの?」
「東京出身です」
「あぁ、東京ならしょうがないやろねぇ。けど、家になくとも親御さんの実家とか、田舎で見たこともなかったんかね?まぁ、土間なんて不便なものやし、今は本当に少ないんやろうけど」
俺は島から出たことないから世間様のことこそよく分からんが、と言う草子に、麻衣は手渡されたお茶のセットを受け取りつつ首を傾げた。
「どうでしょう?私は逆に東京以外のことって知らないんですよ。両親はどっちも身寄りがなくて、田舎ってものを持ってませんでしたし」
「あら、そうなん?それじゃぁご両親はえらい苦労したんやろうねぇ」
「そうですねぇ、子供の私には詳しく言いませんでしたけど」
他人事のように距離を置くその物言いに、草子は不愉快そうに顔を顰めた。
「いやや、苦労したに決まってるやろ。自分が子供やって甘えていばかりじゃダメなんだ。そのへんを考えてやらんと親も気の毒やろう。大体昔に比べて今の子どもは大きくなるのが遅すぎるんや。親なんてまだ元気や思っている内にいなくなってしまうんやから、できる内に大事にしないといけないよ。あんたさんくらいの子やったらまだ考えたこともないやろうけど、親が死んじまうっていうのは、本当に辛いことなんやからね!」
少しキツイ物言いだったが、そのくらいでないと分からないだろう、と、草子はふんと鼻を鳴らした。
島でしか暮らしたことのない草子には、栗色の髪をした麻衣は髪を赤く染めた不良の子にしか見えなかった。その外見から草子は麻衣のことを一緒にいた派手な女と同じような気が強く、いけ好かない子供に違いないと決めてかかっていた。
そもそも、草子にとってSPRの集団の中で、まともに見える人間はいなかった。島に来る前から嫌な気持ちはしていたけれど、顔を見てその予感は当たったと草子は警戒心を強めていた。「そうですね、辛かったです」
けれど、何気なく囁かれた麻衣の呟きを耳聡く聞きとめ、草子は正面で手際よく茶器を拭き揃える麻衣の顔をまじまじと覗き込んだ。
「親御さん・・・・亡くなってるんかい?」
「あぁ・・・まぁ、そうなんですよ」
「まだ若いやろう?」
「そうですねぇ」
「で、どっちがや?」
続く不躾な質問に、麻衣は僅かに困ったように微笑んだ。
「え・・・とぉ、どっちつぅか、どっちもなんですよね。ウチって親子揃って "みなしご" なんですよ」
そう言った途端に、痛ましいような顔をした草子を見つめ、どうしてこんな話になってしまったのだろうと麻衣は自問しつつ、できるだけ明るく慣れた説明を繰り返した。
「あ、でも中学まではお母さん生きていていましたし、その後も色んな人に助けてもらったりしてるんで、人が言うほど大変なことってなかったんです。今は奨学金で大学も行ってるんですよ」
けれど一旦曇った草子の顔が晴れることはなく、そのまま悲壮感すら漂わせ、草子は何故か箱に入ったままの菓子折りをどこからともなくかき集め、これも食べろ、あれも食べろと麻衣に手渡しながら首を振った。
「そんなことないやろう、大変やねぇ。寂しいやろう?」
「え?ははは、まぁそれなりです。でも友達たくさんいるし」
「友達と家は違うやろう。最後にアテになるのは家や」
「・・・なんですかねぇ」
「そりゃそうや!母方の家だけでも親戚がいれば良いんやろうけど、ほんとに誰も知らんの?」
自らの経験を唯一絶対の価値観に据え置いている女性にありがちな強引さでもって詰め寄る草子に、麻衣はある種のデジャブを感じつつ曖昧に頷いた。
物見高いが悪意があるわけではなく、それはそれで心を砕いている" 優しい女性達 "
母子家庭から孤児になった間に、そうした女性にたくさん助けてもらったのもまた事実だったけれど、正面切って " かわいそう " と位置づけられるのも中々に複雑で、麻衣は冷や汗をかいた。と、その時、背後から涼やかな声がかかった。
「草ばぁばがそう喋るから、お嬢ちゃんが困ってるやろ」
その声と同時に冷たい風が囲炉裏間に舞い込み、その寒さに驚いて振り返ると、そこには開け放たれたくぐり戸から土間を覗く女性が一人立っていた。
「姫さん」
