「・・・!」

 

「・・・・・ん!」

 

 

 

白濁した意識の中、その声がかろうじて意識を現実に引き戻した。

  

 

 

「安原さん!」

 

 

 

無理にこじ開けた視界はぼんやりと霞んで、ろくに見えはしなかったのだけれど、その中に泣きそうな声を上げる麻衣を見つけ、安原は反射的に微笑んでみせた。      

            

        

    

    

      

       

     


#010 日 没
    
      

    

     

       

      

「・・・・・どうやら、山道から落ちちゃったみたいですねぇ」

 

横殴りの風が新雪を舞い上げる空を見上げながら安原がのほほんと呟くと、麻衣はその横にぽすんと尻餅をついて本格的な泣き声を上げた。
「うわぁぁん、良かったぁぁ!もう安原さん死んじゃったのかと思ったよぉぉ」
「大丈夫ですよ」   
簡単に殺さないで下さい。と軽口を叩きながら、安原は麻衣を安心させようと起き上がりかけ、その瞬間に腹に走った痛みに思わず息を飲んだ。
横になっている間は痛みもさほど感じなかっただが、動かしてみるとそこここから電気が通ったような痛みが走り、身体は全身で悲鳴を上げていた。
その痛みに促されるように周囲を窺えば、安原と麻衣がいるその場所は幹の太い木々に囲まれた鬱蒼とした森だった。山道からは随分離れてしまったらしく、上と思われる場所を見上げても、既にどこから自分達が落ちてきたのかすらよく分からないようになっている。
察するに、その木々にぶつかりながら転げ落ちてきたのだから身体が痛むのは当然で、ぱっと見2人とも無事な様子でいられるのは、単なる偶然と昨日まで降り積もった雪の為だろう。
そのことを一瞬間の内に考えながら、安原は今度は一息に起き上がろうとはせず、そろそろと身を起こし、麻衣の方を向き直ると朧に映るその姿に目元をこすった。
霞む視界は長く瞼を閉じていたせいと思っていたのだが、どうもそうばかりではない。
「眼鏡がない」
「は?」
安原の呟きに麻衣は顔を上げてまじまじと安原を見、そうだ!眼鏡!と、慌てて周囲を探した。
しかし強風で視界が遮られたのと、雪に埋もれてしまったこともあって小さな眼鏡を見つけることはできなかった。麻衣はそこで更に狼狽したが、安原はさして気に留めた風でもなく、いつも通りに穏やかに笑い、麻衣の顔前に左腕を伸ばした。
「すみません、谷山さん」
「え、え、はい?」
「おおよそは見えるんですが、眼鏡ないと細かいものは見えないんですよ。今何時でしょう?」
麻衣は突き出された腕についた時計に気がつき、急いでその針を見つめた。
「16時50分、ですね」
「ありゃぁ、結構経ってますね。僕、随分気を失ってたんですか?」
「わかんないです。私も安原さんよりちょっと前に気がついたばっかりなんです」
「そうなんですか?」
「寒くて目が覚めたんです。そしたらよくわかんない場所にいて・・・・少し離れた所に安原さんが寝ていたのを見つけて、移動してきたばっかりなんですよ」
安原は頷き、次の瞬間には浮かべていた笑みをきれいに取り払った。
「谷山さん、僕、こういうの向いてないんですが、急を要することなので真剣にお話しますね」
「は・・・はい」
一変した常にない真剣な表情の安原に、麻衣もまた居住まいを正して向き直った。それに頷きながら、安原はごく簡潔に話を進めた。
「ちなみに僕、今打撲気味らしくて、全身バリッバリに痛いんですけど、谷山さんはどうですか?」
「落ちる時に捻ったみたいで右足が痛いですけど、多分同じようなものだと思います」
「出血とかはありませんか?」
「かすり傷くらいです」
「頭痛とかは?」
「それは・・・特にありませんけど?」
「では、当面我々は身体的には無事でいいですよね?」
「ですね」
安原頷き、雲間から僅かに感じられる太陽の方角に顔を向けた。
「昨日のこの島の日没は雪が降っていたこともあるでしょうが17時前後でした。今日にした所でさほど変わりはないでしょうから、こうして周囲が見える時間は残り僅かと考えていいでしょう」
「・・・・・」
「一応、懐中電灯やランタンはありますが、それでも視界は限られていますから移動には適さない」
「・・・・」
「その上ここは右も左も分からない山の中です。しかも風で極端に視界が悪い」
「・・・・そう、ですね」
「ヘタに動くのは死活問題だと思います」
麻衣は僅かに息をつめ、それから自身を落ち着けるように胸の前に拳を作り、とんとんと、胸板を叩きながらゆっくりと息を吐いた。
「誰かが助けに来てくれるのをこの場で待つということですね?」
「そうです」
安原はそう言うと、全身から電流のように走る痛みを堪えて立ち上がり、膝を抱えて丸くなっていた麻衣に手を伸ばした。
「自力下山は不可能。しかも日没を考えたら、今日中に救援が来る可能性も低い危険性があります。そうなると今、僕達の最大の敵はこの風と寒さです」
麻衣は伸ばされた手を握り、ゆっくりと立ち上がりながら答えた。
「そしたらまず、今晩は帰れないことも考えて、避難場所を確保する必要があるってことだね」
タイプは違えど数々の修羅場を潜り抜けてきたためであろう。
突然の非常事態にもパニックにならず、肝の座った麻衣の的確な答えに、安原は強張っていた表情を僅かに崩し、口の端に笑みを浮かべた。

