それは一瞬の出来事だった。      

            

        

    

    


#009 非常事態
    
      

    

     

     

一陣の風が唸り声のような音を立てて吹きつけ、ちょうど尾根に登った麻衣の足を掬った。
雪でぬかるんだ足元、軽い身体、疲労のため既に覚束なくなっていた足取り、慣れないブーツ。
いくつかの不安要素がその瞬間、きれいに一列の法則を生み、麻衣の身体はそのまま斜めに傾ぎ、声を出す間もなく空中に放り出された。
真後ろを歩いていた安原が咄嗟に手を伸ばして麻衣の腕を掴んだ。
しかしその程度の力で無防備にも空中に投げ出された人一人の重量をとどめることなどできず、それでも手を離さなかった安原は巻き込まれる形で一緒に山の尾根から谷底に向けて転落していった。
その間、僅か2,3秒。
列の最後尾を歩いていた滝川はその時安原の登山ブーツが雪を蹴り、宙を舞う瞬間を目にした。
けれど疲弊し切った体で重力と同じスピードで落下していくそれに間に合うだけの反応ができるはずもなく、すぐ前を歩いていたナルが雪が崩れる音に振り返った時には既に、2人は急な崖を転がり落ちていくところだった。

    

     

       

顔面蒼白で睨みつける綾子の厳しい視線を受けながら、大樹は月子に促されるまま苦々しくその時の状況を説明した
「落ちたって・・・・峰からか?どっちに?」
「西や」
「西・・・っていうと、養生園の方か」
「そうや。あそこの尾根から直に下に降りていくことはできん。下道をぐるっと回って山に近付いて登るしかない。そやから一時屋敷に戻って車で行ったほうが早いと思って帰ってきたんや」
「・・・・・」
「そやけど、思いの他風が強くて、中々降りてこれんかったから、遅くなってしまったんやけど・・・」
大樹の説明に、月子は険しい顔をしたまま一歩歩み寄り、どこか怖いような声色で更に尋ねた。
「そら、時間を考えたら氏神さんの道が一等早いなぁ」
「ああ」
「けどあそこは尾根を歩くことになる」
「そうや」
「もともと尾根の道は風が強いと吹き飛ばされるから危ないやろう。そやのに風があるとわかって、大樹は初めて山に入る人達にわき道を歩かせたんか?」
指摘され初めて思い当たったようで、大樹は大仰に目を丸くし、顎に手をあてた。
「そら・・・・」
大樹はそのまま訳が分からないといった顔で俯いた。
「そうや、な」
「暗いのは確かに危なっかしいが、遠回りでも下道辿った方がなんぼかマシやろう」
「そうや・・・」
「どうしてや?大樹はこんな間違いするの違うやろう?」

大樹はそうや、と口の中で繰り返しながら困惑顔で月子を見つめた。
「わからん」
「は?」
「いや、何で自分がそっちの道選んだんか、分からん」
大樹は混乱したようにしきりに頭をかき呻いた。
「なんや知らんが、あの時は早く帰らんとってそのことで頭がいっぱいになってた」
「・・・・」
「やから、氏神さんの道をどうしても通らないといけんって・・・」
月子はしばしの間大樹を睨みつけたが、すぐに埒が明かないと判断し、俯いたまま大樹の手から車のキーを奪い取った。
「なんや大樹。お前、今日様子がおかしい。もうこれ以上ものを考えるな」
そして朋樹の方を振り返り、その手に車のキーを渡しながら月子は口を開いた。
「トモ兄さん、話の通りや。今すぐ山へ行こう。運転したって」
「分かった」
「いけん!姫さんはお篭り中や!!」
すかさず草子が険しい声を上げた。それに月子も嫌そうな顔をしたけれど、自分のいでたちを思い出し、主立って抵抗せずに頷いた。
「そうや、正月前で俺は行くことができん。トモ兄さん、お願いしてもいいか?」
「もちろん」
朋樹は頷きながら視線をめぐらし、小さな窓から外の様子を窺った。
「もう外は暗くなってきている。山で風が出たんなら、じき西側も吹くようになるだろうな」
「順番から言えばそうなるやろうな」
「それに山の西側は広い。てっぺんで落ちたなら、どこに転がったかまでは分からないな」
「樹が多いから途中でひっかかっているやもしれんが、それを考えたらきりないやろう」
「そうだな、まずは大樹が考えたように下道からすぐ上の丘になっているところを中心に横に探していくのがいいだろうな」

