強風はその夜の夜半過ぎになってようやくその威力を弱め、明け方にはすっかり凪いだ。 
その、早朝7時46分

日の出と共に雪山を登った大樹らの手によって、安原と麻衣は無事救助された。            

   

      

       

         

     

            


#012 眠り姫
    
    

         

    

     

しかし、寒さ厳しい2月に一晩野外にいたことが災いして、麻衣は高熱を出し意識朦朧の状態で自立歩行がままならない状態となっていた。
そのため安原から大樹、それから滝川と麻衣は抱え上げられたまま屋敷に運び込まれ、待ち変えていた女性陣はその状態に大慌てで濡れた衣服を着替えさせ、十分に温めておいた布団に寝かせると、解熱の為に脇や首筋、額に冷えたタオルをあて、頭の下に氷枕を差し入れた

そうした一連の対処が終わると、綾子と月子は草子にその場を任せ、一旦ベースに引き返した。

    

「よりにもよって今朝は冷え込んだからやな」

 

月子はそう言いながら手早く薬湯を重三に指示し、心配そうに取り囲む面々に説明した
「特別な痛みはないようやから、おそらく風邪やろうけど、こじらせたな。熱が高い」
その言葉に安原は申し訳なさそうに身を小さくした。
「すみません、谷山さんが冷え切っていたのに気がつくのが遅れて、多分そのせいです」
しかし、ベースに備え付けておいた救急箱を漁っていた綾子はすかさず訂正を入れた。
「別に少年のせいじゃないわよ。あんたも寒かったんでしょうからさっさとお風呂でも入ってあったまりなさい。そのままだと、あんたまで風邪引くわよ」
それでも不本意そうな顔をして動こうとしない安原に、綾子は呆れたように肩を竦めた。
「一回だけ、叔父が雪山で遭難したことがあるの。救助されてすぐウチの病院に転送されたんだけど、あれは酷かったわね。凍傷になって指を落としたし。それに比べたら本格的な遭難とは違うけど、真冬にあんな山の中に放り出されて、風邪で済んでるだけ拍手ものよ」
「・・・・」
「麻衣の上着なんてびちゃびちゃだったじゃない。あのまま体温持っていかれて、普通だったら低体温でもっとマズいことになってるわよ」
そして綾子は救急箱の中から解熱剤を取り出すと、傍らに立っていたジョンに水を持ってくるよう頼みながら居並ぶメンバーの顔を見比べため息をついた。
「だから少年はそんなにしょぼくれない」
「・・・・・・はい」
「それからナルとぼーず」
「・・・」
「なんじゃい」
いつも通りに無反応なナルとやけに好戦的な滝川を見比べ、綾子は鼻でせせ笑った。
「あんたらもねぇ、昨日一晩麻衣が少年に抱っこされてたのは必要なことだったんだから、そんなに不景気な顔しないでよ。アホらしい」
綾子の指摘にナルは腕組みした状態のまま憮然とした表情でそっぽを向き、滝川はひくりと頬を強張らせた。その様子に綾子は下らないと肩を竦め、ジョンから水の入ったグラスを受け取るとさっさと麻衣が運ばれた奥の8畳間に引っ込んで行った。
それを皮切りに詰め掛けていた月子らはそれぞれの部屋に帰り、安原は綾子の助言に従うべく風呂場に向かった。

   

     

 

      

      

 

 

安原が風呂から上がると、風呂場からベースに戻る廊下の途中でナルが一人、その帰りを待ち構えていた先に続く廊下の暗闇から滲み出たような漆黒の姿に、さしもの安原も思わず息を呑み、少し度の合わない予備の眼鏡をズリ上げた。
脳裏を巡ったのは当然、麻衣を抱いて眠った昨夜のことだった。
麻衣の体調が悪かったドサクサで表立った追求をされず、ここまできたがそのままとは流石にいかないか、と安原はどこかで他人事のように自分の立場を傍観した。
麻衣を抱いたままいつの間にか寝入ってしまい、救助に来た大樹に起こされるまでその体勢でいた上、高熱を出した麻衣を直ぐに移動させることができなかった為、それは周知の事実となっている。
不可抗力だったことはナルも理解しているだろう。
理性の人たるナルがその正論を無視するとは思えない。が、それはそれ。
男心を思えば全くの別問題だ。
自分とナルが全く同質のものを持っているとは信じがたいが、同じ性別を思えば色々と含む所も感じ取れる。安原はある種の諦めを持って顔を上げた。