草子はその女性に気がつくやいなや、慌てて居住まいを正して声をかけた。
「お勤めお疲れさんでした。さっき内郷先生が言っていた東京のお客さんが・・・」
「知ってる」
チョコレート色の丈の長いダウンコートを着込んだその女性は、声をかけてきた草子にぞんざいに返事をしつつその場で体についた雪を払い、土間に足を踏み入れた。
外より暗い土間に立つと、その女性の肌の白さが際立つ。
美形など嫌と言うほど見慣れているはずの麻衣ではあったが、そこでようやくしっかりと見えたその女性の佇まいに、思わず腰を抜かしたようにその場に座り込み、呆然とその顔を見上げた。
年の頃は30代前半といったところか。
その容姿から若々しさというものは既に抜け落ちており、雑誌やテレビで見慣れた華美な美しさはなかった。けれど、その女性はさながら大理石で彫られた美人像がそのまま具現化したような、こっくりと深みのある見目美しい姿かたちをしていた。
痩せ過ぎず、太過ぎず、大き過ぎず、小さ過ぎず、尖ったところが一つもないように、奇跡的なバランスで丸く調和の取れた体に、内に光を灯したような、とろりとした乳白色のキメの細かい肌をしており、それはふっくらとした女性らしい肢体によく似合い、胸騒ぎを覚える程の蠱惑的な魅力に満ち溢れていた。
その女性はじっと自身を見つめる麻衣に気がつくと、神々しいばかりに明るく白い顔を綻ばせ、その優しげな容姿には不似合いな男のような口調で麻衣に話しかけた。
「雪が来る前に着いて良かったな」
その声に麻衣はようやく自分が彼女に見惚れていたことに気がつき、弾けたように顔を真っ赤にして、慌てて頭を下げた。
「は、初めまして!今日からこちらの調査に来た渋谷サイキックリサーチの谷山麻衣と言います」
女性はやんわりと頷き、ブーツを脱ごうと囲炉裏間に上がり込んだ姿勢のまま草子に声をかけた。
「今日はまだお精進料理やないやろう?随分遠い所から来てもらったんや。今晩はせいぜいふるまったってや」
「分かってますよ」
「よろしゅうな。トモ兄さんも草ばぁばの料理やったら喜ぶだろうし」
それはそうだろうと、心なし胸を張る草子に、女性は目を細め、土間にブーツを脱ぎ捨てた。
「そしたら食事が終わったら呼んだってや。挨拶しに行くし。ついでに島の話をしたいから、大樹を呼んでおいて。草ばぁばも一緒にいてくれるといいな」
「それは構やしませんけど、一緒に夕飯食べないのか?」
「ああ・・・悪いが、今日は朝から歩き通しで疲れた。湯浴みしたらそれまで寝る」
女性は億劫そうにそう言いながら、ダウンコートの前を開け、中に挟み込んでいた髪を広げた。そうして無造作に流された髪は腰を覆うほどの長さで、驚いた麻衣の目がそれに釘付けになっていると、その視線に気がついた女性は自身の髪を掴み、束を口元に寄せ、低く笑った。
「髪には神力が宿るいう言い伝えがあってな、おいそれとは切れなくてこのざまや。長過ぎて気持ち悪いやろう?」
「え?ええええ?!ぜんぜん!すっごく綺麗です!!」
古来の日本女性が黒髪を命と大切にしていたという故事を立証するように、その髪は驚くほど長いというのに、しっとりと艶やかな光沢を持つ見事な黒髪だった。それをなんとか説明しようと、頬を染めて熱弁する麻衣に、女性はそれは良かったと微笑んだ。
「それならきっとここの温泉のお陰やな。お嬢ちゃんも入るといい」
「あ・・・は、はい!」
「詳しい話は夕飯の後や。一緒に来た人らにもそう伝えておいてや。それまで風呂でも入ってゆっくりしているといい。風呂場は大きいから、大人でも4,5人やったら一緒に入れるし、場所とかはこのおばちゃんに聞けば教えてもらえるやろう」
そう言うと女性はすくりと立ち上がり、そのまま囲炉裏間から抜ける廊下に向かった。が、その途中でふと足を止め、麻衣の方を振り返りつつ声をかけた。
「言い忘れとったな。俺はこの島で巫女をやらせてもらってる 月子(つきこ) と言う」
そしてその女性、月子は、それだけ言い置くと、それじゃぁな、と、後ろも振り返らずに暗い廊下の奥に消えて行った。
