「どう見ても遭難するような高さの山ではなかったんですけど、山って奥深いですねぇ」
安原はそう言いながら担いでリュックの中を手探りで探し、中から出てきたものを手際よく分けた。
「山岳部の友達から借りたんですが、いくらなんでも雪山装備はいらないだろうと思って、かなり簡略して持ってきちゃったんですよねぇ。でもまぁ、ないよりマシですから、はい、とりあえずカイロです。後6個ありますから、時間を分けて使いましょうね」
「あ、はい」
「次はこれ、ミネラルウォーター。喉渇いたら飲んでくださいね」
「はぁい」
「残念ながら食料は少ししかないんですが・・・」
「一晩くらい食べなくてもヘイキですよ」
「ダメですよ、こういう時こそ体力勝負なんですから」
安原は真面目くさった口調でそう言い、リュックの中から板チョコを一枚取り出した。
      

 

「幸いにも遭難者は2人のみ。ちびちび分けずに豪快に半分こしましょう」

   

そうして心底嬉しそうに微笑む安原に、麻衣はたまらず噴き出した。            

        

    

    

      

       

     


#011 長い夜
    
      

    

     

    

      

       

幸いにも日没前にもぐり込めた横穴は、大人2人ですっかりいっぱいになってしまう程の広さしかなく、安原が担いできたリュックを広げるにも困難なほどだった。
その中で小さなランタンの光を中心に肩をよせあいながら、安原と麻衣はチョコレートを齧り、水筒の水を飲み、囁くような声で話をした。

 

「に、してもすごい風ですねぇ」
「本当に、これはさすがの大樹さんにも対処できなかったんでしょうねぇ」
「よもや遭難までするとは思わなかったですもんね」
「本当に予想外です」
困りきったように眉尻を下げる安原に、麻衣は小さく笑い声を上げた。
「でも、その割には安原さんすっごい準備いいですね」
「そうですか?」
「そうですよ、これだけあれば一晩くらい楽勝でしょう?」
「お役に立てて何よりです」
「それに一応ナル達にも連絡ついたし、ホントに感謝です」
なむ〜、と手を合わせる麻衣に、安原は照れたように笑い、小さく竦めた首を左右に振った。
「いえいえ、それでもテントとか寝袋まではありませんでしたからね
、谷山さんがここ見つけてくださって本当に良かったですよ
「すっごい狭いですけどね。体、痛くありませんか?」
「雨風凌げれば十分です」
安原はそう言いながら、手狭なそこに苦労して手足を伸ばし、大きく息を吐いた。
「でも、こうなってみると昨日の露天風呂が恋しいですね。帰ったら一番に使わせてもらいましょうね」
「そうですね・・・あ、でも安原さん、昨日はそこで足音聞いたんじゃなかったでしたっけ?」
「ああ、そうでしたね」
「怖くないんですか?」
「でも、今朝、滝川さんが護符貼って下さったみたいですから、もう大丈夫でしょう?それに夜中入らないで昼間入ればいいんですよ、きっと」
SPRに従事している者としては、非常識なほど非科学的なことを言いのけ、安原はカラカラと笑った。
「昨日だとまだカメラもマイクも設置してなかったから、所長、悔しがっていましたね」
「あ、わかりました?」
「そりゃ分かりますよ。もう何年もあのポーカーフェイスは拝見させて頂いてますから」

 
「あのポーカーフェイスでね」
「あのポーカーフェイスで」
 

そうして2人はくすくすと笑いあい、それが終わると何となくそのまま黙り込んだ。
会話が途切れると、外の風の音が耳についた。
時々吹き込む風とあいまって、それは確かに心身を冷やそうと猛威を奮っているのだが、ともすればそれは酷く単調なものだった。
耳を済ませているとどうしても神経が過敏になり、忘れていた体の痛みや寒さが迫ってくる。
じわりと近付くその感触に耐えかねると、どちらともなく2人はとりとめのない話を再開した。

   

 