  
「お風呂頂戴しました」
 

にっこり、と、擬音がはっきり分かるまでにしっかりと微笑みながら安原が声をかけると、ナルは閉じていた瞼をゆっくりと上げ、抑揚のない声で話しかけた。
「お疲れでしょうから、今日は仮眠室で休んでください」
「ははは・・・・では、お言葉に甘えて
。明日からこき使ってください」
それでも平静を装ってぬけぬけと返事を返す安原に、ナルはごく僅かに微笑んだ。
それに安原はほっと小さくため息をつき、揃って廊下を歩きながらさりげなく別の焦点に合わせて昨夜の話を続けた。
「それにしてもあれ以外の伝達方法って思いつかなかったんで、所長がモールス信号と気がついて下さって助かりました」
発案は安原と疑問にも思わなかったナルだったが、安原とて解読したのがナルと疑わずいた。そうして話し出したその話題に、ナルは肩を竦め首を振った。
「実際に使用したのは初めてです」
「そうなんですか?」
「情報伝達方法の一環として知識としては知ってはいましたが、使用する事はまずありませんでした。安原さんこそどこでこんな前時代的なものを?」
尋ね返され、安原はああ、と、僅かに首を傾げ答えた。
「高校の授業で教えてもらったんです」
「講義内容にあるんですか?」
ごく真面目に聞き返すナルに、安原は口元を歪めながら頭をかいた。
「いえ、雑談です。確か・・・物理か化学の内容だったと思うんですけど、その時、AM、FMって電波についての授業やっていたんです。あれ?短波と長波だったかな?まぁ、どちらにせよ電波伝達方法についての授業です。その時の教員が趣味で無線をやってたかなんかで、昔はこの電波にモールス信号をのせて遠くの人間とやり取りしてたんだって教えてくれたんです」
「なるほど」
「ただあくまで雑談だったので、その時黒板にアルファベット表を書いたのを一回見ただけだったんですよ。お陰であんまり記憶になくて、実は全部の単語は思い出せなかったんです。だからあのメッセージは本当に苦肉の策でした」
ナルはそこで使われていた単語数の種類の少なさを思い出し頷いた。
「ライトでは信号が送りづらいせいだと思ってました」
「あ、もちろんそれもありましたけど、実は F と V は不安だったんですよ」
「比較的長い信号ですね」
「ええ、でも返信いただいたので、まぁ繋がったかな?って判断したんですけど」
「正しかったですよ」
「それは良かった。ちなみそんな状況だったので所長からの返信が Tomorrow だったのはラッキーでした。実はWの単語忘れていたんですけど、前半の単語で推察できましたから」
「首の皮一枚だったということですね」
ナルの返答ににっこりと笑みを浮かべながらも、安原はふっとため息をついた。
「解読して下さってありがとうございます。でも、結果的に大丈夫だってメッセージを送りながらもこんな状況にしてしまいました。冬の野外を甘くみてましたね」
心なしトーンの落ちた安原の口調にナルはきっぱりとした口調で言い切った。
「それは僕を含め全員がそうだった。安原さんの非ではありません」
「・・・・」
「むしろ安原さんだからこそ被害が最小で済んだ。これが麻衣だけだったら
、今こうして無事に救出できたかも怪しい」
そうして安原を正面から見据え
、ナルは極めて珍しいことに安原に対して礼を言い、それから何事もなかったかのようにいつもの淡々とした様子でベースの襖を開けた。
その真っ黒な後姿を見つめつつ、安原はぽりぽりと指で頬を掻いた。
ナルの態度は彼が本当に仕事に私情を持ち込まない、優秀な理性の人だいうことを物語っている。

――― すみません、所長。甘く見てました

頼もしき責任者に向けて、安原はどうしてもにやける頬を何とか押さえつつ、深呼吸の後にナルに続いてベースの中に足を踏み入れた。 

  

   

 

 

 

     

     

     

     