 

「その通りです、急ぎましょう」

        

それからすぐ、視界の利かない安原の代わりに麻衣は慎重に山中を歩きまわり、程なくして斜面にひび割れのように開いた小さな横穴を見つけた。
その穴は元は深い洞窟であったような痕跡が残っていたが、すぐ手前で崖崩れが起きて落石してしまったようで、実際に入ってみると見た目よりも奥行きがなく、天井の低いとても狭い場所だった。
けれど雪と風さえ凌げれば贅沢は言えないと、安原と麻衣はそこを避難場所と定め、痛む身体を引き摺ってその中に避難した。その直後、一際強い風が吹き、外の天気はいよいよ険しくなっていった。

「危機一髪って感じですかね」
「谷山さんグッジョブです」

安原は軽口を叩きながら少しでも手元が見えるうちにと、急いで担いでいた荷物を探り、中から簡易ランタンと懐中電灯を取り出した。そしてランタンを麻衣に手渡し、自分は懐中電灯を手にした。
「これって電気?」
「そうですよ。そこそこに明るくなります。ただ、このランタンが何時間もつかまでは分からないので、すっかり暗くなったらこれは点けましょうね」
それまで持っていて下さい、と言いながら、安原は懐中電灯で手元を照らしながらバックにねじ込んでいた紙切れにアルファベットと点と線を書き付けていった。
「それは?」
不思議そうに手元を覗き込む麻衣に、安原は思い出せない単語に顔を顰めつつ答えた。
「ツーツー・トントン」
「へ?」
「モールス信号って聞いたことありませんか?この棒になっているのがツーで、点がトン。この二つの信号音を組み合わせて情報を伝達する、昔の通信技術です」
「あ、あぁ、何かうすらぼんやりとは聞いたことありますけど・・・」
「昔無線やってる人に一回教えてもらっただけなんで、全部の単語は思い出せないんですけど」
安原はそう言いながら眉間に皺を寄せ、紙に不ぞろいなアルファベット一覧を作り、それにそってライトを点灯させてみた。
「ライトでは意外に難しいもんですねぇ。やっぱり最初は短文かな・・」
ぶつぶつと呟く安原に麻衣は首を傾げながら尋ねた。
「それで、どうするんですか?」
安原は顔を上げずに答えた。
「谷山さん、一番有名な信号って何か知ってます?」
「え?」
「トントントン ・ ツーツーツー ・ トントントン」
「いや、わかんないですけど・・・」
「 Save Our Souls. 直訳では "我々の魂を救え"」
「それが?」
「頭文字を略してみて下さい」
「え、っとぉ。セイブ・・・はSですよね?アワーはO。あとソウルだから・・・またSだから・・・」
「SOS。いわゆる救難信号です」
その単語に麻衣はあっと口を開け、安原はにっこりと微笑み頷いた。
「見つけやすいように、入り口の脇の木にタオルは結びましたけど、この中でそれを目印に見つけてもらうのは不可能でしょう?気がついてもらえるか分かりませんが、このライトで救難信号を出そうかと思いまして」
麻衣は顔に喜色を浮かべ、興奮状態で歓声を上げた。
 
