「山登り・・で・・息は・・上が、る・・・・けど、耳とかマジ痛てぇ!寒みぃ!!」
ざっくざっくと、足跡のある雪道を登りつつ、息も切れ切れに滝川が不平を言うと、前を歩いていた安原はくるりと振り返り、ポケットの中から携帯懐炉を取り出し差し出した。
「お古ですけど使いますか?」
「マジ?くれんの?」
「いいですよ。僕、この他に2つ付けてますから」
安原のその言葉に一旦顔に喜色を浮かべた滝川は我に返ってマジマジと安原を見返した。
その装いは東京ではついぞ見かけたことのない完璧な防寒具にしっかりと包まれている。
「つぅか、何その重装備?もしかして背中のリュックも機材じゃなくて私物?」
「半分ほどは」
「何で?」
「何でって・・・・昨日、今日は大変な山登りになるって言われましたので、完全武装してきたんです」
「そうは言ってもよぉ。何でそう都合よく色々揃ってんの?ありえねぇべ」
ずるい、とでも言いたげな滝川に、安原は指折り数えてその理由を教えた。
「時期も時期ですし、立地から考えて山登りの可能性もありましたし、島の位置関係から考えたら東京より寒いんだろうなぁって思って、大学の山岳部の連中に装備一式借りたんです。ちょっとオーバーかなぁとは思ったんですが、こうなってみると良かったですね。雪山は甘くみると怖いですから」
「・・・・・」
「そんな目で見ないで下さいよ。こういう時にこそ準備がいいのが、僕らしい証でしょう?」
安原はころころと笑いながら分厚い手袋越しに、まだ温かい携帯懐炉を滝川に手渡した。
#008 分岐点
予定よりも養生園の設置が早く終わったので、大樹を道案内に、ナル、麻衣、安原、滝川は日の高いうちから島中央部の深山に向かった。
山の中に3箇所点在する社の内、大樹が最初の設置目標としたのは、養生園より南側の山道を登った先、山の中腹にある鳥宮(とりみや)と呼ばれる社だった。
そこが屋敷より一番遠く、反対に養生園から一番近いというのがその理由だったのだが、確かに養生園より木々の合間に社の白い屋根が見え、鳥宮はさほど遠くにあるようには見えなかった。
そこへ向かう山道も登山道というほど本格的ではなく、あくまでハイキングコースの延長だという言葉通りに、道に慣れた大樹は誰よりも重い機材を担いだ上で、平坦な道を歩くのと同じスピードで移動していた。そのままであればものの20分もしないうちに社には到着できたはずだった。
たが、足場の悪い細い山道を重い機材を担いだ上での移動は酷く困難なもので、不慣れな人間がそれを真似ることはもちろんできず、残雪に何度も足を取られながら、悪戦苦闘して一行が鳥宮に到着したのは13時半を過ぎた頃だった。
それから山の中腹にかじりつく様に立てられた社内部に、麻衣が一人で全ての機材を運び込み、設置することになったのだが、これもまた酷く手間がかかり、普段であれば30分もかからない作業に実に1時間半の時間がかかった。
それでも時間が早いのと、天候に恵まれたこともあり、麻衣の体力が回復するのを待ってから、一行は更に山の上部にある二つ目の社に向かった。
二つ目の社は鳥宮から更に徒歩で20分程上に登った先にあった。
方角で言えば真南にあたり、日の光が最後まであたる場所だったことから、設置に再び時間がかかることを考慮しても、社を経由して屋敷に帰るには十分に時間があると判断しての選択だった。
しかし、社に向かう途中から空模様が一変した。
明るい日差しは雲間に隠れ、それとともに強い向かい風が行く手を遮った。
風は昨夜降ったばかりの新雪を巻き上げ、周囲を吹雪に見紛うような景色に変えた。そうなると山の寒さは一気に下降し、視界不良のため、社に向かう山道は酷い悪路と化した。
先頭を歩いていた大樹は手元の時計と空模様を見比べ、直ぐ後ろのナルを振り返った。
「ダメや。今日のところは引き返した方がいいやろう」
「まだ次の社まではありますか?」
「あとすぐや。もうそこまで来てる。けどこの先こそ道がおっかないことになってるんや。行くまではいいが、そこでまた時間くぅこと考えたら、帰りまで空がもつかわからん。無理はせんほうがいい」
「・・・・」
「山の天気は港と違う。甘くみると痛い目あう。何も今日明日で島の様子が変わることはない。もう一つのお宮さんと一緒に明日行けばいいやろう」
「・・・・仕方ありませんね」
ナルは小さくため息を落とすと、手元のトランシーバーのスイッチをオンにした。
「リン、聞こえるか?」
『 ・・・・ はい 』
「山の天候が悪くなった。こちらの機材設置は最初の一箇所のみとして、今日は一旦引き返す」
