横穴は見た目よりもずっと狭かった。

 

その上所々で上下左右に向きを変え、その都度より細くなる為に、至るところに擦り傷ができ、そこから流れる血と泥で月子の両手はいつしか白い所がないほど汚れていった。
方向感覚もいつの間にか失い、どちらが天井なのかすらよく分からない。
空気もいつの間にか薄くなっているような気さえする。
だが、だからと言って今更狭い横穴の中で方向転換して元の場所に戻ることもできず、月子は迫り来る恐怖心と戦いながら、ただ歯を食いしばって先へ先へと身体を押しやった。
腕を伸ばして地面に張り付く。
次いで地面を足で蹴り上げ、肘を軸に腕を折り曲げるようにして身体を前進させる。
体力に自信はあったのだが、極度の緊張状態でのそれは月子の体力を根こそぎ奪っていった。
疲労は幾重にも重なり、自然に呼吸も浅くなる。とすると目の前の闇が、本当の暗闇なのか自分が失神しかけて暗くなっているのかの判別もつかなくなっていく。
それでも月子は気力だけで穴の中を進んだ。
そうして感覚的には随分長い時間這い進んだ先で、横穴は何となく下に向かっていくような傾斜を見せ、慎重にそれを降りていった先で視界がぱっと開き、横穴は唐突に広い洞窟に繋がった。
 
   

  

             

 

  
 

 


#021  みなぎわ
      
     

    

 

 

 

 

 
すぐ側で潮騒の音がした。
その音が示唆する通り、洞窟の直ぐ先は切り立った岩盤に囲まれた海だった。
月子は見覚えのないその光景に首を傾げながらも、痛む身体を押して洞窟の前に歩み出た。
すると、ずっと開けた視界の上部には養生園、下部には細い砂浜が見えた。
「なんや・・・・北の浜に出るのか・・・・」
見覚えのある風景にほっと安堵のため息をつき、そのまま身を乗り出すと、直下の岩場に探していた2人分の人影が見えた。
僅かにせり出した平坦な岩場に見えた人影の内、一人は立ち姿で、今一人は横たわっていた。
それが視界に入った瞬間、それを探していたはずなのに、月子は腰が抜けそうに驚き、呼吸を止めて爪も立たない岩場にしがみ付いた。
彼女らを追ってきたのだ。いなくては困る。
けれど実際に目にしたその光景は恐怖以外の何者でもなかった。
胃がよじれるように痛み、胸が痛いように鼓動を早める。

  

 

 
 
 

―――― 怖いものなど、もう何もないやろう。

 

 

 

 

目を背けたい、逃げ出したい、という激しい欲求に駆られながらも、月子は自らをそう叱咤した。
そうして、寒さのためなのか、恐怖のためなのかももはや分からないが、滑稽な程激しく震える手足に力を込め、満足な足場もない岩場を慎重に下り始めた。
潮風に洗われた岩盤は泣きたくなるほど冷たく、またツルツルとよく滑り、掴んだ端から手を逃れ、かけた端から足を取った。おまけにつるべ落としの冬の短い日は急激な勢いで視界を奪っていった。
薄墨を流し込んだような闇が視界を悪くする中、月子は必死になって足場を探し、体重を移動させた。息が上がって、頭がぼんやりしてくる。
そうしてやっとの思いで岩盤を下り切ると、そこには岩場に横たわる大樹がいるばかりで、麻衣と思しき人影はいなくなっていた。
慌てて周囲を伺うと、岩場の影から僅かに栗色の髪がたなびくのが辛うじて視界に入った。
背伸びをして見れば、麻衣は道とも呼べないような細い岩の尾根を器用に渡って北の浜と呼ばれる狭い砂浜に出ようとしているところだった。
そちらに意識を残しながらも、月子は咄嗟にその場で倒れている大樹に腕を伸ばし、肩を揺さぶった。
「大樹!大樹!!」
伸ばした手は頼りなく、声は可哀相なほど細かったが、その振動と声が通じたのか、岩場に屈みこむようにして倒れていた大樹は僅かに低く呻いて反応した。
「大樹!」
「・・・・・つ、き?」
「大樹!!」
月子はぱっと破顔しつつも、咄嗟に身を起こそうとした大樹を肩においた手で押し留めた。
抱きとめて、発見を喜びたいが、今はそれよりも重要なことがある。
「ここまでは波も来ん。お前はここで大人しくしていろ」
そうして月子は自身は袖をたくし上げていた紐を落とし、寒さで鳥肌のたった腕を隠すとすくりと立ち上がって今度は麻衣が先を行った道、砂浜に通じる岩に手をかけた。
奥座敷からそのまま出てきてしまった為、素手と素足であった月子の四肢はすでに感覚をなくしていた。また、横穴からここに辿りつくまでにそこかしこでつけた作った擦り傷や泥で両手はみすぼらしいまでに傷つき、汚れ切っていた。
それを見るとはなく見つめながら、月子はふと、15の年に岩場で転んだ怪我が元で亡くなった叔母のことを思い出した。

