月子の話の途中から、麻衣は正座したまま船を漕ぐように頭を左右に揺らし始めていた。
それを見咎めた安原はさりげなくその横に場所を移して小声で麻衣に話しかけた。
「谷山さん、眠いんでしたら仮眠室へ行って下さい」
「ん〜〜」 
麻衣は明らかに寝ぼけていたようで、瞼も満足に開いていない顔で安原を見上げたが、すぐに安原の言葉の意味を理解して、嫌々するように首を横に振った。
「や・・・・だ」
「もう何日も憑依されていたんですから、想像以上に疲れていらっしゃるんですよ。ね?お話の内容は後からお教えしますから」
そうして安原が優しく言い直しても、麻衣は頑としてベースから出て行こうとはしなかった。
しかしその頑なな態度とは裏腹に襲い掛かる睡魔は強力らしく、その会話からいくらもしない内に麻衣は再び身体を前後左右に揺らし始め、最後にはぽすりと、横に座った安原の肩に頭を預けた。 
「!」 
先の経験から、安原は思わず声にならない悲鳴を上げ、反射的に麻衣の頭を押し戻そうとした。が、
「いないと・・・・いけないの」 
懇願するような麻衣のか細い声を耳にして、安原は辛うじてそれを押し留めた。
天秤にかけられたのは生命の危機。
安くないリスクは重々承知していたが、この切なそうな声を無慈悲に払えるのは目の前の黒衣の美人くらいだろう、自分はそこまでの器量は持っていない。安原は一瞬間の内にそう判断すると、それでもいつでも逃げられる体勢を取りつつ、麻衣に肩を貸した。
後に激しく後悔することとは、覚悟の上で。 

 

  
 
 

 

  

  


#024  大事のこと
      
     

    

  

  

  

 
「先代は足が痛いって言うて普段は奥座敷からほとんど出てこんかったし、いっつも動きづらいような厚い着物をいくらも重ね着してた。その晩も派手な朱色の着物に真っ赤な帯と帯とめ結んで、金字の刺繍がしてある黄緑色の羽織を着込んでいた。少なくとも崖っぷちに建ってるお社に来るのに似合いの格好やない。そやから俺はどうしたんだって尋ねた。本当に珍しいと思ったからや」
月子の言う装いを想像して、綾子と滝川が直ぐに顔を顰めた。
その格好は趣味がいいとはお世辞にも言えない。
けれどそれは話の大筋に関わる問題ではないだろうと言葉を飲み込んだ瞬間、ベースの反対側から別の声がした。

 
「お邪魔やろうねぇって言った」
 

声は、ベースの隅で安原に頭を預けて半分眠りかけている麻衣のものだった。
訝しげに驚く面々の中でナルが最も早く我に返り、咄嗟に息を止めて影を薄くさせた安原の横でぼんやりと宙を見つめる麻衣に声をかけた。
「麻衣、意識はあるか?」
「ん・・・・・意識?・・・・・あるよぉ。なんで?ジョンに貰ったロザリオ付けてるもん。だ、じょーぶ」
ふらふらと頭が揺れ、栗色の髪が安原の頬を撫でる。
その言動の怪しさからか、態度が気に入らなかったのか、ナルは眉間に皺を寄せその場に近付き、麻衣の目の前で膝をついて問いかけた。
「では、何故そんなことを言った?」
「は?」
「邪魔だろうと」
ナルの言葉に麻衣は難しい顔をしつ視界を彷徨わせ、それからゆっくりと頷いた。
「知ってる・・・・から」
「何を視た?何を知っている?」
「ずっと時子さん・・・いたから・・・・多分、その晩のこと・・・・・・ばっかり」
ぽつぽつと途切れ途切れに囁かれる麻衣の言葉に、月子は人知れず息をつめ、麻衣を一心に見つめたまま勤めて冷静に話を続けた。
「それじゃぁ、嬢ちゃんが知っておってもおかしいことないな」
「・・・・う・・・ん・・・」
眠そうに目をこすりながら懸命に頭を下げる麻衣に語って聞かせるように、月子はやんわりと頷いた。
「そうやねぇ、先代はそんなこと言っておった」
「いつの間に・・・・そうなった?って・・・・言った」
「なんのことやって白を切ろうとして・・・・」
「とぼけるなって・・・・・・・・・」
「興奮せんといて、危ないやろうって手を貸したら」
「杖で、手を叩いた」
「ああ・・・・・」
「どう・・・・してや、どうしてくれる、お前あれだけ良くしてもろうとるやろうって、・・・・・・月子さんと大樹さんを叩いてた」
麻衣の話に周囲の者は自然、問うように月子の顔を見た。その視線に応えるように月子は小さく頷き、小首を傾げた。 
 
