2月の海水は身を切るように冷たく、落ちた瞬間から心臓を跳ね上がらせ、極度のショック状態を呼び起こした。が、その強いショックが月子を正気にした。
冷えたように冷静になっていく頭で、月子は最後に目にした海岸線の水位を思い出した。
 
―――― カサが増えていたから、今は満ち潮のはずや。そしたら潮に乗れば助かる。 

 
服は空気さえ入っていれば浮かぶし、多少の塩水を飲んだって死にはしない。
ここの潮が冬に外洋に出ることはない。浮かんでいることさえできれば助かる。  
過去の経験が裏打ちするそれは力強く月子を励ました。
上も下も分からない真っ暗な極寒の海中で、月子は泳ぐのを諦めて身体を浮かすことに神経を集中させた。そうして自身の勘を信じ切り、足掻いて無駄な体力を使わぬようにして海面に浮かんだ。
また疲れ切った体が幸いして、海に投げ出された月子は程なくして海岸線の潮に乗り、そのまま浜辺に流されていった。そうしてだらりと伸ばした足に砂地が着くのを感じ、ほっと肩の力が抜けたその瞬間だった。
 
 
「 なんや、さすがに島の子やねぇ。こんな内海では死なんか 」
 
 
頭のすぐ上から、海の水よりまだ冷たい声がかけられた。
 
   

  

 

             

 

  


#022  潮が、満ちる
      
     

    

 

 

  

 
例え水深が僅かでも、慌てればたちまち危険に晒される。
心臓を直に掴まれたような恐怖に身体が硬直し、咄嗟に立ち上がろうとして波に足を取られた。
そのまま身体は波に飲まれて回転し、潮に引き摺られ、月子は溺れかけた。
吐くほど海水を飲みながら、もがくように砂地をかき、やっとの思いで海面から顔を出すとそこには手を伸ばすこともなく、腕組みをしたまま冷たくこちらを見下ろす麻衣が立っていた。
四つんばいの姿勢で波を顔に受けながら、声を出すこともできずただ見上げると、麻衣は感情の伺えない顔を僅かに傾げ、口の端が裂けたのではないかと思うほど、薄く、横に大きく、不気味に口元を釣り上げた。
 
「姫神に似合いやて、あんなに大事にされていたのにねぇ。何でこんなことをした?」
 
そうして浅瀬へと伸ばしかけた月子の掌を勢いよく踏み付けた。
声にならない悲鳴を上げて月子は肩を跳ね上げたが、それでも麻衣の表情が変わることはなく、その口元はさらに笑みを深めていった。
その笑みに込められた強烈な殺意に、月子は総毛立った。
全身の神経が非常事態を告げて暴れまわる。
しかし、ガチガチと歯が鳴るばかりで金縛りにあったように身体は言う事をきかない。
そんな月子を見下ろし、麻衣はゆっくりとその頭に手を乗せ言った。
 
「まがりなりにもお前は俺を殺した。天罰を与えんといけんね」
 
すっと全身の力が抜けた。
と同時に殴られたような強い力が加わり、月子の頭が海中に沈み、ごぼりと音を立てて肺の空気が外に逃げた。苦しさに身体は条件反射で反抗したが、麻衣の力に適うことはなく月子の顔は直ぐに海底の砂地に擦り付けられた。
迫り来る、文字通り生命の危機を前に全身が悲鳴を上げた。
  
――― 苦しい! 死ぬ! 殺される!
 
けれどその一方で、奇妙な浮遊感が月子の意識を奪った。 
 
――― ああ、でも " 当然だ " 
 

 
 
 
 

 
――― 俺は神を殺したのだから・・・・

 

 

 
 

 
そうして月子が自分の命を投げ出そうとした時だった。
 
 
「 ぼーさん、七縛!!!! 」 

 

鋭い怒声が波間に響き渡り、それと同時に月子の頭を押さえつけていた力が弱まった。
反動でもがいていた頭が外れ、月子は勢いよく顔を上げた。
飲み込んだ海水が逆流して激しく咳き込んだが、それによって何とか息が続き、月子は涙目になりながらも周囲を見渡し、そこに突然動きの鈍くなった麻衣と砂浜に駆けつけてきた漆黒の男と僧侶の姿を目にした。
 

 

 