「遭難するとさ、よく言いますよね」
「どんな?」
「寝るな!寝たら死ぬぞ!!っての、あれって本当なんですかね?」
「時と場合によっては本当。でも全部ではないらしいですよ」
「そうなんですか?」
「寒くて、疲労がピークになっている時に眠りこんじゃうと、身体機能が低下しすぎて、麻酔が効きすぎたような状態になるらしいんですね。そうなると二度と目が覚めなくなる」
「うへぇ・・・」
「でも、さほど疲れてなくて、きちんと暖が取れていれば、寝ても大丈夫らしいですよ。この荷物貸してくれた友達とか、中にはテントも張れないような場所で、寝袋に入っただけで岩がゴロゴロしてるような山の上で寝たこともあるらしいから」
「それは寒そうですねぇ」
「ねぇ?」 

  

 


ごうごうと唸る風。
それに応じるようにどこかで雪が落ちる音がする。
どさり、と、音だけでもその重さが分かるそれが聞こえるたび、安原は雪崩の危険と昨晩耳にしたばかりの不穏な足音について思い出した。

耳に残るのは、じゃり、じゃり、じゃり、じゃりと、規則正しく砂利の上を歩く足音。
息を殺して耳をすませ、十分に注意して聞いていたからこそ、そこには確かに人の気配のようなものと、人間が体重をかけて砂利を踏む重量を感じることができた。
けれどあれは生きた人間のものとは別の何かだった。

――― でも、ここだったら、雪をかく音になるんですかねぇ。

安原はそんなことを思いつつ、雪山を隊列を組んで歩くという旧日本兵の有名過ぎる怪談を思い出し、横の麻衣にバレないようにこっそりと肩を震わせた。聞きかじったその怪談では、吹雪になると、たった一晩で猛吹雪に巻かれ全滅してしまった旧日本兵が歩く足音と重厚な装備がガチャガチャと触れ合う音が聞こえるとあった。よもや縁もゆかりもないこの土地でそんなものが聞こえるとは思わないが、似た事は起きてもおかしくないように思えた。
平素であれば気にもならないような怪談だが、雪山に遭難した上、つい数時間前に同じような不思議な足音を聞いた身にその想像はあまりにリアルだった。
1度そう思ってしまうと、思考はどうしても其方に流されやすくなる。
そうして実際に、直ぐ側に見知らぬ人の気配まで感じるような錯覚に囚われる。
現象だけ思えば昨夜の風呂場の出来事と大差はないが、あの時は滝川が一緒にいたという心強さがあった。あれと同じことが今起きてしまったら、それはどんな結果を招くのだろう。
その不安は沈黙の中で増殖し、今にも心臓を押しつぶしてしまいそうに膨れ上がっていく。馬鹿げた妄想だと思っても、そのプレッシャーは重く、安原はそれを振り払うように勤めて明るく様々な話題を麻衣に振った。
その度に麻衣も心なしほっとしたように話に加わるのだが、無理やり捻出した話題がそうそう続くはずもなく、いつも話は尻切れトンボのように収束していった。          
そうしてじりじりと時間が経過するのを待ち、何度目かの沈黙が落ちた時、安原はようやく麻衣の異変に気がついた。

    

     

「谷山さん?」
「はい?」
「もしかしてものすごっく冷えてません?」  

    

   