擦り傷が元で破傷風になったその人を聞いた当初は随分鈍い人だと思っていた。
しかし彼女がこの道を通ろうとしてそんな傷をおったというのであれば、それはあながち不自然なことではないような気がした。
もともと先代の姫神は自分を産んだ時子ではなく、その叔母が勤める役回りだった。
そうなれば彼女がこの道を知っていても不思議ではない。
獣道よりまだ酷いこの道ならば、酷いすり傷を作っても仕方のないことだ。
苔むし、人の手が入っていないここには雑菌もあるだろうし、元々人目につかない場所なのだから、傷つき、怪我をしても発見が遅れることは往々にあったことだろう。
つまり、ここは姫神の娘だけが教わる道だということだ。
月子はどこか確信めいたそれを考えながら、それならばなぜ、自分は知らなかったのだろうという疑問に行き当たり、カサカサに乾いた唇を強く噛んだ。
結果的に姫神にはなり損ねたが、生まれた時から姫神になるものと教え込まれて育てられた。
  
 
 
「 早く月子に代を譲ってしまいたいものやね 」  
 
 
 
――― 先代だって確かにそう言っていたのに、なぜ、教えてくれなかったのだろう。

 

月子は胸が潰れそうにショックを受けながらも、目の前の危機的状況に必死に意識を集中し、すでに暗くてよく見えない岩場を進んだ。
しかし、どこか気持ちが他所にいってしまっていたのだろう。
ずっと先を行っているものと思い込んでいて、すぐ横のせり出した岩の陰に麻衣が隠れていたことに、月子はぎりぎりになるまで気がつかなかった。
夜闇の中からにゅっと白い腕が伸び、月子の上半身を勢いよく突き飛ばした。
あっと思う間もなく、月子の身体は宙を浮き、不安定な足場から二本の足が離れた。
  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

扉を壊す音が止んでしばらく経つというのにまったく帰ってくる素振りのない月子に、次第に焦りを募らせ落ち着きをなくした朋樹は、周囲を歩き回るうちに隣室の影に隠れるようにして座り込むナルの姿を見つけた。
ナルは部屋の柱にもたれかかるようにして座り込み、眠ったように瞼を閉じていた。
それだけなら黙認することもできたのだが、ナルの手には月子から手渡されたダウンコートが大切そうに握られおり、その中に顔を埋めるようにしてナルは眠り込んでいた。
その姿に気恥ずかしいような気分の悪さを覚えて、朋樹はナルを起こそうと部屋に上がり、手を伸ばしかけた。が、その手がナルの肩にかかる前に、朋樹の手は背後から強く押しとどめられた。
「なっっ」
驚いて振り返ると、そこには常にベースにこもりきりだと思っていたリンが立っており、リンは朋樹の腕を拘束したまま首を横に振った。
「もうすぐ気がつくと思いますので、少し待って下さい」
「・・・・いや、寝るのは構わないけど、姫さんのコートを・・・・」
無意味に威圧的なリンの態度に、朋樹がしどろもどろになりながら反論すると、リンは長い前髪の間から見える片方の目元を細めた。
「おそらく、もう少しすれば状態がわかりますから」
言っている意味が分からないと朋樹が顔を顰めた隙に、傍らで眠っていたナルが小さく身じろぎした。
それに気を取られて視線を向けると、眠り込んでいたナルが目を覚ました。
深い闇色の瞳がゆっくりと開かれる。
長い睫が白い陶器のような肌に影を落とし、形のいい唇がほぅっとため息のような息をする。
それはまるで精巧な人形が目覚めるような、どこか神秘的な光景だった。
思わず息をつめ、その光景に見惚れていると、そうして息を吹き返した人形、ナルは月子のダウンコートを握り締めたまま、細く長いため息を落とし、それから形のいい口をゆっくりと動かした。
「・・・・・・北の浜」
「は?」
朋樹が尋ね返すと、ナルは思い切り不愉快そうに顔を顰めつつ、上体を起こして呟いた。
「奥の抜け道を通って、月子さんは今そちらに移動しました」
「抜け道?」
鸚鵡返しに繰り返す朋樹の大声に、ナルは眉間に皺を寄せ、指で押さえながら頷いた。
「そこに麻衣と大樹さんもいるようです」
そうしていち早く立ち上がり、冷ややかな眼差しで朋樹を見下ろした。
  
 
 
「時間がありません。案内して下さい」

 
 

言っている意味など分からなかったけれど、その迫力に負けて、朋樹は急いで踵を返した。
そうして車庫に向かう背を見送りながら、リンはその場でよろめいたナルの肩を掴んだ。
「大丈夫ですか?」
「少し視ただけ・・・・平気だ」
交わされた少ない言葉に、廊下に詰めていた滝川がその場に顔を出した。
「ナルちゃん?」
そうして心配そうにかけられた声にナルは億劫気に滝川を見返しつつ、はっきりした口調で告げた。
 
 
 
 
 
「ぼーさん、出番だ」