大樹や朋樹、それに滝川らの面々によって次々とベースに運び込まれる機材の荷解きをしながら、麻衣はうっとりと眼を細め、興奮した調子で声高に囲炉裏間で出会った " 姫神さん " について誉めそやした。
「とにかくねぇ、すっごいすっごい綺麗な人だったの!!それですっごい優しいんだよ!」
運び込まれる機材をチェックしながら、安原はその話に相好を崩し、感心したように相槌を打った。
「それは良かったですねぇ。僕も早くお会いしたいなぁ」
安原の相の手に麻衣は満足そうに頷き、キラキラと眼を輝かせて熱弁した。
「夕飯の後には挨拶に来てくれるって!多分安原さんもびっくりするよぉ」
「楽しみですねぇ。あ、所長。とりあえずカメラ全部来ましたけど、どうしましょう?」
「1度ここでセッティングして状態を見る」
「ナル、それでしたら先にモニタを繋ぎましょう」
「ああ・・・今回は電源が弱いから、モニタはストレートで、本体の方には・・・」
「ふっくらもち肌って感じでねぇ、触ったら温かそうな感じのする人だったんだよねぇ。言葉使いは男っぽいんだけど、それでも女らしくてさぁ、大人な感じに落ち着いてて・・・」
「麻衣!喋ってないで手を動かせ」
しかしそんな夢見心地の気分は鋭い叱責で一掃される。
麻衣は不服そうにぷくりと頬を膨らめ、叱責の主に抗議した。
「ちゃんとやってるじゃん」
「梱包一つ開けるのに何時間かけるつもりだ?やるなら効率よく動け」
あんたは小姑か!と、麻衣は目をむきながらも、渋々軍手をはめ直し、几帳面に詰め込まれた細々とした備品を畳に並べた。そうしてふと、無骨な軍手に包まれた自分の手に目を止めた。
「温泉がいいって言ってたけど、あの湯上りたまご肌も温泉のおかげなのかなぁ」
呟きながらひらりと掌を返し、ついでベースの奥に繋がる部屋に視線を転じ、麻衣は唇を尖らせてため息をついた。
「早く入ってみたいけど、綾子ったらちっとも起きないんだもんなぁ」
そして思いついたように、不機嫌を顔に書いて書類を睨むナルを見上げ、へらりと笑った。
「ね、ナルも温泉入ってみたいと思わない?髪しっとり、お肌つるつるになるよ?」
ね?と、愛らしく小首を傾げる麻衣を、ナルは眉ひとつ動かすことなく完璧な無表情で見下ろし、ため息と共に視線を外した。
「生憎容姿に不足を感じたことはない」
もはや聞き慣れてしまった不遜な態度と自信過剰な物言い。
呆れてやるのももはや煩わしいと、麻衣はべっと舌を出し、憎まれ口を叩いた。
「まぁ顔はそうだろうけどさ、温泉にでもつかってゆっくりすれば、そのギスギスした性格も少しは丸くなるんじゃない?」
できる努力はした方がいいよ。と、麻衣がふてぶてしくも小憎たらしい文句をつけると、ちょうどその時ベースにマイクスタンドを運び込んできた滝川が聞きとめ、反射的に噴出した。
ぶふっと、もれたくぐもった笑い声はベースに嫌な風に響いた。
慌てて滝川は口元を閉めたけれど時既に遅し、流れる不穏な空気を拭うことはできない。
呆然と落とされる沈黙。
それは果てなく重い。
事の成り行きに思わず硬直するリンとジョンの横で、ナルはゆっくりと頭を振り、ようやく気がついたといったように視線を彷徨わせ、麻衣の正面に視線を固定した。
そうして、びくりと麻衣の肩が揺れるのを確認し、ナルは口元を釣り上げた。
「わざわざ持って回った言い方をしなくても宜しいんですよ?谷山さん」
「う?」
そうして、嫣然とした笑みを浮かべ、
「そんなに一緒に入って欲しいなら、仕事が終わった後に付き合ってやる。だからそう焦るな」
息の根を的確に止めるべく妖艶に囁いた。
その意思が望むとおりに、たちまち茹でダコのように真っ赤になって硬直した麻衣と、白を通り越して真っ青に顔色を変え、足元に重いカメラスタンドを落とした滝川に、ナルは溜飲を下げたようににっこりと形よく微笑み、地の底から響くような低い声で止めをさした。「次につまらないことを言ってみろ。無能な上、騒音の元として海に放り出す」
それが単なる脅しとして存在しないことを知る面々は、身に刻み込むようにそれを拝聴し、無言でその声の主のご尊顔から顔を背け俯いた。