「すっごぉぉい!安原さん賢ぉい!うわぁ、一緒に遭難したの安原さんで良かったぁ!!」
状況にはそぐわないが悪い気のしない歓声に、安原はごく控えめに微笑んだ。
「こういう時にこそ役立てないと、越後屋の名が泣きますからね」
そして、どっこいしょっと、その異名に似合いの掛け声と共に横穴から身を乗り出し、あてのない夕闇を懐中電灯で照らした。
 

 

 

 

 

 

根気よく送り続けた救難信号は、発信からおよそ一時間後に幸いにも受信者を見つけた。
そこからさらに10分後に、安原と麻衣はその返信信号を確認できたのだが、その光が間近までせまることはなく、最初に目撃された地点から大きく動くことはなかった。
視界不良で近付けないであろうことは容易に想像できた為、安原と麻衣はそれに悪戯に焦ることはせず、互いに示し合わせて頷いた。
既に日没からしばしの時間が経過し、周囲は暗闇に囲まれている。
何はともあれ自分達は無事で、直ぐに救助がこれないことを見越して避難場所も確保してある。一晩くらいはなんとかやり過ごすことができるだろう。であれば、素人が無理な救難活動を続け、誰かが二重遭難してしまうことだけは避けたい。
 
2人一緒であること。
無事であること。
何とか一晩くらいは凌げそうだということ。

少なくともこの3つを伝えることができれば、その危険を回避することはできる。
そこで安原は電力不足で幾分光の弱くなった懐中電灯をかざし、思い出した単語で作れる短文の信号を 苦心しながら光の見えた方角に送った。

   

    

     

 

    

 

「 U・・・ いや、2、か。  S・・・A・・・・・F・・・E・・・・I・・・・N、 C・・・・A・・・・・V・・・・・E 」
  

 

 

 

 

 

 

山の中腹から発された明かりの点滅を見つめ、ナルがぼそりと呟いた言葉に、ジョンが顔を上げた。
「渋谷さん、なにか言わはりましたか?」
「安原さんからの新しい信号です」
「なんて?」
「おそらく
 " 2 SAFE IN CAVE " と
ナルの説明にジョンは首を傾げた。
と言うと・・・・・・お2人とも無事、洞窟にいるっていうことでっしゃろか?」
ナルとジョンの会話に、斜面を登るのを諦め、傾斜を滑り落ちてきた朋樹が同じように下山してきた大樹を振り返り確認した。
「洞窟って、そんなもんあったか?」
「自然にできた洞ぐらいならあるかもしれんけど・・・」
「つまり、そこに避難してるってことか」
吹き付ける強風の中、怒鳴り合うように大声を上げて会話する面々を見渡し、ナルは小さくため息を落とし、僅かに声を張り上げた。
「おそらくその通りだろう。とりあえず急を要する必要はないようだ」
「本当かぁ?」
車を方向転換させて、何とかライトを当てようと苦心していた滝川は運転席から顔を出し、疑問符つきの声を上げた。ナルはそれには答えず、手元のライトをかざし、ゆっくりと一つの信号を送った。

 

 

" TOMORROW (明日) "

 

 

対する返信はまだ短く、OKという2文字だけだった。
けれどそれで意味は十分に伝わる。
吹き荒れる風に目を細めながらそれを確認すると、ナルは不愉快そうにため息をつき、痛いように冷たい北風よりもまだ冷たい、絶対零度の声で宣言した。
 

 

「撤収しよう」
 

 

選択肢は限られていた。