「落ちた2人を探せるのは吹雪になる前までや。いくら深山さんでも、夜中で吹雪いたら危ない」
落ち込む朋樹をおいて、月子と朋樹は矢継ぎ早に対策を決めていった。
「おんちゃん、蔵に外用のでっかいハンドライトがあったやろう?」
「あ、ああ」
「あれがないと話にならないやろう。すぐ出して来てや」
「それと長いロープだ」
「ロープ?」
「山を登る時、それぞれの身体にくくりつけておくんだよ。そうしたら二重遭難を防げるだろう」
朋樹が何気なく口にした"遭難"という言葉に、その場は一気に冷たくなった。
月子は神妙な顔つきで頷きながらも、硬直する面々に次の行動を促した。
「とにかく時間との勝負や。山の夜はきつい。すぐ準備しいや」
そして言葉を失くす大樹にようやく顔を向けると、厳しい口調で厳命した。
「大樹、お前は余計な口は挟むなよ。今日のお前は変や」
「・・・・」
「けど、あの場所で一番うまいこと動けるのは、それでも大樹やろう。行くな?」
それは疑問系の形を取られてはいたが明らかな命令で、大樹はそれに強く頷いた。
とするとその脇から滝川とジョンが同時に口を開いた。
「俺も行く」
「ボクもお役に立つなら!」
滝川とジョンが腰を上げると、視線は自然、ナルに流れた。
その視線を受けて、ナルは常と変わらない無表情で首を横に振った。
 

  

「生憎雪道には慣れていない。僕は止めておこう」
 

  

「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・そうやな。ムリはいけん」

 
その答えに、綾子はつい感情的に厳しい眼差しでナルを睨んだ。
冷静な判断はその結論を導き出したのだろうが、心情的には簡単に同意できるものではない。
遭難しているのは、ついさっきまで一緒にいた仕事仲間で、しかもその内一人は女の子で、更に言えばナルの彼女なのだ。何をおいても探しに行こうとするのが男心だろう。
見れば、滝川も同じことを感じたのか、口にこそ出さないが、憤懣やるかたないといった体でナルを睨んでいた。その視線を一身に集めたまま、ナルはつっと顔を上げた。

 
「僕は自分にしかできないことをする」
 

そして、いつの間にか囲炉裏間に駆けつけていたリンを呼んだ。

 
「リン、非常事態だ」
「・・・・」
「麻衣と安原さんの私物を」
 

ナルの言葉にその場にいた数名がはっと顔を上げた。
今までそのような目的で使用されることが少なかったためつい失念していたが、ナルのサイコメトリという能力は本来そのような目的で使用されることが多い。失踪した人物の生存と居場所を探るそれは今回のような場合とても有効だ。
それと気がついた者はぱっと晴れやかな表情を浮かべた。が、その直後にすぐそのリスクを思い出し、簡単には頷けない事情に眉を潜めながらその判断を一任されたリンを見つめた。
集まる視線の中で、リンは不本意そうな厳しい表情でしばらくナルを睨んだが、限られた選択肢の幅を考慮し、重いため息を落とした。
「私も捜索に同行しようと思ったのですが・・・」
「リン?」
「お前さん、雪道歩けんの?」
意外そうな顔をしたメンバーに、リンは小さく頷いた。
「修行していた場所は山間部でしたので、雪には慣れているつもりです」
リンは淡々と告げると、ナルを見下ろし呟いた。
「お一人でも大丈夫ですか?」
「当然」
「絶対にムリはし
ないで下さい」
「ああ」
「努力する。は
、なしです。確約してください
苦り切ったと顔に書いてあるリンを見上げ、ナルは自嘲気味に苦笑し頷いた。
「わかった」
そこに渡された
張り詰めた緊迫の糸に、事情を知らない月子らは首を傾げた。
「なんやの?」
けれどナルはそれには答えず、つっと踵を返し、月子らを見据えた。