朋樹が運転する車が養老園側の道の行き止まりまで辿りつくと、ナルは急ぎ車から飛び降り、その先の先導を請うことなく一目散に浜辺に向かって走り出した。
逼迫する何かを感じ、滝川もまた車中に残った朋樹やジョンと綾子を捨て置き全速力でナルを追い、同時に麻衣と月子の姿を確認するやナルに命じられるがまま素早く印を結び、真言を唱えた。
恐ろしく集中して発した念は辛うじて麻衣の動きを止め、月子は寸での所で海面から顔を上げた。
しかしそれで安心する間もなく、真言によって動きを封じた麻衣はそれでも抵抗をやめず、その激しい反発によって滝川は身体ごと引き寄せられた。
「くぅぅおおおお??!!」
砂地に足が沈んでいくのを何とか堪え、滝川は印を組みなおしながら悲鳴を上げた。
「ちょっ・・・・コレっ強っっっ!!! 綾子!!!七縛手伝えぇぇ!!」
後を駆けて来たであろう綾子に叱咤しながら、滝川は麻衣から視線を反らさず口の中で素早く真言を唱え続けた。が、それでも動きが鈍くなるだけで、麻衣の抵抗が収まる様子はない。
「さすが神様ってかぁ?!」
歯軋りしながら踏みとどまる滝川に対して、先を行っていたナルはふとその歩みを止め、潮騒を裂くような硬質の声を発した。
 
 

 
「違う。 これは姫神じゃない。麻衣に憑いているのは単なる憑依霊、一人の人間だ」
 

 
 
だから、なんとでもできるはずだ。
と言い切る、凛としたナルの大声は潮騒の間を縫ってその場にいた全員の耳に届いた。
虚をつかれた視線が集まる中、ナルは麻衣から視線を反らすことなく、ゆっくりと近付きながら抑揚のない声で告げた。
「先ほど、あなたは月子さんを殺しかけた。それが何よりの証拠ですよ」
満ちていく潮の中に足を踏み入れながら、ナルは闇色の瞳の色を濃くした。
「なぜ?」
逆に問いかけられたことにより、月子を睨み上げたままだった麻衣の抵抗が僅かに緩んだ。
そうして麻衣はゆっくりとナルの方を振り返り、さも不思議そうに首を傾げた。
「なぜ・・・・やと?」 
「あなたが真実姫神の神憑りだとすれば、月子さんを憎み、殺す理由はない」
「・・・・」
「20年前の月子さんが姫神を降ろせなかったということも、こうして新たなよりしろを手にした今では何の恨みもないだろう。それよりもむしろ、あなたがこの島で祭られるにはものの道理を一番理解している月子さんは最も便利な人間だ。つまり、下僕にする理由はあっても、殺す理由はない」
瞳の闇は全てを飲み込んでしまうような高密度に圧縮され、その場にいた人間の呼吸すら奪った。
潮騒までが止まるのではないかと思うほどの強い威圧感を持ったまま、ナルは淡々と説明を続けた。「現に本物の姫神は島民の魂を納めるという謂れがあるというのに、麻衣が神かがりになったと思われた後も、島の心霊現象は収まっていない。当然だな、悪戯に悪意を持った霊にそれを先導する力はない。麻衣に憑いているのは神ではないんだからな」
はっきりと言い切ったナルに対して、標的となっている麻衣より先に月子が悲鳴を上げ反論した。
「嘘や!!だって嬢ちゃんは姫神さんしか知らんこともできる!こんなに怖いんかて、姫神さんの力があるからや! 大樹やって連れてった!ただの人間のわけないやろう!!!人間が・・・」 
口にかかる波を退けながら上がる金きり声に、ナルはつっと歩を緩め、麻衣と月子に向かって語った。
「なるほど、確かに麻衣に憑依する前から大樹さんを誘導するほどの力を持っていた」
「!!」
「下山の道を誤らせる。一人になったところで意識を奪う。それであなたはまんまと真の標的であった麻衣や月子さんを誘いだすことができた。その程度の力は真実あるのだろう」
「・・・・」
「あなたの標的は常に月子さんだった。なぜか、それも全てこれで答えがつく」
「そやって・・・」
「姫神というポジションにいなければ分かりえない情報を多く持っていた。しかし近年この島で実際に行われていた魂代えとは、血筋もその後の人格も何もかもが異なっている。草子さんが言うように、それら全て後任がいないためのイレギュラーなケースだと言えば全てが丸く収まるようにも聞こえるが、もっと簡単で合理的な理由が、姫神ではないという結論なんですよ」
「そやって!!!」
「一人だけ・・・・・全ての条件を満たせる人がいるじゃないですか」
「え?」 

 

 

  

 

 

 

 

 

 
「時子さんです」
 

 

 

 

 

 

 

 

 