「確かに先代はいつも悪い足を庇う為に杖をもってたんや。それで顔を真っ赤にして俺と大樹をめったくそに打ち始めたんやよ」
「・・・・」
「悲鳴みたいな声やったからよくは聞き取れんかったけど、大体を繋げると俺と大樹のことがバレたのだけは分かった。姫神の千里眼か、女の勘か、母親の勘か・・・・何でバレたのかは知らんけど、忌み嫌いの前の晩に姫神さんはそれを知っておったんや」
「知ってた。そして・・・・酷い・・・・叩いて・・・・・・・・」
麻衣はそこで辛そうに言葉を切り、それからぼそりと呟いた。
「しばらくしたら・・・・・・杖が折れた」
「折れた?」
「うん、杖・・・・・折れるまで・・・・」
自身が痛そうに顔を顰めて涙目になる麻衣に、月子は逆に慰めるように微笑んだ。
「それだけのことをした」
「でも・・・ひっどい・・・一方的に・・・」
「悪いのは俺たちや。抵抗なんてできん」
月子の達観した素振りに麻衣はくしゃりと顔を顰めた。
それから自分の気を落ち着けるように何度も瞼をこすり、目元を真っ赤にした後で話を続けた。
「その内、大樹さんは・・・・・ぴくりとも動かなくなった」
「・・・・・・・」
「死んじゃったんだって・・・・・思った・・・・・」
堪えきれずぼろぼろと大粒の涙を流し始めた麻衣に、月子は眉根を下げた。
「嬢ちゃんは優しいなぁ」
「・・・・・だって!」
まるで非難するように詰め寄る麻衣に、月子は小さくため息をついた。
「大樹もまだ小さい子どもやったからな、確かにその時は俺かてまずいと思った。そやけど、どれだけ酷くされても、相手は力のない先代で、アテは木の棒や。悪くして気を失うことはあっても死にはせんだろうと俺は思ってたよ」
呆れて言葉を失う麻衣に対して、月子は複雑そうに苦笑した。
「それに本当の先代はもっと酷いように考えて、嬢ちゃんみたいに心配はしてなかったやろう?」
「・・・・・それは・・・・・」

 


「 『 いい気味や 』 って、人の顔見て言うてたし」
 

 

絶句する面々の動揺を他所に、月子は今や流れる涙を拭おうともしない麻衣と見詰め合った。
「そして先代さんは神棚漁って、奥に収めておった脇差を持って来たな」
「脇差ってなんですか?」
首を傾げるジョンに滝川は嫌そうに顔を顰めつつ指差し教えた。
「いわゆるお侍さんが持ってる日本刀の予備の小刀だよ。これっくらいの」
「刀?」
「刀って言っても、姫神さんへの供物やったから、刃渡り30センチくらいの小刀や。そやけど、その刃がギラっと光った時は心底おっかなかったな」
月子はぼんやりとそう言うと、首を横に傾げてその後ろを手で擦り、一段低い声でそれを言った。

 

 
 

「お前は絶対に姫神になってはならん。自分でそうしたんやから自業自得や、せめてこの場で死んで償えや。そしてこれからずっと島中の人間に怨まれろ」
 

 

 

 

月子は、しんと静まり返ったベースを見渡し、放心状態で障子にもたれていた朋樹と顔を合わせた。
そして肩を竦めて小さく零した。
「そう言われて、やっぱりこれほど大事のことなんやなって、迂闊にも初めて染みて実感した」
「まさか・・・・」
小さく響いた自身の声にようやく我に返った様子で、朋樹はそこでがばりと身を起こした。 