『 ちゅう・・・し、・・・かり・・・・た 』
雑音の酷い受信状況にナルは顔を顰めつつ電源を切った。
その会話が終わるのを見計らって、大樹はぐるりと周囲を見渡し、僅かに思案した後に前方を指差し言った。
「ここまで来るにも随分時間がかかり過ぎてる」
「そうですね」
「この天気やと暗くなるのも早まるやろうから、引き返して下道通ってると真っ暗になってしまうやろう。そやから、この先は獣道なるがこのままつっきって、山の尾根に出て、そっから屋敷に下りてしまうのがいいと思うんや」
「獣道?」
「動物が使うような道ってことや。もっと細っこくなるから、服は汚れるやろうけど」
大樹の説明にナルは眉をひそめたが、すぐ後ろから麻衣がひょこりと顔を出し、ほっと安堵したような声を上げた。
「そっちの方が早いんですか?」
その場で足踏みをしながら尋ねる麻衣の足元を見つめながら、大樹はそうだと頷いた。
「距離だけなら随分違う。あんたさんも寒いんやろう?早く帰ったほうがいい」
視線に誘われるようにナルは麻衣の足元に視線をやった。
寒がりの麻衣は安原に負けず劣らずの厚着をしていたけれど、足元までは気が回らなかったらしく、月子に借りたサイズの合わないブーツからはみ出したパンツの裾は雪や泥で汚れ、見た目にも寒そうに濡れそぼっていた。ナルはそのまま麻衣の後ろに続く安原、滝川を見遣り、特に疲労具合の激しい滝川に注視した。
山は登りよりも下りの方が体力を使う。
今はまだ自分や安原に余裕があるが、それもこの悪天候では見る間に体力を奪われていくだろう。それよりなにより、唯一効率的に除霊ができる滝川がへたばっていては話にならない。
「暗くなる前に戻ることが先決ですね」
呟いたナルに大樹は無言で頷き、進路を普段は使わない獣道に変更した。
それが、結果的に大きなトラブルを起こすとは、夢にも思わず。
一方、島の北東部にある社に機材設置に向かった朋樹、ジョン、綾子の3人は、際立ったトラブルもなく、比較的楽に作業を終え、ついでに綾子が気になるという場所で車を止めながら、島の周囲をぐるりと巡り、その後に屋敷に戻った。
3人を出迎えたのは、頬に白い粉をつけた割烹着姿の草子だった。
「ほっぺたに粉つけて、何してんるんや?」
朋樹が笑いながら指摘すると、草子は気恥ずかしそうに顔を赤らめながらそれを袖で拭った。
「正月さんの準備に餅ついてたんや」
「餅つき?おんちゃんがか? そんなえらいことやるんやったら言ってくれたら手伝ったのに」
「お宮さんにあげる大切な分や、お飾りに使う分は先にダイについてもろうてあるんや。今日は俺たちが食べる用にべっこばりつくんやったんやから、手伝いなんていらんいらん」
「そうなん?」
「本当言えば、今日の午前のうちに終わらせる考えやったんやけど、昨日遅かったやろう?
朝にお弁当こしらえたら、なんや気が抜けてしまってな。お昼寝してたんや。それで遅くなってしまったんやけど、ちょうどいい。つきたての餅、少し食べなさい」
そうして草子は朋樹らを餅つき途中の囲炉裏間に案内し、そこでまだ小分けにされる前の大きな丸い形をした餅の塊から、一口サイズに餅を掴み取り、それぞれの前に並べた。
「うわぁ、ボク、お餅つきってほんまもん見るの初めてです!」
土間に並んだ臼と杵にジョンは歓声を上げ、それを手にしていた重三ははしゃぐ金髪碧眼の青年に明らかに戸惑い、おどおどと草子の側に寄りそい、失笑を買った。
「おんちゃん、ブラウンさんは日本語ぺらぺらやから、そない怯えんでも大丈夫や」
朋樹はけらけら笑いながら、慣れた様子で土間の棚から砂糖と醤油瓶と小皿を取り出し、綾子とジョンに薦めた。
「熱いところを砂糖醤油で食べると美味しいですよ」
「いただきます。うわぁ、本当に熱くてやわらかぁい!」
「お餅の周りについている、このお粉は何でっしゃろ?」
「片栗や」
はしゃぐジョンの後ろから、落ち着いた答えが響いた。
声がした方向を仰ぎ見れば、そこには白装束で身を包んだ月子がぼんやりとした様子で立っていた。その日常とはかけ離れた装いに綾子とジョンが言葉をなくしたが、月子は頓着せず、ずかずかと囲炉裏間に上がり、慣れた手つきで白装束の裾を払った。
「お帰り、トモ兄さん。それに松崎さんにブラウンさんやったな」
「あぁ、はい」
「頂いとります」
「ただいま、姫神さん」
「姫さん、今日のお勤めは終わりましたんかい?」
「とりあえず昼間の分はな。腹減った。草ばぁば、俺にも餅分けてくれ」