低く響くその名に、今度こそ言葉を失いその場にしゃがみ込んだ月子の代わりに、ナルの側にいた滝川が声を上げた。
「時・・・・子?って、先代の姫神? 月子さんの・・・・母親?」
周囲を渦巻く驚愕にも一切の関心を払おうとはせず、ナルはその冷ややかな視線で麻衣を凝視したままさらにその距離を縮め、ゆったりとした口調で続けた。
「つい、時子さんという人格を無視して僕達は姫神という象徴的存在を優先して考えがちだか、これを一人の人格をもった、姫神とは別の人間と考えればいい」
「・・・・・別・・・・」
「月子さんが姫神と見間違えるのも当然だ。月子さんにとっても実際に目にしたことのある姫神は先代の姫神、時子しかいないんだからな」
「に、しても・・・・この力は・・・・」
「まがりなりにも生き神として奉られた人間だ。死後も多少の力は残ってしまったのだろう。抵抗力もあれば、それをもってして人一人・・・・具体的に言えば大樹さんや麻衣だな。その自由を奪うことはできたんだろう。そしてまた執着も凄そうだ」
「・・・・・」
「時子とすれば全てがすんなり説明が付くんだ。当然誰も知りえない姫神としての知識も携えている。が、所詮はただの人間だ。できることはそのくらいだったろう」
闇を凝縮させたような漆黒の使いを目の前にして、麻衣はにやりと、下卑た笑みを浮かべた。
「こん身体は俺のもんや、邪魔するでないよ」
「これは麻衣の身体だ。あなたのものではないんですよ、時子さん」
「俺は姫神や」
「正確には " 姫神だった " 存在です。彼方はすでに神としての格を失い、死んでいるんです。
これ以上危害を加えるとするならば、こちらにも方法があるんですよ」
麻衣とナルの距離はもう1メートルもなくなっていた。
そこでナルは突然両腕を伸ばして麻衣の身体を拘束し、その勢いで振り返った。
 
「ジョン!」 
「はい!!」

 
駆けつける神父の影に麻衣はその場で吼えた。
 
「悪しきもの、仇なすもの、不浄のもの、我ここに・・・」
「 邪魔をぉするなぁぁあああ!! 」
 
麻衣とは思えない怪力にナルは体勢を崩し、麻衣もろとも波間に倒れ込んだ。
「ナル!麻衣!!」
驚いた綾子の七縛が僅かに緩んだ。
その隙を見逃さず、ジョンの祈りに苦しむように青白い影がゆらりと麻衣の身体から這い出した。その影は瞬く間に人の丈程に膨れ上がり、海面から数十センチ浮かんだ場所で松明のような炎の形を形成した。
「鬼・・・火」
そしてその場でさらに空気を吸い込むように大きく揺らめき広がった。
「ナル!」
その衝撃を受けて、咄嗟にナルは麻衣を胸に抱え込みその炎に背を向けた。
それを待ちかねたように麻衣から這い出した青い炎は突如、ナルと麻衣とは反対方向の岸辺で蹲っていた月子に向かって空を走った。
「オン・キシリ・バサラ・ウン・ハッタ!」
いち早くそれに反応した滝川が素早く真言を唱えた。
「ナウマクサマンダ・バザラダンカン!」
滝川の指先から鋭い光の矢が一直線に青い炎に向かって発せられた。
が、それは僅かに炎の脇をかすっただけで、そのまま月子にぶつかり大きな波しぶきが上がった。
「月子さん!!」
「姫さん!!」
衝突音と同時に悲鳴が上がる。
そしてまたそれと同時に、月子に駆け寄る面々の遥か背後の海から、「ぢっっ」と、まるで巨人が発したような鈍く、大きな舌打ちの音がした。
背筋を凍らせる、明らかな異質の音に反射的に全てのものが臨戦体勢で振り返ると、音がした海の上には先ほどの青白い炎がたゆたゆと漂っていた。
そして浜辺の月子の前には、いつの間に駆けつけていたのか、大樹が月子を庇うようにして立ちはだかっていた。
「姫さん!!ダイ!!」
綾子に庇われながら近付いた朋樹が手を伸ばすと、月子には主だった怪我はなかった。
そして次に大樹の方に手を伸ばそうとすると、大樹はその手を振り払って青い炎を睨みつけたまま立ち上がると、満ちた海に進んで声を張り上げた。
「死んだ姫神さんなんやろう?」
青い炎は逃げるように闇の中に紛れ、消えゆこうしていた。
その炎を行かせまいとするように、大樹はあらん限りの大声で叫んだ。

 

 

「月子を怨むのは筋違いや。怨むんなら俺を怨め!俺を呪え!!」 

 
 
    
 
そうして青い炎がすっかり消えてしまうのを見届けると、大樹は糸が切れるようにその場に崩れ落ちた。慌てて駆けつけた滝川が確認すると、気を失った大樹には、左肩から胸にかけてまるで火傷を負った時のように赤くただれていた。