「そんな馬鹿な話あるかいな!?」
「・・・・」
「姫さんとダイが? ああ、そうやな。俺かてそんなん一個も気がついてなかったよ!そやってそんなんありえん話や!タブーもいいところや!!けど・・・・そうや、それが問題やない!!それが先代さんが分かったからって言って、何で死なんといけんのや!姫神さんの為に?!あほらしい!そんなわけ分からんもんの為に死ねって?!いつの時代の話や!!今は現代だぞ?!姫神さんがなんやってんや、自分が黙っておったらいいことやないか!自分かて満足に仕事もせんと、よっくそんなことが言えたなぁ。いいや、言うわけない!言えんはずや!先代の姫神さんこそ、一番姫神さんを粗末にしておったんやから!!!」
「・・・・トモ兄さん」
「それになんや、姫神さんが大事やったら、それこそ姫さんに死なれたら困るやないか!!自分の娘やないか!!自分の娘に・・・・!!!!」
悲鳴のようにつり上がっていく大声に、月子は目を細めた。
「兄さんは先代のこと・・・・よう分かってるやないの」
「何がや?!」
「忘れた?」
「だから何がや!!!」
苛立つ朋樹を痛々しいものでも見るように見つめながら、月子は口を開いた。
「先代は俺が嫌いやった」
ふいに囁かれた言葉に、それまで暴れ出さんばかりの勢いだった朋樹の動きがぴたりと止まった。
それは言ったことが事実であると暗黙の内に物語り、月子は目を細めて頷いた。
「トモ兄さんやってそう思ってたやろう?あれだけ無視されれば誰だってそう思う」
「・・・・・」
「俺かてそう思われてるかもしれんとは思っておったけど、それが本心やとは信じてはおらんかった」
「そら、そうや、やって・・・・・・先代は母親やないか」
「そやなぁ。普通そう思うわ」
「そうや、それに・・・いくらなんでも死ねやなんて・・・・」
「でもそう言ったんや」
「・・・・・」
「俺もそれ聞いてようやく、俺は先代から本気で殺したいほど憎まれてたんやってわかったんやよ」
そこで言葉を失った月子の後を追うように、麻衣がか細い声で先を続けた。
「姫神になるなんておっかなかった」
「・・・・・」
「俺には綺麗な顔も、人好きするような魅力もない。どんなに頑張ってもうまくいかないんだから、人目に晒されるだけ辛かった。島の娘がみんな憧れていた実樹さんと結婚するのも、気後ればっかりして嫌だった。こんな重たいの背負うの本当に嫌やった。嫌なことばっかりや。でも自分しかなり手がいないから、姫神をなくすわけにいかないから、我慢してなった。誰か代わりがいるなら、喜んで譲るわ」
麻衣はそこで大きくため息をつくと、襖の前に座って動こうとしない月子を見遣った。
「でも、月子に譲るのは面白くない。娘のくせにみんな俺よりうまくやる月子は面白くない」
「・・・・」
「月子は何でも持っている」
「・・・・」
「実樹さんによく似た綺麗な顔も、愛嬌があって華やかな性格も、健康も、似合いの婿も、島中からの信頼も皆みんな、全部月子のもの。月子は姫神さんをおっかながったりしない。愛されてて、全部全部うまいこともっていく。こんな辛いことを、楽しげにやってしまう」
「・・・・」
「姫神はまだ俺だって言うのに、島の人間の目はいっつも月子を追っかけていた。そらそうや、なにもうまいことできない落ち零れで、惨めったらしい俺よりも、まだ若くてまっさらで、綺麗な娘の方が皆好きになる。何が姫神さんや、何が神の子や、月子は俺を一番苦しめる厄介な子や」
麻衣の口調は時子が乗り移ったような語調だったが、月子は特に驚いた様子も見せずに首を傾げ、まるで時子に尋ねるように声をかけた。
「早く代替わりしたいって言うてたのにな・・・」
「そやって月子は娘だからな。嘘でも" 早く代替わりしたいもんや "言ってやるのが親の意地や。それに月子は俺の一人娘や。そうしないと大切な姫神さんの罰が当たる」
罰という単語に、月子は咄嗟に小さく微笑み、それからその笑みを打ち消すように頭を振った。
「俺はそれをいいように信じておったよ」
麻衣はナルの腕を掴んで立ち上がると、熱に浮かされたようにふらふらとしながら月子の方に歩み寄りその前にぽすんと座り込んで囁いた。
「なのに、なんやの? 大樹?」
「・・・・・」
「仲のいい村主の家督息子が婿におるっていうのに、それに飽き足らずもう一人男が欲しい?それでそれも手に入れてしまうの?・・・・・かわいらしゅうなんてちょっともない。なんて汚らわしい。やっぱりお前は駄目な子やったんやな。俺が思うた通りや」
搾り出すような麻衣の独白に、月子はゆっくりと頷いた。
「死にたくない。それに姫神さんがいなくなったら島中混乱する。それを望んだわけじゃない。無茶を言うてるのは分かってるけど、お願いやから黙っていてって、えらい都合のいいこと言うたな・・・・」
消え入るような月子の声に、麻衣は薄く笑った。
  

  

 

 
「 絶対に嫌や。ようやくお前が要らんようになったんやから 」

 
 
 

 

冷淡な月子の視線が真っ直ぐに射抜く中、麻衣のものとは思えない低い声が響いた。
その直後に麻衣はバチンと大きな音を立てて、自らの頬を両手で勢いよく叩いた。そうして傍らのナルに止められるまで頬を叩き続け、その手が止まると泣きはらした顔を上げて月子を見つめ言った。
「・・・・・なんでぇ」
「・・・・・」
「なんでぇ・・・・だって・・・・・お母さん、なのにぃぃ」
ぼろぼろに泣き崩れながらも、麻衣は抱きついて、その薄い胸の中に月子の顔を抱きとめた。
その突然の抱擁に月子は驚き目を丸くしたが、ややあって、ぎこちなく膝においていた腕を伸ばし、麻衣の頭を撫でた。そうして何度も栗色の髪の毛を梳り、その指が不自然でない柔らかさを取り戻してから、月子は話の続きを語った。
「さすがに頭が真っ白になったな」
「・・・・・」
「何だか分からんうちに先代ともみ合って、気がついたら脇差を取り上げとった」
「・・・・・」
「そしたら先代は真っ青な顔して部屋を飛び出して、欄干の側で殺される!って大声で喚いた」
「・・・・・っっ」
「殺したりせんよ・・・・何でそんなこと言うんやって、近付いたらいよいよパニック状態になった」
月子はそこでふっと麻衣の頭を支える指に力を入れた。
「俺はそんな気ないつもりやったけど、もしかしたら本当に殺そうとしておったのかもしれんな。それが顔に出ていたんかもしれん。先代は真っ青な顔で必死に俺から逃げるように駆けて行って・・・・重たい着物に重心取られて、滑って欄干の外に落ちたんや」

  

 

社の外、欄干の先は漆黒の闇。
地面はずっと下の谷の底だった。