月子はそう言うと部屋の隅に腰を落とし、綾子らに視線を投げた。
「どうや?何か見たか?」
白装束に身を包まれた月子は気高いように美しかった。
それに触発されたわけではないが、綾子は背筋を伸ばして答えた。
「昨夜、滝川と安原は足音を聞いたみたいですけど、その他はまだ見てませんね」
「北のお宮さんへ行ってきたんやろう?その割には随分時間がかかったな。もう夕暮れや」
「ああ、社の方は比較的早く終わったんですが、ついでに活きている樹がないかと思って、車で走れる場所だけでしたけど、朋樹さんに島を一周しながら案内してもらったんですよ」
「なんや、それ?」
悪意はないのだろうが、発する言葉全てに力のある月子に、綾子はたじろぎながらも答えた。
「正式に神宮に仕えているわけじゃないんですが、実は私も巫女なんです」
「へぇ」
「私の場合は信仰の残っている活きている樹があると、そこの精霊に力を貸してもらって浄霊したり、色々教えてもらったりとかできるんですけど、そもそもそういった樹がないと、できることは極端に少ないんです。だから、この島に協力してくれる樹がないか、ちょっと探していたんです」
綾子の話に月子は俄然興味を持ったらしく、食べかけの餅を側に置くと、身を乗り出して尋ねた。
「そら、面白いな」
「・・・おも・・・」
「で、どうやった?島には話をしてくれる精霊やったけ?そういうのはおったんか?」
月子の率直な質問に、綾子は戸惑いながらも難しい表情を浮かべて唸った。
「信仰のあった島だけあって、随分強い精霊の気配はたくさん感じます」
「そらそうやろう」
「でも、まるで耳を塞がれているみたいに、声は聞こえるんだけど話している内容まで聞こえないっていうか・・・・・ちょっと気持ち悪いような感じなんです。間に壁があるっていうか、精霊が私を無視しているような感じなんです」
「つまりはよう分からんということか」
自分の感想があまりに簡単に省略され、綾子は難しい顔をしたが、感情のまま怒鳴るのは女が廃ると本能で理解し、喉下まで出かかった文句を何とか堪え、精一杯の微笑みを浮かべた。
そうして面白くなさそうな綾子をよそに、全体的には和やかな雰囲気の下、それぞれが満足するまで餅を食べ、お茶を飲み一息ついていると、突然、慌しい足音がして乱暴にくぐり戸が開けられた。
ガラリと乱雑に開けられた戸からは怖いような顔つきの大樹と滝川が飛び込んできて、その後をナルが追ってきた。驚く面々を無視して、駆け込んできた大樹と滝川はそれぞれに声を上げた。
「トモ兄!軽の鍵出せ!」
「鍵?」
「ジョン!俺のバッグから何でもいいから着るもん持ってきてくれ」
「滝川さん?」
滝川の怒鳴り声に大樹は厳しい顔で見下ろした。
「あんたも来る気か?」
「当然だろう」
「土地分からんもんが行っても役に立たん。ここで待っとけ。あっちにはトモ兄も連れてくから」
「まだいくらか日があるうちに人海戦術で行ったほうがいいだろう?連れてけ」
「もう暗い。無茶や」
「そんなん言ってたらラチあかねぇだろうがよ」
「逆に危ねぇっていってんだ!!」
突然始まった激しい言い争いに囲炉裏端に集まっていた面々は面食らいつつも、宥めるように大樹と滝川それぞれに声をかけた。
「ど、どないしたんや?」
「とりあえず落ち着きなさいよ、坊主」
「そ、そうです。まずは大樹さんも滝川さんも落ち着いて!」
「そうや、何があったか説明・・・・って、安原君と谷山さんは?」
「そうよ、少年はどこよ?」
「一緒やなかったんか?」
混乱の様相を呈するその場に、低い声が一段別の場所から響いた。
「麻衣と安原さんが谷に落ちたんです」
嫌に落ち着き払ったナルの声にその場は一時静まり返った。
けれどむろんそれだけで事態が収まることはなく、息を飲む声にならない声と同時に鋭い声がその場を突いた。
「大樹!! どういうことや?!」
月子の叱責に、大樹は朋樹から車のキーを奪い取りつつ、顔を正面に向けて口を開いた。
「午後一で、深山の鳥宮に行ったんや。そこを出て、奥の宮さんに向かう途中から空が怪しくなって風が出てきた。それで八分くらいは進んだんやけど、暗くなる前に戻った方がいいやろうと思って、引き返すことにしたんや。床峰にあたる所や。その時、雲が随分下まできてたから、下道に引き返すのをやめて氏神さんに出るわき道を選んだんや。そうでないとこの時間には戻って来れん」
「それで・・」
「ちょうど尾根に上がったところで強い風がきて、谷山さんが足を滑らしたんや」
大樹は忌々しそうにそう言うと、無骨な手をぎゅっと強く握り締めた。