その日の予定していた調査準備を終えると、ナル、滝川、ジョンは早めの夕食を取り、それが済むと交代で食事を取るべくベースに戻ってリンに声をかけ、隣室で眠っていた安原を起こし、最後に一番奥の部屋に麻衣と共に篭っていた綾子に声をかけた。
「よぉ、麻衣の様子どうだ?」
そろりと襖を開け中を覗き込んできた滝川に、綾子は体を避け、奥で眠り込んでいる麻衣を見せた。
「まだ熱が引かないのよ」
「高いのか?」
「さっき計ったので、38度5分」
「ありゃぁ」
滝川は眉尻を下げながらのそのそと部屋に入り、真っ赤に火照った麻衣の頬を指でなぞった。
「こりゃ、しんどそうだなぁ」
「1度医者に診せたいところだけど、こんな調子じゃ5時間もかけて船に乗せるわけにもいかないしね」
滝川は頷きながら、部屋の隅に避けられてすっかり冷えた粥ののった盆に眉を寄せた。
「飯食えてないのか?」
「まだダメね。何とか水分は取っているんだけど、薬ですら飲み込むのを嫌がってるのよ。咳き込んで出しちゃうのよね。せめて解熱剤だけでも飲んでくれたら随分楽になるんだけど・・・・」
綾子が説明している最中に、背後から心配そうに覗き込むジョンや安原の間を縫ってナルが部屋に足を踏み入れた。そうしてナルはいつもの無表情のまま淡々と綾子に尋ねた。
「どれが解熱剤ですか?」
冷淡に見える程そっけないナルの態度に綾子は複雑そうな表情を浮かべつつ、枕元の水差しを指差した。
「この袋の。前に私が持ってきたのを入れといたのよ」
見れば処方箋が必要とされる病院名が記載された小さな紙袋がある。
ナルは無造作にそれを取り上げると、袋を振って中のカプセルを掌に載せた。
「使用量は?」
「? 1回1錠、一日3錠までだけど・・・・」
何でそんなことを、と綾子が疑問を口にする前にナルはついっと麻衣の傍らに身を滑り込ませ、不思議に思って見つめる面々の前で、ごく自然に自身の口に薬を放り込み、次に側にあったグラスの水をあおった。
そして寝ている麻衣の首下に腕を差し入れ抱き上げると、躊躇いなく麻衣と自分の唇を合わせた。
あまりのことに呆然とそれを見つめるギャラリーの中、熱にうなされていた麻衣だけが息苦しさからそれに力ない抵抗をしてみせた。
ぐむぐむとくぐもった声に重ねて、いささか卑猥な水音と共に口の端から水が零れ、顎下に垂れる。
しかしナルは構わず抗おうと左右に振る麻衣の頭を肩と腕で固定し、顎先を指でつまんだまま角度を変えて口内をかき混ぜ、麻衣の喉がごくりと固形物を飲み込む音を立てた後にようやく唇を離した。
離れた互いの唇は赤く腫れ、顎には唾液とも水ともつかないものが垂れていた。
ナルはそれを指でなぞりながら、まるで何もなかったかのように麻衣を横たえ、いつもの無表情で綾子を見据えた。
「これでいいか?」
その声に弾かれたように滝川が顔を真っ赤にしながら声を荒げた。
「こ・・・これで、って何でお前っっっ!!!」
「うるさい」
「うるさいじゃね―――! たっ、たかだか薬飲ませるのに何やってんだよ?!」
「これが一番早い」
「早いとか遅いとかじゃなくて〜〜〜っっ」
「た、滝川さん、病人の前ですから!」
「ノリオ、暴れないの!」
今にも飛び掛らんばかりの勢いの滝川をジョンと安原は慌てて背後から羽交い絞めにして畳の上に押さえ込んだ。
その騒動にナルは一瞥くれると大きくため息をつき、側に置いてあったタオルで寝ている麻衣の顎を拭きながら、にっこりと鮮やかに微笑み言った。

 

 

 

「何か問題でも?」

 

 

 

暗に恋人の立場を主張する憎たらしいほどに美しい横顔に、2人がかりで取り押さえられた滝川はそれでも肩をいからせ暴れだしたが、安原はそれを抑えながら背中に薄ら寒いものを感じ、浮かべていた苦笑をそのままの形で固まらせ、必死に目をそらした。ささやかなれど鮮やかなまでに艶めいた微笑みは、正体など絶対に知りたくない、何かどす黒いものを多分に含んでいた。
その騒ぎに綾子は心の底からため息をつきつつ、麻衣の肩から落ちた布団をかけなおしてやり、それと同時にさりげなく麻衣に耳元に囁いた。

「王子のキスで熱が下がるといいわね、眠り姫」

最悪に性悪だけど、と、言い添えるのを忘れない綾子の声が聞こえたのか、聞こえなかったのか。
もしくはただ単に滝川がうるさかったのか。
最悪、何かの邪気に当てられたのか。
直後に麻衣は苦しそうに顔を顰め、厚い布団の中で身じろぎした。
その素直すぎる反応に、綾子は思わず噴き出し眉根を下げた。