「ライトとロープならベースにすぐ使える状態で準備してあります。お手数ですがおいで頂けますか?」

    
           

            

              

       

      

     
滝川は一番にベースに取って返し、ナルが言ったロープやライト等の道具を見つけると、後に付いて来た朋樹らにそれを手渡しながら鼻白んだ声を上げた。
「ナルちゃんや、ライトはいいとしてよ、なんだって調査にロープまで準備してあったんだ?」
「山の斜面がきついようなら、機材を釣り上げる必要が出てくるだろうと、安原さんが準備したんだ」
「・・・・本当に、何から何まで準備のいいヤツ」
皮肉なものだと苦笑いする滝川の視界の先には明り取りの窓があり、そこからは今にも暮れ落ちようとする外の景色が見えた。
身支度を整え、必要最小限の機器を揃える僅かな間にも、外は急激に光を失っていき、辛うじて残された白っぽい陽の光も酷く儚く、それも後少しで潰えることは誰の目にも明らかだった。
冬の夜は残酷なまでに厚く、その足は驚くほど早い。
そんな基本的なことが今は心底厭わしいと、滝川は暗闇を睨みつけ、ぐっと息を飲み込んだ。
けれどその憎いような暗闇のお陰で、慌しい準備の最中に、リンがそれに気付いた。 
「ナル、明かりが見えます」
リンはそう言うと素早くモニタ前に屈みこみ、メインモニタを切り替えた。
それに釣られたようにナルを始めとするその場にいた面々は順にリンの背後に立ち、肩越しにその画面を覗き込んだ。切り替えられたその画像には、墨を流したような暗闇の中にチラチラと瞬く人工的な光を映し出していた。
「この映像はどこからだ?」
画面を覗き込みながら尋ねるナルの問いに、リンは一旦手元を確認した後に答えた。
「午前中に設置した養生園の遠視カメラ。2です」
「それなら、山が背景に入るな」
ナルの指摘にメンバーだけでなく、その場に居合わせた朋樹と大樹も揃って更に詳しく画面を見ようと身を乗り出した。
「どこに置いたカメラや?」
「門柱の横に置いたものです」
「そしたら角度的には・・・」
「ああ、おうとる。深山が見えるはずや」
「つーと、これは少年か麻衣が?」
「そういうことじゃないの?」
「島には他に誰もおらん」
「可能性は高いでっしゃろね」
我も我もとモニターに押し寄せる中、綾子は不服そうに怒声を上げた。
「ちょっと見えない!どけてよ!」
「うっさいなぁ、おめぇが見てもわかんねぇだろう?後ろいろよ」
「なんですってぇぇ?!」
「ま、松崎さん、落ち着いて・・・」
綾子は堪ったストレスを晴らすように声を張り上げ、難癖をつけた。
「それにもう、本っ当に見づらいわねぇ。リン、このチカチカしてんの消せないの?」
「雪が邪魔しているか、あるいは人為的に点灯させているようですから無理です」
「人為的に?ああ、手を振っていらっしゃるんでしょうか?」
矢継ぎ早な会話が続く中、ナ
ルはじっと画面を睨んでいたが、ふいに断言した
「どうも安原さんのようだな。ライトの点滅は手元のスイッチで切り替えているんだろう」
あまりにはっきりとした物言いに、面食らった周囲の人間はこれもまた好き放題に怒涛の勢いで質問を浴びせ掛けた。
「何でそんなこと分かるのよ?」
「分かるんか?」
「どこらへんでそうなるんでっか?」
「何で断言できんだよ、ナル」
「人影でも見えるの?」
ナルはそれに面倒そうに顔を顰めつつ、画面を指差し答えた。

      

「モールス信号だ」