その夜は美しい月が辺りを照らす、嫌に明るい月夜だった。
#026 昔、月夜に
明る過ぎる月夜は人目につくからこっそり屋敷を抜け出すにはあんまりむいていない。
しかしその夜、大樹は夜更け過ぎに屋敷の中に忍んできて、蛍を見に行こうと月子を誘った。
夏の暑い盛りのこと。うまく寝付けず暇を持て余していた月子は、いい気晴らしだと薄い掛け布を蹴り避けて、寝巻きの浴衣に部屋に隠し置いておいたスニーカーを履いた。
そうして部屋から直に抜け出そうと、月子が窓枠に足をかけると、大樹が腕を伸ばしてそれを支えた。
昔、屋敷を抜け出そうと誘うのはいつも月子で、小さな大樹に手を貸して部屋から出してやるのは月子の役目だった。それなのに、その役回りは気がつけばいつの間にか逆になっていた。
「男と女なんやから当たり前やろう」
無事に屋敷を抜け出して、揃って山道を歩きつつ、月子が笑いながらそれを指摘すると、大樹は不機嫌そうにそう言ってそっぽを向いた。
しかも大樹のくせに生意気だと圧し掛かっても、特に頓着することもなく、そのまま月子を半分おぶった体勢で山を登り、蛍を見るのにちょうどいい池の畔についても口を開こうとはしなかった。
「何怒ってんのや?」
「別に・・・・怒ってない」
「怒ってるやろう」
「違う」
「んじゃ、何や。大樹が行こう言うたから付いて来てやったのに、そんなぶっちょう面やつまらん」
「・・・・・」
「眠たいし、俺は帰るぞ」
脅しかけると大樹は慌てて手を握ってきた。
帰ると言えば本当に帰ってしまう月子を思っての行動とはわかったが、憮然とした表情とは似合わない、そのちぐはぐな行動がおかしくて、月子は声を立てて笑った。
小さい頃の大樹は笑うとえくぼができる、たいそう可愛いらしい女の子のような子だった。
しかし中学に上がった頃から風船がしぼむように笑わなくなってしまった。
月子がそれに文句を付けると、周囲の大人達は成長期なんだから仕方がないと月子を諌めた。男の子はああして無口なくらいが調度いいのだと。けれど、こうして心細そうに手を繋ごうとする大樹は、島中を駆けて遊んだ子どもの頃と何も変わりはない。
「何笑ってるんや?」
「別に・・・・思い出し笑いや」
「何やそれ?気持ち悪い」
「気持ち悪いちゃぁなんや。自分から手ぇ繋いできたくせに」
「あぁ?」
「中学なっても小さい頃とちょっとも変わっとらんなぁ思って笑っていたんや」
「・・・・・」
「昔っから大樹は俺と手を繋ぐのが好きやもんな」
特に小さかった大樹ははぐれるのを怖がって、いつも手を繋ぎたがって背伸びをしていた。
そこに足払いをかけて転ばすのが月子の好きな悪戯だったが、ある時大樹がしこたま頭を打ってから、朋樹が危ないからやってはいけないと言い出し、絶対にさせてくれなくなってしまった。
年長ぶっていい子なトモ兄さんはつまらない、と、月子は笑いながら大樹の顔を見たが、一緒になって朋樹を馬鹿にするどころか、その表情はますます険しくなったので、月子の笑い声は空々しく途切れてしまった。
「なんやの?」
「・・・・・」
「なぁ、大樹?」
怒っていると思っていたら、今度は泣きそうや。
いらんこと言いの口が、考えるより先にそれを音にしていた。
そうして言った瞬間、大樹の眉間には深い皺が刻まれ、繋いだ手は痛いまでに強く握られた。
月子がそれに文句を言おうとすると、大樹はその先をねじ消すように口を開いた。
「来年なったら、月子は姫神さんになるんやろう?」
「? なんやの・・・・藪から棒にそんなこと・・・・」
「そしたら月子はトモ兄と結婚する」
「そらそうや、トモ兄さんちょうど大学上がって島に帰って来るしな」
「月子はそれで本当にいいんか?」
「はぁ?」
「もう子どもやないんやから、それがどんなことか、月子だって意味くらい分かってるやろう?」
「意味って・・・」
「俺はそんなん嫌や」
ぎゅっと握られた手は燃えるように熱かった。
その熱はたちまちの内に全身に回って、特に耳の縁が火をもったようになった。