安原は言うが早いか分厚い手袋を外し、右手で麻衣の頬を触りながら、左手でランタンを掲げ、その顔を覗き込んだ。
触れた頬は氷のように冷たく、霞む目を細めてよく見れば、その頬は固く強張ったまま赤く染まり、唇は紫に変色していた。そして咄嗟に掴んだ麻衣のジャケットは氷のように冷たくなっていた。
安原は眼鏡をなくしたことによる視界不良と自身の防寒具の優秀さに舌打ちした。
分厚い手袋は麻衣の体温の低下を感知させず、保温に優れたジャケットは外気の本当の寒さを伝えてはいなかった。
突然慌てだした安原に、麻衣は驚いたように目を丸くしたが、動き出すのはなぜだかとても億劫で、冷たい壁に背中を押し付け、昼間の移動で汚れた足元を僅かに振ってみせた。
「足元は寒いですけど、そんなの安原さんも一緒でしょう?大丈夫ですよ」
「そういう問題じゃないですよ。谷山さんのジャケット防水加工されてなかったんですね?濡れてすっかり冷たくなってるじゃないですか?!」
安原はいつもはもっと年上の人間がそうするように麻衣を叱り飛ばし、一旦ブーツを脱がせて、新しいカイロをその中に放り込み、更に足を入れさせた。
「うにゅぁぁ、あったかぁぁい」
素早い手当てを素直に喜ぶ麻衣に比べて、安原はまだ難しい顔をして麻衣の顔を見つめ、そのまま上を仰ぎ、まるで許しを請うように呻いた。

   

「すみません、所長。非常事態です。見逃してください」

  

そして安原はやおら着込んでいた丈の長いスキージャケットの前を開け、その中に冷え切った麻衣の身体を抱き込み、その上でジャケットのジッパーを勢いよく上げ直した。
「ややややややや!!!??」
あまりに突然の急接近に、麻衣は言葉もなくして慌てたけれど、行動の遮られたジャケットの中で身動きもままならず、そのまま蒸発してしまうのではないかという勢いで顔を真っ赤にした。
その麻衣を抱え上げるようにして、安原は素早くその下に足を滑りこませ、麻衣の身体を膝の上に乗せた。そして極力何でもないことのように、服の中に閉じ込めた麻衣に声をかけた。
「谷山さん、できたら中で上着脱いでくれませんか?」
「へぇぇ?!」
すっとんきょな声を上げる麻衣に、安原はしごく真面目に言い聞かせた。
「このままだと低体温症になってしまいます。少しでも体温を温存するためです」
「だだだだ」
「上着が僕に当たると僕の体温も下がってしまうんですよ?」
「うぅぁああぅ」
「前を開けてくれるだけでいいんです。それだけでも随分違いますから」
「あやぁぁぁ、でででででで!!!」
パニック状態で日本語すら発せない麻衣に、安原は根気よく話し続けた。
「どうも僕たちは軽装で来てしまいましたからね。非常手段です」
「だってぇぇぇ!!」
「ね?僕のジャケットの方がちょっとは温かいでしょう?」
「やぁぁぁ、でもぉぉぉぉ!」
「谷山さん、落ち着いて下さい」
「うりゅぅぅぅ」
「大丈夫ですから」
そうして気の遠くなるような説得の後に、安原は何とか麻衣の上着を脱がせ、細心の注意を払ってその身体を抱き寄せた。
栗色の髪が鼻下をくすぐり、驚くほど華奢な手足と、強張ってもまだ柔らかい肉が当たった。
むろん安原とて健康な青年なので、その刺激に何も感じないわけではなかったが、持ち前の強固な理性でもってその考えを意識の外に弾き出し、ゆっくりと深呼吸した。
一見すれば、春ならば小学生の遠足コースにもなりそうな山だった。
確かに高低差はあったけれど、案内役の大樹は山を熟知している様子だったし、雪があるとは言っても昼間の天気は大変穏やかなものだった。それで油断があったのは否めない。そしてまた不幸な偶然が重なったのも事実だ。
けれどだからと言って過ぎたことを悔い、事態を改善しようとしないのは愚の骨頂だ。

――― これ以上、本来の目的以外でのトラブルで足止めなんて冗談じゃない。

決して低くはないプライドと本能的な庇護欲とで、安原の目元は据わった。
自身がここで避難するのが一番と判断したのだ。
その判断を後悔するような事態にだけはしたくない。
冗談ではない雰囲気を察し、麻衣はしばらく黙り込み、安原にされるままに身体を摺り寄せていた。
それからしばらくして、麻衣は安原のジャケットの中でもそもそと身体を動かし、顔の前にスペースを作ると、今にも消え入りそうな声でぽそりと呟いた。

  

「あの・・・・・・・安原さん、ごめんね? ありがとう」

  

囁かれた麻衣の感謝の言葉に虚をつかれ、安原は僅かに目を見開いた。そして同時にいつの間にか強張っていた自分自身に気がつき、自覚と共に安原は胸に詰まった息を吐いた。 
「落ち着きましたか?」 
お陰で次に口を割って出た声は普段と変わらぬ温和なものにすり替った。
賢そうな、説得力のある落ち着いた声。
その声が出たことによって誰よりもまず安原が安心した。
そうして麻衣は顔を真っ赤にしたまま至近距離で顔を上向かせ、恥ずかしそうに視線を彷徨わせながらぼそぼそと喋り始めた。
「すいません・・・・」
その返事に安原は常にそうあるように、自然に苦笑した。
「いえ、僕の方こそ乱暴でしたし」
「いや・・・・しょうがないし。それに私より安原さんこれじゃつらいでしょう?お尻痛くなっちゃいますよ」
「男の子ですからね。これくらいはへっちゃらですよ」
申し訳なさそうに肩を小さくして俯き、麻衣は重ねて尋ねた。
「寒くありません?」
その質問に安原は苦笑しながらごく素直に答えた。
「寒いですよ」
「え?」
「さっきよりはマシですけど、そりゃ勿論寒いですよ」
「・・・・・」
「寒いし、体中痛いし、もう散々ですよね」
「・・・・・うん」
「早く帰りましょうね」
「・・・・・うん」
「そして温泉入ってゆっくりして、温かい布団で思いっきり手足伸ばして眠るんですよ」
「うん」
「いくら所長でも、それくらいは許可下さるでしょう?」
笑わせようと微笑む安原に、麻衣もまた安心したように微笑み、少し躊躇った後にその安原の胸に頭を預けた。そのことに安原はほっと息を吐き、全身を縮めた。

 

 

 

きゅっとコンパクトになった体勢に麻衣は僅かに息をつめたが、その温かさの誘惑に負け、すぐにその体勢を自身に許した。確かに前よりずっとマシにはなったけれど、身体中痛くて、足元はピリピリして、首筋は氷でも当てられたように冷たかった。

――― 空気が冷たいんだろうなぁ。

麻衣はそう思い気持ち首を竦めてみたのだが、その冷たさが和らぐことはなく、その寒気は肩を伝って背中に落ちていった。

――― ゾクゾクする・・・・

それはザワリと皮膚を粟立たせ、悪戯に鼓動を早くさせた。けれどその直ぐ後ろには強烈な睡魔が麻衣の意識を攫おうと待ち構えていた。
ここで眠ってもいいのか、悪いのか。
その迷いが睡魔を一瞬押し止める。
そうして麻衣は重くなる瞼に抗いながら、声を上げ、傍らの安原を呼んだ。

「安原さん・・・・・」

けれど既に眠り込んでしまったのか、それに対する安原の返事はなく、それに伴い眠気は加速度を増した。そして睡魔はもはや抗いようのないレベルにまで達し、濁り、回転し始める視界の中で、麻衣はふと違和感に気がついた。

粟立つ皮膚。
早鐘のように打つ胸。
じっとりと嫌に汗ばむ掌。
引き攣るように冷たく痛む首。 

頭を揺らす睡魔とは関係なく反応する体が、何かを必死に訴えていた。
そうしてその違和感を意識した瞬間、麻衣の首筋をもう一段冷たいものが撫で、麻衣は一瞬びくりと身体を震わせた。

――― 寒・・・・い?

久し振りに味わう本格的な冷えと寒さによって、正常な感覚は奪われているのだろう。
けれど麻衣はその異変に覚えがあった。  

  

――― 違う、寒いんじゃない。

 

それは麻衣だからこそ、よく知る感覚だった。 

 

 

 

 

――― これ、怖いだ。

  

 

   

 

 

しかし、違和感に名前を付けた直後、麻衣は押し寄せる睡魔に負け、墜落するように意識を失った。