それが何だか怖いようで、手を振り払おうと月子は腕を持ち上げたが、大樹に更に強い力で押さえつけられ繋いだ腕はそのまま宙ぶらりんの格好になった。
仕方がないのでそれを見つめると、月の引力に引かれて、宇宙に投げ出されるような随分心細いような気持ちになった。
「嫌や言われてもなぁ」
「月子やって、嫌なはずやろう?」
「なんでそうなるんや。俺は姫神さんになるんは別に嫌やないし、トモ兄さんを嫌いでもない」
「そやけど、月子は俺が好きやん」
「は?」
「俺も月子が好きや」
「・・・・・・」
「そこまで分かってんのに、そんなん嫌や」
普段は光の塊のようにいるはずの蛍が、月の光に恐れをなしたのか、その日に限って池の畔には一匹も飛んでおらず、池の淵はおよそ生物がいるようには思えないほど静まり返っていた。
それなのに、耳の後ろがわんわん鳴って、胸がどからどからと騒がしくて、体の内側はお祭りのように騒がしい。
目が回って倒れそうだと危ぶみながら、月子は足に力を入れた。
このまま本当に宇宙に投げ出されてしまってはまずい。
慌てて飛び出したので素足にそのまま履いたスニーカーの中はムレて、じっとりと湿っていた。
その不快感が一番大切なことのように、月子は眉間に皺を寄せてそれに集中し、そんな内心の動揺は二の次のことだからと言い聞かせるように、軽い口調で大樹に反論した。
「そやって、俺が姫神さんにならんと困るやろう」
「まぁな」
「俺はこの島が好きやし、大樹かて、島が好きやろう」
「そやな」
「俺は一番の姫神さんになるってお前が言ったんやないか」
「そらそうや、月子ほど姫神さんに似合うもんはいない」
「なら・・・・」
「でも、俺は月子が姫神さんやなくても月子が好きなんや」
「・・・・・」
「そやから困るんや」
それは困るな。 と、答えようとして、月子はその言葉に愕然となった。
言ってしまったらそれは終わりだと、聡い頭がその意味に警笛を鳴らしていた。
まず何より先に姫神になる。
姫神の役は誇らしくこそあれ厭う理由は何もない。
一片の不満もない、ちょっとの不安も見当たらない。
だから何も問題がない、逆を言えばそうでなければ問題になる。
約束事を覆してしまうそれを自覚してしまったら、どっちへ転んでも痛いことには違いない。
そうしてしまったら、愛しい島は牢獄になり、誇らしかった出生は、厭わしい鎖となる。
けれどもう言葉はあんまり役には立たないようになっていたから、月子がそれを口にしたかどうかは最早些細な違いでしかなかった。
ずっと側にいたのだ。
わざわざ言葉にしなくても相手が考えていることなんて大体分かっていて、先行きを決めるのにはその大体で十分だった。
月子は嫌な予感に眉根を寄せ、叫びだしたいような衝動をなんとか堪えた。
考えれば考えただけ、切なくて胸が悪くなるだけだと、考える前から察しがついていた。
「大樹は俺の人生を狂わせる気か?」
「・・・・そんなつもりはないんやけど・・・・」
「それなら黙っておれ。俺かて、せっかく見ないふりしてこらえてたんやから」
ぱっと、頬が朱に色づき、大樹の顔が子どものようにほころんだ。
それは大好きだった子どもの頃の可愛らしい笑顔そのままだったので、月子はまた複雑な思いでそれを見つめた。
胸が締め付けられるように苦しかった。
可愛いものとだけ思っていられたら、何もこんな思いはしないですんだ。
そしてこんなに愛しく思うことが世界にあるなど知らずに、寂しく大人に成れただろう。
咽返る花の香りに溺れるように、熱に浮かされることもなく、凪の海のような心でいれただろう。
「俺も、弟のままでおったらいいんやってずっと思ってた」
「・・・・・」
「けど、胸が悪くて気が狂いそうになったんや」
「・・・・・」
「どうしても嫌やったん」
無垢だったものに手垢がつく。
その瞬間から人生は狂い、空に放って眺めていたきれいなものは地に落ちる。
世界の幸福と不幸せは全て裏返る。
それは確かに間違いだろう。
「月子は俺のものになれや」
けれど、息が止まるほど幸福だった。